第6話

 荒川に雪まじりの強い北風が吹き荒ぶ頃、福は一度に、二人の男児の母となった。

 二人が夫婦めおとになったのはまだ子供の時分だったとはいえ、それから十三年が過ぎていた。もう子供を望めぬのでは、ならば側女をお持ちになられては、と注進されることが度々起きるようになっていた。

 妻をかまう時間すら十分にないのに他の女まで面倒をみる余裕はないといって、断っていたが、氏邦自身の気持ちはともあれ、城主としてそういう立場に追い込まれている状況に、福も罪の意識を感じていた。

 そして、そのたびに、

「まだお二人とも若い。まずは藤田の血を受け継ぐ吾子さまをもうけなければ、武蔵の者たちは納得いたしませぬ。当地を完全に掌握していないのに、お方さまより先に他の女に子を産ませるなど、断じてあってはなりません」

 そう言って周囲を説得していたのが、用土の姓を引き継ぎ、すっかり藤田家の重臣となっていた福の兄重連だと後から知った。

「おぬしは、お方さまの兄者だからそう申すのであろう」

 と反論されても、

「あくまで藤田家の臣下として申し上げているのでござます」

 必ずきっぱりはね除けた。

「それがしにそのような目を向けられているのであれば、それはご自身の邪さを映しているだけなのではございませぬか」

 時には喧嘩を売るような、強い言い方をしたことすらあったという。

 それだけに、「元気な男の子ですよ」という声を聞いた福は、痛みや苦しさ、全てから解放される気がした。

 が、実際は少しも痛みが消えず、息も苦しいままだった。

「もう一人、頭が見えております」

 悲鳴に近い声がどこからか聞こえた瞬間、意識が遠ざかっていった。

 氏邦は予定を全て取りやめて、寒さも気に留めず産小屋の外をずっとうろついていたのだが、明け方二人分の泣き声が聞こえたとき、意味が分からないというふうに首をかしげた。

 それから、使いの女に知らされるとひどく狼狽した。

 双子についてはさまざまな言い伝えがある。双子は片方しか育たない、双子は呪われている、双子は心中した男女の生まれ変わり、等。

 突然のことに戸惑い、どうしたものかと熊のように辺りをぐるぐるとしているうちに、御包みを抱えた侍女たちがやってきた。

 片手に一人ずつ抱きながら見比べていると、まだくしゃくしゃだが小さな目と鼻が福とそっくりな気がした。

 先ほど生まれたばかりだろうにとは思う。だが、次第に表情が崩れてきているのが自分でも分かり、言いようのないものが胸のずっと奥の方から湧いてきた。

 世の親たちは皆このように、笑みが止まらなくなるものだろうか。

 が、侍女や控えている近習らが見ていることに気付き、咳払いをひとつしてから、

「ところで」

 とりすましたように背筋を伸ばした。

「福にはまだ会えないのか」

 侍女たちは顔を見合わせている。

「出産直後は身動きができませぬので」

「一旦お帰りいただくようにと、仰せつかっております」

 すぐには無理かと納得して、渋々表御殿に戻った。

 結局日が暮れるまで待てども、その日は何の報せも来ず、翌朝使いの小姓をやったがすぐに追い返されてきた。

 これでは仕事も手につかぬとばかりに、わずかな供回りを連れて藤田家の菩提寺である青龍寺へ赴き、子供たちの健やかな成長と、早く妻に会えることを祈願をしてから、和尚である名僧東幡とうはんの元へ向かった。

「のちほど、また相談に参ると思いますが」

 すでに双子誕生の報を受けている東幡和尚はそれだけ聞いて、心得ているというふうにうなずいた。

 ようやく夫婦が会えたのは、十日もしてからであった。

 もの静かだがふんわりした、周囲を幸せにしてくれる笑顔を脳裏に浮かべて、喜び勇んで福の寝所に入ったが、すぐに胸が冷えた。

 褥の上にうつ伏せになって、すっかり面変わりした白い顔だけをこちらに向けている様子は、全くの別人のようである。

「お方さまは、ようやく熱も下がりこうして自室に戻ってこられたのですが、なにぶんお座りになることすらできませんので……」

 お察しくださいと菊名が、頭を下げる。

 自分一人以外は全て女の空間で、ものを言えるような空気ではなく、押し黙ったまま福の方を見ていると、

「みっともない姿をお見せして申し訳ありません……でも、お詫びしないといけないと思って……」

 はらはらと福が涙を流し始めた。

「一度に二人も産んでしまったばかりに、さぞやお困りでしょう。分かっています。弟の方をどこぞにお預けになるのでしょう」

 氏邦が言いよどんでいると、

「古来より決まっていることです。問題はありません。ただ、あの子たちには悪いことをしました。私が別々に産んであげられなかったばかりに」

 そのまま突っ伏して泣き続ける姿に、言葉が出て来なかった。

 女とはそこまで気に病むものなのか?

 別々に産んでも、必要とあらば寺に預けることは普通にあるではないか。

 腹を痛めていないから、おれにはでしかないというのか?

 おれだって二人ともかわいい。手放すのは心が痛い。

 何とか慰めてやりたい気持ちがある一方、自分にはそれらを悲しむ時間が与えられずにいるような気がして、胸の辺りにもやもやとした違和感を覚えた。

 双子を産むという通常はない体験をしたのだから、回復するまでひと月、ふた月くらいはかかるだろうが、出産後になるのはよくあることだ。

 必ず元に戻るのでもう少し待って、と菊名は言った。

 だが、これまで見たこともないような様子に、不安だけが募る。

 子が生まれるとはもっと楽しいことだと思っていたのだがなぁ、とこぼすと、綱定は「そうですな」とうなずいたが、

「しかしお方さまは、藤田家の嫡男をもうけるという大役をお果たしになられたのですぞ」と言った。

「少しお休みになられる時間が必要では」

 ここからは鉢形城城代としての言葉だと、前置きした。

「武蔵の支配者としての殿は、まだまだ不安定です」

 さらに、上杉は今でも徳川へ直書を送ったりなどして誼みを通じており、依然油断ならない相手である。そちらにも目を配らなければいけない状況で、家の奥を仕切る女あるじが不在では、家業がうまくまわらない。

「ご容体が回復なされないようであれば、どこか静かなところで療養していただかねばなりません」

「追い出すのか?」

「いえ、あくまで療養でございます。通常なら離縁をして継室を貰うのでしょうが、お方さまはこちらの嫡女でございますから」

「……」

 綱定は傅役であり、さまざまなことを教えてくれてきた師である。

 綱定が正しい。

 頭では理解できた。

 しかし、福は誰よりも安心して寄り掛かれる味方である。傍らからいなくなるなど疑ったこともなかったのに、突然突きつけられた言葉にはらわたがえぐられた。

「それがしとて、お二人が未来永劫に睦まじくおられますよう願ってきました。しかし気持ちだけでは統治できません」

「言うな……」

「性急に決める必要はございません。ただ、いつか、どこかで腹は括っておかねばならないということです」

 氏邦は激しく瞬きをし、全身がばらばらになったような痛みをこらえていた。



 氏康が倒れたという至急の報せが届き、取るものも取り敢えず馬に鞭を入れ、小雪の散らつく山道を一昼夜で小田原まで駆け抜けたが、到着した時にはとうに意識を取り戻していた。

「少々目眩がしただけだ、慌ててくるほどのことでもないわ」

 頬の血色はすっかりよく、以前と変わりない精気がみなぎっている。半身を起こすと小内着からのぞく胸元に衰えは見られない。しかし、何か察するものがあるのか、

「長尾……上杉との同盟は続けるぞ。お前があれだけ骨を折ったんだからな。三郎もいる」

 氏邦の手を強く握った。

 三郎が養子に行った頃、上杉輝虎は出家し謙信と名乗った。謙信は、三郎の麗しい爽やかさをたいそう気に入り、わざわざ自身の初名の景虎という名まで与え、愛した。

「いずれ越後も、北条のものとなるはずだ」

「父上、今はそのような心配なさらずとも、新九郎兄上がきちんとされます」

「どうかな、あれは、波瑠にいまだに未練あるらしい」

 氏邦は、どきりとした。

 武田との手切れ以来、波瑠は人目を避けるように暮らした。

 彼女に咎はない。大名家同士の婚姻ではよくあることだが、波瑠自身が自分を責めるかのようにうつむき、それが身体を蝕み、ひっそりと半年後に帰らぬ人となっていた。

 珠のように大事にしていた妻を失った氏政は、しばらくうなだれていたが、しかし当主として半年後には継室を貰っている。

「新太郎?」

 遠い目になった氏邦を、訝しげに氏康は見つめた。

「いえ、何でもありません」

 ふいと視線を父親に戻し、首を振った。

「これから暑うなってまいります。くれぐれもお大事に」

 一礼して言うと、氏康の寝所を出た。

 おれは父上のようにも、兄上のようにも、なれそうにない。

 その足で氏政のもとへ向かったが、道すがら、波瑠のことを思い出していた。

 普段は落ち着きがあり、もの静かで、妻にするならこのような方がいいと幼い時分に憧れたものだが、時折これぞ武田の娘かと思わずにいられないような気の強さを出すこともあり、相模と甲斐のどちらの富士が美しいかなどと、氏邦からしてみたらどうでもよさげな夫婦喧嘩をよくしていた。

 取り次ぎの間へ入ろうとしたら、直接氏政の自室へ行くよう小姓に耳打ちされた。

「兄上」

 縁先の方へ廻って、格子越しに声をかけると、なにやら賑やかな気配がする。

 もう一度呼びかけてからのぞき込むと、氏政の継室千代と、襁褓にくるまれて乳母に抱かれている赤子がいた。

 紅梅の袿と蘇芳の単を重ねた明るく華やかな装いの千代は、静かな色合いを好んだ波瑠とはおおよそ異なった雰囲気である。

「まぁ新太郎どの、ようこそお待ちしておりましたよ」

 千代は朗らかに迎え入れた。

「や、千代さまも、お元気そうで」

「えぇ、相変わらず体だけは丈夫でございます」

 千代がおかしげに笑うと、母親の高い声に驚いた赤子が、わっと泣きだす。

「おぉ、すまんのう」と更に大きな声で笑った。

 しかし「赤子は泣くのが仕事じゃ」と、さして気にするふうでもなく、

「お屋形さまが、新太郎どのにこの子を見せたいとおっしゃったのでね。かわいい男児おのこでございましょう」

 氏邦より五つか六つほど年が下のはずだが、臆する様子もなく鷹揚に構えている。

 あまり興味がなく氏邦は憶えていなかったが、京都の名門公家から輿入れしたときいた。しかし深窓育ちという印象は全くなく、むしろ、頑丈を通りこしてお転婆が過ぎることころすらあるようだ。

「鉢形でも先日お産まれになったと聞き及んでおります。新太郎どのの鼻の下がさぞやお伸びになられているかと思いやって、皆で笑っておりましたわ」

「え?」

「きっと目尻も下がりっぱなしでしょうねと」

「いや、それは」

「冗談でございますよ」

 笑いが止まらないといったように、袖で顔を覆いながら、

「では子供をあやして参りますので、これにて」

 と乳母とともに部屋を後にした。

「あれでも、だいぶ大人しゅうなったのだ」

 去ってゆく衣擦れの音をききながら、氏政が言った。

「はぁ、おれはよく知りませんが」

 生真面目に答える氏邦を、あいかわずだのぅ、と笑った。

「名門公家とはいえ、居場所を転々とされていて、それなりに苦労はしているのだ」

 その表情は、凪いだ海のように優しかった。

「千代さまは子をお産みになってすぐに、かようにお元気に?」

 兄の口元をじっと見つめながら、氏邦は訊ねてみた。

「あれは、そうだな。産んだ翌日からもう張り切っておったわ」

 いかにもと思いながら、少し言いよどんだあと、

「波瑠さまも嫁いできてすぐにお子を産んだようでしたが、いかがでしたか」

「波瑠が産んだのは娘だったが、すぐに次は男児おのこをと息巻いておったかな。それがどうかしたか」

「いえ、聞いてみただけです」

 氏邦はすました顔で、何事もなかったように答えたが、

「わしが何も知らないとでも?」

 氏政は声をひそめた。

「福どのが気鬱になってると聞いておるが」

「どこからそれを」

「どこでもよいではないか」

 きっぱりと言い切ってから続けた。

「北条として大事なのは、いざとなった時も、藤田の姫を粗末に扱っているように思われぬようにすることだ」

「いざというのは?」

「それは三山と相談せい」

 どちらにも取れるような、物言いをした。氏邦が頭の中を整理できかねていると、

「こんな話をしに来たわけではなかろう」

 今度は、北条家当主として背筋を伸ばした。

「熊谷の築堤の件について話したいのであろう」

 それから日が暮れるまで治水の話をしたが、

「ぬしが早く帰りたがらないのは珍しいな」

 途中、氏政がぽつりと言った。



 朝暉を背に受けながら、小田原を発ち馬で街道沿いに進むと、その館は早川の河口近くにあった。

 昨日の退出際、氏政が、

「早川の屋敷に寄っていけ。お前が寄りつかないと愚痴っていたぞ」

 と言ったからである。

 愚痴の主は、姉の藤である。掛川城から退去した後しばらく転々とし、ようやく夫婦でこの地に落ち着いたのである。

 だが会うのが照れくさく、なかなか訪ねそびれていた。

 寒風吹きすさぶ浜辺は、漁から戻ってきた船の歓声で賑わっている。

 聞きながら、懐かしいと思った。

 まだ子供の頃、鍛えあげられた上半身もあらわな漁師に混じって網を引かせて貰っていた。引き始めは遊びのつもりだが、息が上がるにつれて本気になっていき、いつのまにやら裸足で半裸になって、「若ぎみさまは筋がいい、いっそ漁師にならねーか」とおだてられ、すっかり一人前の男になった気になっていたものだ。

 あの時の近習たちのはらはらした顔を思い出すと、つい頬が緩む。

 庶子である自分の隙を見せまいと肩肘張っていた頃、気兼ねなく笑うことができたのは、地下の民といる時間だったかもしれない。

 屋敷に到着早々、

「よくも、このような早朝から来られたものだ。時間を考えなさいませ」

 藤は怒り半分で迎えたが、すぐに嬉しそうに「乙千代丸よ」と呼んだ。

「幼名はお止めください。もう幾つになったと思うておられる」

「手紙を貰うたび、そなたの手蹟はどの兄弟たちよりも上達していたので、さぞや立派に成長したのかと楽しみにしていましたが、無駄に背が伸びただけで、子供の時と少しも変わっておらぬなぁ」

 気さくな言い方に、すぐ打ち解けた。

「たびたび小田原に出仕していたくせに、ちっとも寄りつきやしないのは、如何なものか」

「申し訳ありません。おれも、まぁ色々忙しかったもので」

「よう言うわ。知っておるぞ。奥方どのに会いたくてさっさと帰ってたのであろう」

「え、いや、おちょくるのはやめてください。誰がそのようなことを」

「おちょくっては無い。源三兄上がおっしゃっておったわ」

「そうですか、また源三兄上……」

「折り目正しくしているくせに、気がそぞろなのが顔に出てる。小さい頃はあんなに取り澄ましていたのに、今は隙だらけじゃ。なんだか生意気で腹が立つ」

 藤は茶を点てながら笑った。

 茶碗を弟の前に差し出し、飲み干すのを見届けてから、「いい奥方なのでしょうね」と言った。

「そりゃあね、二十年も経てば当然面影も変わるものだとは思っておりますよ。しかし、そなたの持つ雰囲気がずいぶんと和らいでいるのは、正直驚きました」

 実際、兄たちは面変わりしていても、雰囲気はさして変わっていなかったという。

「そのような相手、なかなか出会えるものではない。大切にされよ」

 潮の匂いが濃くなった。近づいてくる波の穂のさざめきに、藤は、しばらく耳を傾けていた。蔀から吹き込む風花が頬を撫でた。

「私は何も分からぬまま駿府に嫁ぎましたが、今はよかったと思っています。彦五郎さまをお支えできるのは私しかおりませんから」

 彦五郎とは、夫、今川氏真である。

「そうそう、彦五郎さまは今日はお留守だが、助五郎兄上が来られるだろうから、あと少し待ちなさい」

「助五郎兄上ですか」

 今川で一緒に育った藤とは気が合っているようだが、氏邦とは小田原城内で行き合う機会があれば挨拶は交わせど、改まって向かい合うことは、そういえばなかった。

 早川の屋形に到着して藤の部屋に顔を出すなり、氏規は言った。

「それはな、お前が原因だ。私を訪ねようともせずにすぐ鉢形へ帰る。いや、本当は避けているんじゃないかと疑っている。私もお前をもてあそんでみたい」

「今、もてあそぶと言いましたか?」

「いや、気のせいだ。それより、今回はいつもより長く小田原に滞在してたと聞いたが、どれほどだ」

 しれっと続けた。

「色々相談事が積もってましたので、もう十日ほどになりますか」

「ほう、ではそろそろ里心がついてるだろうな、さっきから一刻も早く帰りたい顔をしているぞ」

「久々に会ってそれですか。誰がそんな話を広めてるのですか」

「そりゃ、源三兄上だ」

「……」

 小田原への帰り道、

「彦五郎さまも気苦労は多かろう。今川からしたら客分扱いだった徳川どのがいまや三河の覇者として、武田と遠江を取り合おうとしているのだからな」

 駒を並べて氏規が言った。

「徳川どのとは昔なじみで、よく知っている。何かあったら、私は北条家の役にたてるぞ」

 氏邦は、馬上で揺れる兄の横顔を見つめた。

「兄上は、今川ではずいぶん厚遇され、助五郎という仮名けみょうもお貰いになった。もし今川がこのような状況になっていなかったら、どうされてましたか?」

「考えても詮なきことだ」

 別れ道で一旦馬の足を止めると、

「武蔵はそっちだ。私はこちらの道をいく」

 と指さして、振り向かずに踵で馬腹を蹴った。



「殿がお戻りになられた」

 鉢形城に緊張が走ったのは、その報せのせいだけではない。馬の名手のはずの氏邦が、道中で落馬したというからである。

 幸い氏照の居城、滝山城の近くだったので速やかに運び込まれ手当てを施された、というのが第一報である。

 その後、軽い怪我だけですんだので、すぐに戻ってくるという続報が届き、ようやく城内の空気が和らいだ。

 福はようやく体調を取り戻してきたがまだ気鬱は治まっていないので、周囲の配慮で何も知らされていない。

 帰城した氏邦がそっと福の寝所をのぞいた時には、静かに寝息をたてていた。

 ──こうしていると、何も変わらないのだがなぁ……。

 畳の横であぐらをかき、妻の寝顔を眺めながら、滝山城のことを思い出した。

 医師に擦り傷の手当てをして貰っているのを、氏照がのぞき込み、

「なぁ、せっかくだから、お前を振り落としたその馬をくれよ」

 楽しそうな表情をしていた。

「いやですよ」

「お前が落馬とはなぁ。ちゃんと俺の軍役帳につけておかないと。まぁ尤も、俺は色々な方面に秀でてるから、特別に何かの名手とは言われないがな」

 氏邦は面倒くさくなって、笛のことは黙っていた。

「ちょっと考え事してたら、手元が狂っただけです」

 あいかわずこの兄は。

 そして城主の妻として初めて出迎えてくれた比佐は、福のふんわりとした雰囲気とは相当違っていた。対応は丁寧だが、むしろ慇懃無礼とすら感じられ、人当たりのよい氏邦ですら正直息がつまるかもしれない。

 ただ、あのようになったのは持って生まれた気質なのか、氏照がそうさせたのかは、知る由もなかった。

 互いに目も合わせず過ごす日々はどれほど苦しいものであろうか。

 氏邦自身とて、福に心を開くことがなければ今頃……と思うと、人ごとではない。

 氏照がおちょくり半分に、

「子供を一人、俺が貰ってやってもいいぞ」

 と言ったのも、案外冗談ではないのかもしれない気がした。

 そう考えていると、息子を一度に二人も産んだ福に両手を合わせて拝みたくなった。小さく柔らかな手をとり、優しく握った。

「う、ん……」

 暖かな揺らぎを感じ、福が目をうっすらと開いた。

 しばらく人影をじっと見つめ、それから、「との……?」と小さな声を出した。

「起こしたか、すまぬ」

 謝りつつも、握った手を離そうとしなかった。すると、その腕に施された手当ての跡を、福が見つけた。

「これは……」

「あぁ、ちょっと落馬で」

「落馬?」

 福は、ばっと半身を起こした。が、すぐに目が眩み、氏邦の太いに支えられた。

「無理をするな」

「ほんとうに、私は役立たずで」

 その腕にしがみつき、ほろりと涙をこぼした。

「今、あなたがいなくなってしまうことが、頭をよぎって……」

「擦り傷だけで大事なかったから、問題ないよ」

「でも、あなたがいなくなったら嫌。置いて行かれるのは嫌」

 いつか見た子供のように、声をあげて泣きだした。

「大丈夫、いなくなったりしないから」

 おれは、このいじらしい者を手放せるのだろうか。

 自問しながら、空いた方の手で、幼子をあやすように髪を撫でた。

「おれは、そんなに隙だらけか?」

 呟くと、

「すき……?」

 福がしゃくりあげた。

「あ、いや、そうではなくて」

 氏邦は言いながら、自分が何を言っているのか分からなくなり、つい笑みが出てしまった。

「うん。あ、つい」

 氏邦は慌てて抱いている腕にもう一度力をこめた。

「あなたがかわいい。泣いている顔もかわいい」

「……」

「もしあなたの笑った顔が見たくなったら、くすぐってでも勝手に笑わせるから、あなたは何もしなくてもいい」

「くすぐる……」

 しばらく間を空けてから、福が小さな笑みをこぼした。

 氏邦はぱっと顔を明るくして、嬉しそうに頬ずりをした。

「大きな赤子が笑った」

「お髭が、痛とうございます。ちゃんと整えてくださいませ」

 ──翌日から、福の症状が目に見えて上向いてきた。

 二人の密やかな囁きあいは、決して他に知られることはないが、

「お方さまの場合は必ず治ると、私が申したでございましょう。そもそもご城主がいつまでもグチグチうるさいのでございます。男児なら男児らしく腹を括ってお待ちなさいませ」

 菊名にじろりと睨まれても、

「村の者たちが、かかあとは怖いものよと、よく言うておったな」

 氏邦は、肩をすくめる余裕ができた。

 ある日、高く澄み、長く余韻を残すような凛とした音が聞こえた。

 氏邦が格子を見やると、風鈴が吊り下がっていた。

「あの音に聞き覚えがあるような気がする」

「はい、小田原で三山どのにいただきました」

「しかしこの時期では、涼やかというより、寒々しくならないか」

 背中を丸めて袖口に両手をしまいながら言うが、福は首を振った。

 外の霜はすっかり消え去り、朝起こした炭は白んでいる。

「あの時お話したことが色々思い出されて、心が引き締まります」

「ほう、どのような話をされたのかな」

「女同士の秘密でございます」

 侍女が炭を崩す手元を見ながら、気になるなぁと氏邦は笑った。

 それから、

「二人の名を、ようやく決めた」

 猫背のまま、さらりと言った。

「上は東国を統べる子になるよう、東国丸。下は亀丸。寺に預けるのだから、長生きして貰いたい」

 福はゆっくり顔を上げ、氏邦を見つめた。

「乳母の手が離れたら寺にやる。いいね」

 しばし無言の会話の後、「はい」と睫毛を伏せた。



 出産直後から祝いの品がひっきりなしに届いており、用土城の兄、重連からも到着していたが、それとは別途に梅王丸が、「兄上さまから預かってまいりました」とやって来た。

 そっと差し出された桜の木箱の中には、赤い数珠が入っていた。

「まぁ、これは」

「おや、兄上さまのお持ちになっているものと似ておりすね」

 しかしそれに似せた模造品ということは、福にはすぐ分かった。兄の掌の中にあった妖しい艶とは異なり、澄んだ輝きを放つ赤い柘榴の珠が並べられている。親玉に藤田の家紋もない。そもそも赤珊瑚など、容易に手に入るはずもないのである。

「幼い頃私がねだったのを、憶えていてくださったのでしょう」

 こうして柘榴の石を集めてくれただけでも、重連のできる精一杯に違いないのは分かった。

「ならば、兄上さまがご自分でお持ちすればよかったのに」

 福は首を横に振った。

「兄上は、もう私には会わないとおっしゃってました」

「わざわざこのようなものを誂えておいて?」

「えぇ、そうですね」

「そうなのかなぁ……」

 不思議そうにしている梅王丸の、素直に重連を信じている様子が、泰邦のためにひたすら働いていた業国と重なる。

「また来ます」

 そう言って去る後ろ姿が、今はもう亡くなっている業国が優しくいたわってくれた日々を、福に思い出させた。



 そして元亀二年(一五七一)十月、数々の戦国大名たちと凌ぎを削り、その武勇をほしいままにした相模の獅子こと、北条氏康がとうとうこの世を去った。

 盛大な葬儀の中、氏政はがっくり肩を落としていたにも関わらず、涙を乾かす間もなく、二カ月後には上杉との同盟を破棄し、武田と再同盟を結ぶ旨の通告を出した。

 元々この同盟に気がすすんでいなかったのは明白で、それを気にした氏康が、亡くなる前にこれでもかというほど上杉謙信へ同盟継続の念を押す書状を送りまくるほど、氏政の態度は見え透いていた。

 実際大した有効性もなかったし、続ける値打ちはないという氏政の政治的判断は客観的に見れば正しくはあったが、氏照や氏規は、今川への背信行為をなさるのかと、口には出さねど不満げではあった。

 藤も兄の裏切り行為として激怒し、かつて自身が言ったとおり、氏真を支え共に小田原から去る道を選んだ。

 人目を憚ることなく堂々と門から出て行く際、

「皆さまには、二度とお目にかかることはないでしょう」

 ためらうことなく、真っ直ぐに前を見て言い切った。

 氏康の葬儀で小田原に一時帰還した三郎こと景虎は、始終不穏そうな顔をしていた。

「ぬしの処遇は上杉に任せるが、何かあったらすぐ助けを呼べ」

 氏政が肩を叩いたが、

「最初から覚悟しております」

 景虎は、兄の意向をとうに理解していた。

「次戻るときには、越後を我が物にしてまいります」

 それから氏邦にもかつての骨折りへの礼を述べて、北へ越山して行った。

 後ろ姿を見送りながら、氏邦は、何の成果も得られなかったかつての自分の奔走が、ひどく惨めに思えた。

 通告を受け取った上杉謙信は、氏政へ“馬鹿”を連呼するほど怒り狂ったが、景虎を手放すことはしなかった。

 そして香子は武門の棟梁家育ちらしく、ただ「皆のもの、ご苦労でした」と毅然と言っただけで、氏邦にも「そなたもこれまでよう頑張りました」と微笑んだが、氏邦は育ての母の顔を見ることができなかった。

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