第5話

 永禄十一年(一五六八)のその日、関八州一円で未明から雪が降り続けていた。

 鉢形城も昼には一面銀色に輝く光景が広がり、氏邦と福が簀の子に火鉢を持ち出して語り合っていた。水入らずでゆったりと過ごせるのは久しぶりだと、二人で冷えた指先を暖めあっているところへ、突然、駿河への出陣命令が届いた。

「火急すみやかに準備をするように」

 よほど急いでいたのか、氏康の直筆で乱雑にそれだけ書かれた書状を眺めながら、理由も分からず戸惑っていると、

「お屋形さまからでございます」

 半日のうちに仔細の書かれた、きちんとした書状が氏政から届いた。

 すぐさま開いて見ると、

「なに、武田が?」

「いかがしましたか」

 訊ねる福に書状を渡しながら、

「すぐに皆を集めよ、評定をせねば」

 氏邦は、控えている近侍に命じた。

 評定とはいっても、出陣命令はすでに下っている。そのための仔細を決めるだけである。

 横で書状を読んでいる福に、

「後ほどその書状を、評定の間へ持ってくるように」

 と言って去ろうとしたが、足を止め、

「父上の書状は、火鉢の中にくべておいて」

 そのようなみっともない手蹟を残しておくわけにはいかないと、言い残した。

 うなずきながらも、福は身震いがした。

 そこには、

「武田、駿河急襲」

 とあった。

 武田信玄が突然駿河へ侵攻、三河の徳川と手を組んで、今川を挟撃したという。

 今川はすぐさま迎撃を試みたが、主だった家臣たちはすでに調略され離反が相次ぎ、抵抗もできずに駿府城を占拠されてしまった、というのである。

 先年の甲斐、駿河との三者同盟により、今川家当主、氏真の元へ、氏康の娘が嫁いでいる。その藤は、突然のことに輿の用意すらできず、裸足のまま徒歩で逃げざるをえなかった。

 後日信玄は氏康のもとに使者を派遣し、「今川が上杉と結託して武田を滅ぼす企てをしていた」と言い訳をしてきたが、そんなもの誰も信じるはずが無い。

 妻の実家が惨劇にあい、娘が恥をかかされた氏康の怒りは、いかばかりであろうか。

 氏政からの書状を近侍に手渡し、火鉢の横に座ったまま、氏康の顔を思い浮かべた。

 小田原滞在中に数度会っただけであるが、威厳に満ちた虎のような人であった。

 使者の話によれば、実際、怒りの勢い余った氏康は、己よりも若く既に腕力も勝っていたはずの氏政を跳ね飛ばして、波瑠に掴みかかり虎のように暴れたらしい。

 にも関わらず、

「波瑠さまに当たっても仕方ないでしょう」

 そう言って庇ったという香子の心境を慮ると、胸が痛んだ。

 火鉢の中でじわじわと灰になってゆく氏康の書状をぼんやり眺めながら、氏邦が評定から戻ってくるのを待っていると、

「兄上と連絡を取り合って日取りを決める」

 バタバタとせわしない足音をたてながら、氏邦が足早に部屋の中へ入っていった。

 出陣支度だけして氏政からの返答を待つと言いながら、手慣れたように自ら筆をとりさっと近くの紙に書きつけると、早馬で送るようにと近侍に言い渡した。

 氏邦を追うように部屋へ入った福は、背後に控えるようにして座り、それを見ていた。いつもながら見事な手蹟だと、こんな時なのに、我が夫ながらほれぼれした。

「北条の人間は誰も気付かなかった」

 氏邦は振り返ると、おもむろに言った。

 武田を見張る位置にいるはずの自分や氏照も気付かなかったし、小田原の本家は、疑うことすらしなかった。

 些細な疑問も漏らしてこなかった武田の機密情報統制力には、驚くしかない。

「波瑠さまは、いかがなさるのであろうな」

「追い返されるのでしょうか」

 確かに、手切れで嫁を返す家もある。例えば三河の徳川は、御曹司の母親の実家である水野と袂を分けた結果、母親を実家に返したし、織田と敵対した浅井長政は、織田から貰った妻を返却した。

「しかし、返さない家もある」

 全てその時の政治的判断を以て決めるのだと、氏邦は言った。

「父上は怒って返そうとするだろうが、兄上がどう考えるのかな」

 福にとって波瑠は、小田原で世話になった思い出深い人である。

 しかし氏邦にとっては、波瑠同様、藤も大事な姉であった。氏邦の藤田への婿入りよりも少し前に今川へ輿入れしたのだが、手習いの練習がてら文の遣り取りだけは続けており、離れていても気心が知れた姉であった。

 波瑠かわいさに判断を誤るような愚かな兄ではないと思っているが、

「あの頑固な父上をどう説得するのだろうか」

 考えながら、出立に備えて禊ぎに入るといって立ち上がった。

 それから五日もしないうちに氏政からの返答は来た。

「では、後を頼む」

 出立する姿を見送りながら、福はもどかしさしかなかった。女は武具類に触れることができない。準備の手伝いすらできない。女は女でやらねばならないことはあるが、福とて、まだ好いた男と触れていたい年頃の娘である。

 城主の妻として葛藤し、いっそ藤田の娘であることを止めてしまいたいと思った。

 どうせ祖母に、藤田の娘として全くなっていないと否定されてきた自分である。

 そんな泣き言を菊名にすら言えず、武将の妻たちはどのようにこんな切ない気持ちを昇華しているのだろうかと、小さくため息をついた。



 氏邦は馬に揺られながら、氏政の文字を頭の中で反芻していた。

 東国において反発するものが後を絶たない北条としては、名門武田家の血を受け継ぐ男児がいた方が、今後何かと都合がよい。男児を産む前に波瑠を追い出すのは、諸将の感情を慮っても賢いとはいえない。

「今川へ援軍を送り、氏真どのに駿河の城主に返り咲いていただくようにする」と、氏康に言ったという。

 冷静な判断をし、父を従わせた兄の見事さに、氏邦は満足していた。



 後から思えば、この時が人生の中で最も忙しかったのかもしれない。これから一年、初めての大仕事で、ほとんど鉢形城不在か、いても不眠不休が続いたのだから。

「新太郎、お前がやれ」

 氏康の、このから始まった。

 武田の最大の敵、上杉輝虎と同盟を結ぶ、というのが氏康の出した結論である。当然家中のものはざわついたが、武田を痛い目に合わせるという念にかられている氏康は、上杉に武田の背後を突かせようという決意を変えることはせず、当主氏政もそこは渋々譲った。

「しかし、他国との交渉は源三兄上がやっていたのでは」

「そうですぞ。私を置いて、未経験の新太郎にいきなりこんな手ごわい相手と交渉させるのは」

 氏照氏邦が揃って、困惑したように言い返しても、

「源三は無理だ。越後は新太郎がやれ」

 の一点張りである。

「なぜそこまで新太郎にこだわるのですか」

 不満げに言う氏照を、

「ならば聞く」

 氏康はじろりと睨んだ。

は気難しい。面倒くさい。お前は、あいつを関東管領さま、上杉さま、と呼べるか?わしは呼べない」

 気押されて氏照が鼻白んでいると、

「だが新太郎なら言える。お前と違って素直だ。だから新太郎がいい」

 床板を叩いて、氏康は高らかに断定した。

「もし北条当主が呼べと言ってきても、当主は新九郎だから、わしは言わないで済む」

 頭に血が上っていても、そこだけは意地汚いくらいに冷静であった。

 面前で氏照と比較された氏邦の方が居心地も悪く、兄の顔を見られなかった。

「誠心誠意努めてみせます」

 とだけ言って、さっさとその場を辞した。

 以来、駿河と小田原、鉢形を何往復したことだろうか。できるだけ心持ちをしっかり保つようにはしていても、ふと気が遠くなる瞬間がやってくる。馬の上で寝てしまおうとしたことすらあり、その度に近侍たちを慌てさせた。

 師走の初め、氏邦は、越後へ書状を取り次ぐことのできる国衆を洗い出し、極めて丁寧に同盟を打診する書状を送った。あくまで下手に出た甲斐もあり、輝虎の側近を通じて、乗り気であるという回答を得た。

 これだけでも、大事な仕事をひとつやり終えた、胸がすくような、清々しさを覚えた。

 上杉側も、越中を窺いながらの度重なる関東出兵で疲弊していた、というのがこの話に前向きだった理由ではある。

 しかし家中では、北条は「討伐対象」という考えがなお主流であり、輝虎は限られた側近以外には極秘で話を進めようとした。従って氏邦も、氏康と氏政以外に漏らすことはせず、秘密裏にことを運んだ。

 鉢形領内のことは代官たちに任せておけたが、氏政と共に駿河に出陣もしていたので、氏邦の負担が増える一方ではあった。

 何か報せが入れば報告の文を書くのももどかしく、深夜でも最小限の馬廻りのみで小田原へ出向き、鉢形へ帰城したらすぐにまた文を書く。駿河出陣中でも文を書き、武田と国境で戦闘を行いながらも、その最中にも上杉の使者への饗応に手間をかけてたりなどしたが、不満は一度も口にしなかった。

 機密扱いゆえの、やっかいごとも起きた。

 何も知らされていない氏照が、弟が未だに手間取っていると思い込んで、独自に越後に書状を送ったのである。

 発覚したのは、輝虎からの「氏照と氏邦、どちらに返事を出したらいいのか」という問い合わせによってである。

 氏康に呼び出され、氏照は、あくまで好意でやったと言い張った。息子たちの面子を潰したくない父親は、苦肉の策として、以後二人連名で交渉させることにした。

 これに対してもやはり、氏邦は特に不満な顔を作らなかった。

 申し出を了承した輝虎は、北条との同盟について家臣団に明かすことを決め、氏照からの書状を披露した。具体的な交渉まで進んでいた氏邦の書状は、公開を控えた。

「公表できない内容とは何ですか」

 氏照が訊ねても、

「言えぬ」

 氏康はかたくなに拒んだ。

「飲まねばならぬ条件を、なぜ言えないのですか」

「飲まぬから、言わぬ」

「もうよいではないですか」

 隣から氏政が口を挟んだ。

「父上に、上杉さまと呼べと要求してきたのだよ」

「やめろ、言うな」



 時折、連名の花押をしたためるために、氏邦が滝山城へ出向いた。

 元々氏照は持病で寝込むことが多く、訪れた際も数日待たされることがよくあったが、その間、氏邦が比佐と顔を合わせることはなかった。

 福は普段差し出がましいことを言いもしないが、

「あちらがいらっしゃるのが筋では」

 一度だけ漏らしたことがある。

「そう言うてくれるな」

 氏邦が困ったような顔を見せると、

「独り言です、聞かなかったことにしてください」

 すぐに頭を下げた。

 氏邦は両手で福の頬を挟み、額を重ね合わせた。

「気持ちだけ受け取る」

 言いながら、いつぞや氏照が、身体さえ言うことを利けば俺ならもっとうまくやれるのに……と呟いたのを思い出した。

 その割りには比佐を放置して外に女を囲う余裕はあるのだなと、その時は思ったのだが、改めて滝山の城内を見ると、やはり鉢形と違い小田原から派遣された家老が多い。

 奉者の大部分が三山綱定一人で、あとはお前が全部やれと言われているような氏邦とは、待遇が全く違う。

 本妻腹と庶子腹の格差であるというのはとっくに受け入れてはいたが、もしかしたら、氏照の身体に負担なきようという配慮だったのかもしれないと気付いた。



 その間、当初手を組んでいた武田と徳川は、国境で武力衝突を起こし手切れとなっていた。

 徳川家康は、武田から駿河を取り戻したあかつきには今川氏真を駿河の太守に返り咲きさせる、という約束を氏康に持ちかけ、徳川と北条は同盟を結んだ。

 氏康は、掛川城に立て籠もっている氏真を小田原で預かることにしたが、氏政の息子を氏真の養子にして、将来は駿河も北条が接収しようと目論む、抜け目のなさであった。

 旗色の悪くなった武田は、西で勢力を拡大しつつあった織田信長に協力を頼んだが、その織田は室町将軍足利義昭の世話に夢中で、けんもほろろに追い返された。

 そして六月、氏邦の骨折りの甲斐が実り、北条と上杉の同盟が成立した。

「おめでとうございます」

 報せを受け、氏邦の帰城を待ち構えていた福が、恭しく出迎えた。

「うむ」

 氏邦はやりきったように、満足げにうなずいた。

「これで一人前になれたろうか」

「えぇ、そうですね」

 喜ぶ夫に水をさしたくはなかったので、福はしばらく黙っていたが、やはりどうしても気がかりなことがあったので、

「これは私の独り言です」

 意を決して、呟いた。

「誓詞の血判は、ご本城さまとお屋形さまのみで、あなたのお名前は……」

「それは言うてくれるな」

 言い切る前に、氏邦が口を挟んだ。

「おれはまだ駆け出したばかりだから、仕方のないことだ」

 静かな水面のような笑顔に、福は言葉を失いうつむいた。

「申し訳ありません」

「いいえ、あなたの気持ちだけで、おれは救われるから」

「新太郎さま……」

 若い二人は初々しげに、気持ちを確かめあった。

 その頃上杉輝虎から、花押を入れるだけで何も骨を折っていないと、氏照に対して厳しい言葉が送られていた。

 越後の龍は、氏康の息子たちの働きをきちんと見ていた。



 荒川に覆い被さる紅葉はとりわけ美しいというわけでもないが、枯れた枝々が両岸のところどころを焦がしたように、不思議な斑模様を形成し始めてきた。

 鉢形領一帯から仰がれる高根山には、見張り用の砦が設けてある。飛び抜けて高い嶺ではないが、領内外の街道を見渡すのに適した場所であり、荒川の流れの細かい変化すら見逃すことはない。

 冷たいというには少し早い山風にあおられ、木々が一斉にざわめいた。

 その声に乗り、危急を知らせる見張り場の半鐘の音が、四方八方に響きわたった。

 伝える意味により鐘の鳴らし方は細かく定められており、それによれば、臼井峠方面の街道から大軍が押し寄せてきているとのことだ。

 普段より氏邦は秩父の修験場を保護し、その修験者たちが斥候として各地の情報もたらしてくれている。先立ってその者たちより、武田が進軍を開始した模様という報せは受けていたので、鉢形城の迎撃準備はしていたが、氏邦が思っていたよりも遥かに早く、多かった。

 武田軍は二万にもなるという。

 もちろん鉢形城の、守りには自信がある。しかし武田も十分に下調べをしてきているであろうし、越後軍のように簡単に事が済むだろうか。

 季節柄、兵糧はすでに鉢形城内に回収済み、民も避難済みなので、氏邦は今回も籠城策を取った。

 万一に備え、福も女たちを引き連れ、薙刀を構える。

「もし新太郎さまに何かあったら、私が指揮をとりますから、ご安心ください」

 頼もしく言う妻に、

「いやだなぁ、何かって何ですか」

 氏邦は苦笑いした。

「子供の頃、あんなに薙刀を嫌がって逃げていたのに」

「もう子供ではありませぬ」

 ふくれ面さえも、ふんわりと和む。本人はいたって真面目にやっているのだろうが、おおよそ似つかわしくない勇ましい袴姿は、城主の妻として頼もしいというよりも妙なおかしさがあった。

 そして、自分の戦う姿をかわいい妻に見られると思うと、むしろ血が滾るような高揚感があった。

「松明を絶やさすな、見張りを怠るな」

 荒川対岸で陣を張る敵を矢玉で挑発し、うっかり川を渡り始めた兵に頭上から火矢を射掛けるが、その程度で武田軍は陣形を乱すこともなく、初めの三日は睨み合ったままであった。

 挑発するために、氏邦自ら馬出しから飛び出し、矢をつがえ、返り血を浴びて戻ってきた。大きな怪我はなかったが、いつも目が血走っていた。

 ところがだ。

 四日目の早朝、霧が晴れる頃には跡形もなくなっていた。

 斥候に痕跡を追わせると、こちらが気付く前、夜半のうちに川を渡りきり南下したようだった。

 なんと素早い……などと呑気に関心している場合ではなく、すぐに追撃の準備をした。

 しかし武田軍の逃げ足は、来た時と同様に早かった。

 歯噛みする思いはあるが、行く先はすぐに分かった。このまま行けば、ひとまず滝山城へたどり着くはずだ。

「至急滝山城へ使者を飛ばし、源三兄上と挟み打ちにしてやる」

 くそ坊主、待ってろよ!と、颯爽と飛び出していった氏邦を見送り、福は女たちの武装を解かせた。表御殿は残った守備隊に任せ、自身は奥へ戻った。

 戻りながら、夫の普段とは異なる顔を思い出していた。

 平素から覚悟はしていたが、氏邦を通して、戦場を垣間見た。

 睨み合っていた程度のいつぞやの小田原や、前回の越後軍襲来時の籠城とは、全く違っていた。

 いざ血を見たら、皆たちまちのうちに獣に変身する。

 敵を目の前にした時の顔が、日を追うにつれ徐々に変わっていくさまが、そう感じさせた。

 ──ひと月後には再会が叶ったが、今度は別人のように頬がこけ、あれほど溢れていた血の気は信じられないほど失われていた。

 武田との決戦で負けた、という報せをすでに受けていた福は、

「お帰りなさいませ」

 と言ったが、その呼びかけにも、無言でうなだれるだけである。

 口には出さねど、落胆ぶりはいかほどであろうか。

「腹は減っておらぬ」

 ぶっきらぼうに言って居間に寝転がると、隣に座った福の膝に頭をのせ、ひょいと片手をあげた。

 福はそれを両手で優しく握りしめた。

「風が強うなってまいりましたね」

「そうだな」

「私など袿をこれだけ重ねても底冷えがしますのに、殿は小袖だけで大丈夫でございますか」

「うん、問題ない」

 それからお互いしばらく黙っていたが、やがてぽつりぽつりと氏邦が口を開き始めた。

「滝山までいったら、武田は小田原へ発った後だったんだ」

 滝山城で行われたという戦闘には間に合わなかったようだ。

「それから源三兄上と合流して南下する途中、小田原の兄上から連絡が届いて」

 小田原城を取り囲んだ武田軍が甲斐方面へ戻り始めた、急ぎ三増峠へ向かって帰路を断て、とのことであった。

「おれたちは峠の上に陣を張り、小田原から追撃してきた本体と、武田を挟み打ちにするはずだったのに」

 しかし氏政軍が到着する直前、氏照軍が山を駆け下り武田軍を襲撃開始したのである。

 武田信玄はここぞとばかりにえげつないほどの戦上手ぶりを発揮し、まんまと逃げ果せたばかりでなく、混乱した北条軍に大打撃まで与えていったのであった。

「なんで……本隊を待たずに走り出しちゃったのかな……」

 氏邦の頭の中には、俺ならもっとうまくやれるのに……という氏照の言葉が残っていた。

「それに小田原の兄上が上杉に援軍を頼んでたはずなのに、来なかったんだよな。なかなか上手くいかないなぁ……」

 泣きそうな声で、子犬のように福の膝の間に顔を埋めた。

「今までたいがいのことは、卒なくやってきたはずなのに」

 ちらりと漏れた氏邦の本音に、福は胸がきゅっと潰されたように痛くなり、

「生きていれば、そういうこともございましょう」

 と、握りしめた骨ばった指に、愛おしそうに唇を寄せた。



 永禄十三年(一五七〇)の早春、上杉輝虎に送る人質は、氏邦より六つ下の三郎に決まった。

 三郎の母親は、氏邦の母親と同じく香子の腰元の一人で、美しさが際立っており三郎もよく似た稀代の美少年であった。

「さすがに、輝虎も文句はあるまい」

 やつは女は要らないからなと、氏康は言う。

 衆道が悪いことだとは思ってもいないし、むしろ必要であるとすら思っているが、

「父上は、お人が悪い」

 小田原から戻ってきた氏邦は、湯漬をかきこみながら、傍らに座している福にこぼした。

「まるで、三郎を嫁にやるみたいな言いぐさだ」

「でも、人質とはそういうものなのでは」

 福がたしなめるようにして、長柄銚子を手にとった。

 氏邦は盃をあおりながら言う。

「でも言い方ってものがあるだろう」

 越後に到着次第、輝虎の姉の娘と祝言を上げることも決まっている。

「三郎は上杉の跡取りになりに行くのだ」

 北条のために越山する覚悟をしている弟を、まるで輝虎に与えるおもちゃのように言うのが、氏邦には気に入らなかった。

 つくづく真面目な方なのだ、と福は思った。

「おぉ、そういえば」

 珍しく酔いがまわり、氏邦があぐらを崩したが、福は咎めずに優しく手を添えた。

「源三兄上が最近、飯縄権現に傾倒しているらしい」

「まぁ、なぜに」

「この前の三増で、武田を討ち漏らしたのがあまりにも悔し過ぎて、上杉の真似をして拝むことにしたそうだ」

「まぁ、でも飯縄権現を拝むというのは」

 その法力を得るために、不犯の誓いをするということである。

「新九郎兄上が呆れかえってたよ」

 跡取りがいないのになんという真似をしてくれたのだと、氏政は頭を抱えた。

「どうなさるのかしら」

「どうせ飽きるまでなんだろう。尤も飽きなければ、養子を貰うことになるんだろうが」

「それはそうですけど……」

 福は口をつぐんだ。

 氏照の妻比佐は幼少より仏道にのめり込んでおり、京都から高僧を招き熱心に教えを乞うていたが、近ごろはさらに度を越えてきている、とは聞いていた。

 なるほど、そういうことだったのか。

 氏照には、妻の比佐以外に、何人も女がはべっている。その女たちは実家に返すか、どこかに縁付かせてやれば済むだろう。

 しかし比佐は、氏照の婿入りした大石家の家付き娘である。子もないまま一人放置されて行き場のなくなった比佐のやるせなさを思うと、人ごとではなく、胸が痛くなる。

 ひと月後、三郎の出立準備がなかなか進まないのに焦れた上杉から、

「出立するまでの間、証人を送ってくるように」

 という要望があり、交渉を担当してきた氏邦が行くことになった。

「さほど長くはいないし、輝虎の陣に従うだけだから」

 心配ないと氏邦は言うが、福は、夫が大将格として戦さの指揮を執りに向かうよりも、遥かに身震いする思いだった。

 小田原やら戦さやらで長期間城を空けることはこれまでもあったのに、これほど心が揺れるのはなぜであろうか。

 しかも、上杉とは同盟がなったとはいえ、伊豆への出陣要請に対して一向に腰を上げようとしない。北条が散々譲歩して成立したにも関わらず、上杉はなお、西の織田とも手を結ぼうとしている。どこまで信用できるのだろうか。

 だが、そんな漠然とした不安も単なる杞憂に過ぎなかったと、福は気付いた。

 年号が元亀に改元された頃、緋色の木瓜が咲き誇る天神山城の大手門を登り、戻ったぞと手を振る氏邦は何も変わっていなかった。

「よくぞご無事で」

「心配ないと申したであろう」

「でも……」

 福は正直に、自分が必要以上に過敏になっていたことを打ち明けた。

「なぜ、そのような」

 氏邦は呆れ返っている。福は、小さく笑った。

「私の心が妙に尖っていた理由は、これでした」

 夫の手を自分の腹部に導き、耳打ちした。

「まことか」

 福を抱き上げようとして、慌てて手を引いた。

「危ない真似はやめておこう」

 やさしくかき抱いて、くれぐれも身体をいとえよと囁いた。

「ようやく……」

 こらえきれないように、大きく息をはいた。

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