第4話

 雪雲もそろそろ近くなってきた、この年の末。またもや北から厄災が降りかかってきた。

「性懲りもなく、またイナゴの大群どもめ」

 その報せを小田原の評定中に受け取った氏康が、いまいましげに注進状を床に叩きつけた。

「長尾には虫酸が走るわ」

「もしや上杉軍が越後を発ちましたか」

「誰だ、今上杉って言ったやつはッ」

 上杉を名乗るなど何があっても認めんと、中腰になり、その場にいる全員を殴り倒さん剣幕で怒鳴り散らす。

 当主の場に座していた氏政が、「ぬしら、ご本城の前でそれは禁句ぞ」と必死で父親を取り押さえた。

「申し訳ありませぬ」

 評定衆が一様に頭を下げながら、氏政に加勢した。

「どうぞお心をお静めください」

「早急に越後の凶賊退治を講じましょうぞ」

「ご本城さま」

 父上相当ご機嫌悪いなぁ……。 

 氏邦は元服以来、評定に加わるようになっており、末席から、くるくる変わるそれぞれの表情を見漏らすまいといつも懸命に窺っていた。

 ゆえに、「再び里見との対戦をしようという時に、越後の食い詰め牢人どもが、時候の挨拶でもするかのように山を越えようとしているのだから」と、父の怒りに同調していた。

 関東平野の恵みを掠奪し、火を放ち、民に傷跡を残すだけの北狄に、自国の糧を差し出してまで北条に抵抗しようとする連中とは一体何者なのだろうと、まだ若い氏邦は分かりかねていた。

 荒れた評定が終わってから、氏政の自室へ向かうと、

「やあ新太郎。待ってたぞ、まず一献どうだ」

 先に戻っていた氏政は言いながら、用意していた杯をすすめてきたが、

「こんな時間に。父上に見つかったら怒られますよ」

「少しなら大丈夫だろ」

「酔ったら馬に乗れなくなります」

「泊まっていけばよかろう」

「できれば今日中に発ちたいのですが」

「ぬしは相変わらず真面目だのう」

 子供のように唇を尖らせた。

「たまに息を抜かないと、もたいないぞ」

「息を抜きたいから帰るのです」

故郷さとなんだから、ゆっくりして行け」

「福と一緒にいる時がゆっくりできるのです」

「ぬしの、のろけの才能に呆れるわ」

 堪えきれず氏政が笑い出した。氏邦は何がおかしいのか分からず、不満顔である。

「兄上も波瑠さまといつもべたべたしていて、お母上さまに、はしたないと怒られていたではないですか」

「それは若い時の話だ」

「おれも今はまだ若いです」

「ぬしも、なかなか言いよる」

 気が済むまで笑うと、再度杯を差し出した。

「一人ではつまらんから、舐めるだけでいい。つきあえ」

 今度は断らずに、氏邦は素直に受け取った。

 生真面目にそれをひと息で飲み干すのを見て、

「素直だの」と、氏政は脇息に肘をついた。

「ところで、初陣はすませていたよな」

「はい、藤田の抵抗勢力の残党狩りでしたが」

 とくに戦闘にもならないような程度のものだったと答えた。氏政はそれでも得心したようにうなずく。

「年が明けたら、里見攻めに参加して貰うぞ。まだ前線にやるつもりはないが、万事、三山綱定とよく相談しておくように」

「しかと承りました」

「藤田の当主として、初めての大仕事だぞ」

「はい、関八州平定のため、北武蔵のあるじとして精一杯努めます」

 いよいよかと、氏邦は引き締まった表情になった。

「それと、この間言っていた鉢形の城だが、父上に申し上げておいた」

 氏政に言われて、頬がみるみる上気した。

「いいのですか」

「その代わり、今まで学んだことを注ぎ込んでみよ、と」

「はい、やってみたいこと、全部やります。後から思いついたことも、何年もかけて改修して、皆が驚くようなものを造ります」

「それから」

 氏政がさらに続けた。

「今わしと父上とで発給している北武蔵への朱印状、そろそろぬしに任そうと思っておる。青龍寺にでも相談して、どんな印にするか考えておけ」

「は、はい」

 思いがけず次々とやって来た申し付けに、気持ちがいっきに昂ぶった。



 翌年早々、北条がすでに支配下に置いている下総西部へ攻め入るべく、里見が反北条の房総諸将を率いて下総の国府台城に陣取った。

 上杉政虎改め、輝虎は、この時厩橋城に居座っていたが、常陸での反乱制圧に手間取り、里見へ援軍を送ることはできない。

「今のうちに決着をつけて、房総も我らのものとするぞ」

 氏康は気焰万丈に、里見軍の倍にものぼる大群を率いて出陣し、ひと月後には里見軍を潰走させた。

「おぬしは、初陣だったか?」

 本陣でぎこちなく床几に座っていた氏邦に向かって、兄、氏規が声をかけた。

「や、これは助五郎の兄上」

 助五郎こと氏規は、幼少の頃から人質として駿河の今川家に滞在していた、三つ上の兄である。

 今川は香子の実家なので、氏規は人質というよりも今川嫡流にとっての甥っことして大切に扱われ、駿府の今様の華やかな生活に触れながら、西国より流れてきた公家とも誼みを通じ、今でも畿内の事情に明るい。

 立ち振る舞いも育ちのよさが出ていて、武蔵の山奥に引きこもっていた自分とは同じ兄弟とは思えないと、氏邦は感じていた。

「初陣はすませておりますが、大きな戦さはこれが初めてです」

 氏規はゆっくりとうなずいた。

「ふむ、なるほどな。此度は大きな戦さを使って、後方で経験を積ませて貰えるのだから、今後はもっと大きな仕事を任せたいと思われておるのだな」

「そうですか……」

「これから上野こうずけを狙う北方の連中と対峙するのだろう。面倒な連中だからな。お前は父上に期待されているのだよ」

 人の気分をよくさせる巧みな持ち上げ方は、都会仕込みなのであろうか。

「私はこれから三浦へ移り、海を挟んで房総を窺うことになる。まぁ忙しくなるだろうが、お前ほどではないな」

 では、またな、と氏規はゆったりとした足どりで去って行った。

 里見を敗走させた後、氏康は気をよくして小田原に戻った。

 氏邦も天神山城へ戻らず、そのまま氏康に帯同となった。

 氏邦不帰の報せを受け取った福は、

「なぁんだ……」

 さすがに落胆を隠しきれなかった。

 櫓の高覧から出陣を見送った時は、

「ここからが私の仕事」

 と、自分に言い聞かせて気を張っていたのだが、早々と北条の勝利の知らせを受け取ったので、いつ氏邦が帰ってくるのか今か今かと待ちわびていたのである。

「でもこれからは戦さに出ることが増えるのだから、このようなことは頻繁に起きる。いちいち落ち込んでいては、家を支えることなどできやしない」

 奥のとして、すぐさま気を持ち直した。

 共に戦うのはではないが、帰ってくるのを待つ間の不安は、思っていたよりずっとしんどい。しかし、城に残された女たちに不安を感じさせないように奥向きを明るくするのが、城主の妻の仕事でもある。

 このような時、母がどのように振る舞っていたのかと思い出そうとするが、ものごころ付いた時には、すでに母はそばにいなかった。

 成長したら勝手に大人になっているものだと、漠然と思っていた。

 募る不安を隠すように無理にはしゃいで見せるが、あとから「子供っぽ過ぎたかな、幼稚だと思われてやしないか」と、また不安になる。

 空回りする悲しさを埋めるように一人でこっそりと氏邦を思い出すが、浮かぶのは、福を求めてくる時の真剣な顔ばかりである。あの顔は私にしか見せていないのだと思い期せずして頬が熱くなることもあるが、それに気付いた城の女たちは、年若い女の初々しさを微笑ましげに眺め、日常を感じてほっとしていた。

 そういえば、痩せぎすだった身体は近ごろふっくらとし、首のかしげ方ひとつ取っても華やいできているようだった。



 その頃、里見と呼応して蜂起していた奥多摩の領主、三田氏をようやく葬り去った氏照も、小田原へ帰還していた。

「よお、下総はどうだった」

 軍役帳を眺めながら城内を歩いていた氏邦の肩を、慣れたふうに氏照が背後から抱いてきた。

「兄上こそ、奥多摩はいかがでしたか」

 聞かれるのを待ってましたとばかりに、氏邦の顔をくしゃくしゃに撫でまわす。

「まぁな、俺一人で多摩へ戦さに行って、もう大変だったよ」

「それは大変でございましたね」

 うるさそうに、氏邦はそれを払いのけた。

「そういうお前は、父上の陣にいたんだろ、どうだった」

「おれは後ろの方で見てただけなので、さして大変ではありませんでしたよ」

「つれないなぁ、そう拗ねるなよ」

「拗ねてはいませんよ。むしろ尊敬してます。一人で逆方面を任されているのですから」

「そうだろう。だったらもう少し俺のこと、あ、ちょっと」

 みなまで聞かずに、氏邦はさっさと一人で歩きだした。

 明日北武蔵に戻ると氏政へ伝えに行くと、風呂に入らぬかと誘われた。

「最後くらい一緒にいいだろう」

 特に断る理由はないし、二人きりで話がしたいのかと思い、応じることにした。

 入り口に破風造りの小さな門が誂えられた湯屋に入ると、すぐに浴室があり、その奥には湯をはった釜と、火焚き場がある。風呂とは、蒸し風呂のことだ。

 小姓を外に待たせて中に入ると、浴室には帷子が二つ並べて敷いてあり、二人だけで話すにはいい。

 湯帷子を着たまま、その上に仰向けで寝ころぶ。

 蒸気で白い中二人とも、徐々に増していく熱気を黙って耐えていた。

「大変か?」

 氏政が先に口を開いた。

「上野との国境沿いで、国衆たちも、南武蔵などより遥かに扱いが難しい。父上の命令であっても、元服も済ませていないぬしに任せるのはわしも不安であった。しかしぬしは、思ってたよりもずっとやってくれている」

 首だけ、氏邦の方へ向けた。

「北条のためというのを全面に出したら、連中はすぐに反旗を翻す。藤田の当主としてどれほど心を砕いているのかと考えたら、後見人に三山一人しか送れなくて申し訳ないと思うとる」

「いえ、むしろ北条の者がおらぬ方が、国衆に野心を疑われずにすみます」

「わしもそろそろ、ぬしへ、幾ばくか補佐の家臣を送ってやりたいと思ってはいるのだがな」

 本妻腹の兄たちと、庶子腹の自分との扱いの差を感じてはいたが、認める勇気がなくて見ないふりをしてきていた。しかし氏政の言葉で、やはりそうだったのかと向き合わざるをえない。

 が、同時にこの兄が案じてくれていたことも知り、少し泣きたくなった。

「わしもな、本来は呑気な次男のつもりで育ったから、突然跡取りの座が巡ってきた時は戸惑った」

 氏政には兄がいたが、数年前に病で急死している。

「亡くなった兄上はとてもしっかりしていたから、わしが当主になって皆さぞやガッカリしておるだろうなと今でも思うとる」

 手のひらで額を拭った。

「だからな、弟たちにこうして弱みを打ち明けているのだ」

 氏邦も、氏政の方を見た。額から汗が一斉に流れ落ちた。

「おれはまだ子供でほとんど憶えておりませんが……兄上がいてくれてよかったと思ってます」

「ぬしが一番ありがたい弟だな」

 氏政は笑った。

「一つだけよかったこともある。わしが次男のままだったら、波瑠は兄上のものになっていただろうからな」

「確かに」

 氏邦も上気した顔で笑った。

 氏政は片膝を立てて半身を起こすと、

「福どのも大人になったろう」

「そうですね」

「もう契ったのか」

「は?」

 戸惑った氏邦の下半身に視線をすべらせ、「聞くまでもないな」と笑った。

「ちょっと、兄上、お人が悪い」

 氏邦は慌ててうつ伏せになった。

「からかわれるのは、源三兄上だけで十分ですよ」

 源三とは氏照のことである。

「もうしばらく小田原に残れ」

「いえ、明日帰ります」

「つれないことを言うな」

「そう言って、この前も引き止めたではないですか」

「ぬしがおらぬと、つまらぬ」という氏政を振り切って、氏邦がようやく天神山城に到着した時には、秩父の桜もとうに過ぎ去っていた。城門の葉桜の緑が紅色の実とかわいらしい対比をなして、氏邦を出迎えた。

「お疲れさまでございました」

 丁寧に両手をついて待っていた福の顔は、桜の実よりも紅く、堪えきれない嬉しさが溢れている。

「お忙しいでしょうけど、とりあえず本日はゆっくりお休みくださいな」

 そうは言ってもゆっくりなどできないでしょうけど、と笑った。

 人目を憚らず今すぐにでも抱きしめたい衝動を堪え、氏邦は城主らしく大人の顔を作って、そうだなと素っ気なく答えてみせた。

 身分も何もない人間であれば、この場で押し倒すのにと一瞬考え、

「おれは獣だったのか」

 女に溺れて国を滅ぼすというのはこういうことなのか、と戸惑った。

 頭を冷やそうと自らを御して、まだ仕事の続きがあるからと言って自室に籠もってしまった。

 膨らみかけた月が天上まで上りきった頃、福自ら着替えの小袖と水桶を持って氏邦の元へ行くと、燭を灯したまま褥も敷かずに床に転がりいぎたなく寝込んでいた。文机の周辺には、文書やら地図やら軍役帳やらが散乱している。

 案の定という具合に、

「あなた。新太郎さま」

 福がそっと揺り起こすと、氏邦は、うぅんと唸って寝返りをうった。

 寝ぼけ眼で福を見上げ、

「やぁ、これは」

 言いながら、そのまま福の袖を掴み引き寄せた。寝ころんだまま福を抱きしめ、再び寝入ってしまった。

「新太郎さま」

 福は困ったように声をかけたが、すぐに諦めてそのままじっとすることにした。夫の胸元の匂いが心地いいと思っているうちに、いつしか一緒に目を閉じていた。

 どれほど時間が過ぎただろうか、正面から見つめてくる氏邦の気配で、福は目が覚めた。

「なぜ、ここで寝ている」と、訊ねる氏邦に、

「あなたが……」

 途中で言うのを止めて、福は恥ずかしそうに起き上がった。

「きちんと起きるか、寝るか、どちらかにしていただかないと」

「あ、いや、確かにそうだな」

 氏邦は素直にうなずくとゆっくり起き上がり、髷の曲がった頭を搔きながら、袴の皺もそのままに胡座を組み直し、大きなあくびをした。

 小窓からのぞく月は、まだ高い。

 持ってきた桶を福が差し出すと、氏邦は両手で顔を洗った。

「兄上に引き止められていたせいかな、あなたに会いたくて仕方なかったんだ」

 自分で新しい小袖に着替えながら、氏邦がつぶやいた。

「独り寝があんなにつまらないものだったなんて」

 小田原では夜通しの評定がなければ案外することがなく、戌の刻にもならないうちに寝てしまっていたが、その間思い出すのはずっと福のことばかりであった。

 氏邦は几帳の裏の方へ廻って、なにやらごそごそ始めた。

「明日あなたにこれを見せようと思ってたのだが」

 そう言って取り出したのは、印章であった。

 氏政に言われて以来、青龍寺に内容を相談していたのが、ようやく出来上がったのである。

「これからはこの朱印を使って、武蔵を治めます」

 一枚懐紙を取り出して押してみると、それを福に手渡した。

 

 翕邦挹福きゅうほうゆうふく


 くにを集めて一つになれば福を掴む、という意味だという。

「いい文字を選んで貰ったと思っている」

 邦と福の部分を指さした。

「まぁ、これは」

 言葉にしない愛の告白を受け止め、氏邦を見る福の目が潤んだ。

「これは、いただいても?」

 氏邦は照れたようにうなずきながら言った。

「これからはいつもあなたと寝所を共にしようと思う」

「え?」

「寝所を一緒にすれば、色々密談もできる」

「密談……?」

「できる限りでいいから。な」

 本人としてはいたって大真面目に言っているのだが、実際は密談と言うほどのことでもなく、褥に寝ころがって頬杖をつきながら自分の着想や迷いごとをただ打ち明けるだけであった。

 福は横に座って静かにうなずきながら聞き、たまに思いついたことを言う。

 氏邦は「おれもちょうど同じことを考えていた」と嬉しそうに返し、聞いて貰えるだけで胸のつかえが取れたと言って、気持ちが落ち着いたように、そのまま安らかな顔で寝息をたてた。

「まぁ、子供みたいに」

 その度に、氏邦の口元にかかる後れ毛を指先で払ってやりながら、福は呟く。

 隣に横たわると、いつも寝ぼけたように氏邦がしがみついてきた。

「しょうのない人だこと」

 胸にふわりと何かがおりてくる感じがして、そのまま抱きしめるようにして福も目を閉じた。

 正直なところ、甘い睦言を期待していなかったといえば嘘になる。が、この人はこういう性分なのだ、と思ったので恨みはなかった。

 寒い夜分には、すっかり凍えきった福の足を撫でた氏邦が、「冷たい」と歓声に近い声をあげたことがあった。

「なぜこんなに冷たいんだ。おれなんか暑いくらいなのに」

「女とは冷えるものなのです」

 不満げに言い返し福は、足の指で、氏邦のくるぶしに触れてみた。

「猫みたいに暖かい」

「おれが暖めてやる」

 笑いながら氏邦が両足で、細い脛を挟み込んだ。

 不思議なくらい二人とも笑い転げて、笑い疲れて寝入った。

 またある日、小田原から氏邦が渋い顔で戻ってきた時があった。

 どうかしたのか、福に問われて、

「それがなぁ」

 言いかけたがすぐに、うぅ、ん、と言いよどむ。

 無理に追及はいたしませんと、福は引いたが、じっと氏邦の目をのぞき込んだ。

「あ、いや」

 氏邦は、慌てて視線を逸らした。

 口数が多くはないが、分かってますというふうに語りかけてくるような、全てを打ち明けたくなる不思議な目である。

「兄の……恥なのかなぁ」

 少し逡巡したが、やはり言いたい気持ちが勝った。

「大した話ではないんだが、源三兄上がな」

「滝山の兄上さまがどうかされましたか」

 去年氏照がようやく葬った三田氏は、落城寸前に子供たちを逃がしたのだが、そのうちの一人が潜伏先で見つかり、現在滝山の城下にて氏照が庇護しているという。

「それが若くて美しい姫だったんだ」

 つまりその姫に手を出したのである。

「姫は笛の名手らしいんだが、二人で笛をあわせているうちに……と言っていたが」

「滝山の兄上も笛がお上手でしたね」

 日頃から親しくしているわけもない福にも、よい男ぶりを自覚している人柄が伝わってきていたので、そんな節がありそうだなとすんなり得心した。

 逃れた敵将の姫を保護すること自体は、旧臣たちの心情を慮ってもむしろ悪いことではない。しかし側女にするとなると、それは身中の虫であり、どこの家中でも揉め事の原因となる。

 甲斐の実力者で波瑠の父、武田信玄ですらそれが引き金で危うく有力家臣たちの離反を招きかけたことがあるくらいだ。

 北条を守るために腐心してきた香子は、可愛がってきた実の息子の軽率さに唇を震わせていたという。

 しかも氏照の妻比佐は娘こそ授かってはいたが、跡取り男児をまだもうけていない。「三田の姫に、先に男児が産まれてしまったら、どうするつもりですかッ」

 私がきちんと教育できなかったからだと、香子はひどく嘆いていたらしい。

「それだけじゃないんだ」

 氏邦はさらに渋い顔をした。

「きちんと側女として認めたわけでもなく、こっそり通っていたというんだ」

「まぁ」

 もはや姫の扱いではない。

 氏政がひどく機嫌を悪くし、三田の旧臣たちの怒りを煽ってどうすのだと、弟を叱りつけた。

「して、ご本城さまはなんと」

「父上は、自分で始末しろとだけ」

「始末……」

 風のそよぎにかき消されるような小さな声で呟いた。

 滝山領には祖父の代からの宿老たちが小田原から数多く派遣されている。余りに口さがなく言われるようになるならば、そのものたちがうまく「始末」するのであろう。

「ん、何か言ったか」

「いえ、何でも」

 父泰邦が自分を嫡女と決め北条から婿を迎えていなければ、自分も三田の姫同様、どこかに隠れ住む羽目になっていたかもしれない。そう思うと、他人事ではない。

 そしてまだ跡取りができぬ比佐の立場も、自分と同じである。

 いたたまれなさと腹立たしさが入り混ざり、そっと睫毛を伏せた。

 その様子を見つめている氏邦も、帰りしなのことを思い出していた。

「いつ子ができるんだ」と、氏照が騎馬のまま近づいてきて、反省する気がないのか叱られた照れ隠しなのか、悪びれたふうでもなく不躾に言ってきたのである。

「兄上には関係ないでしょう」

「つれないこと言うなよ。お前はのろけの天才だと、新九郎兄上に聞いたぞ」

 尤も仲のよさだけで子供ができるってわけでもないがなと、大きな口で笑った。

「俺はおなごにもてるから忙しいんだよ、夫婦で仲良くする時間があるお前が羨ましいよ」

 いつもこんな調子であるが、どこか憎めないのは明るい人柄のせいだろうか。好きな子に意地悪するようなものだと思うことにして、氏邦は聞き流していた。

「そのうち、できます」

 余計なお世話だと、唇を尖らせてそれだけ言い返したのであった……。

 氏邦は福の手を取った。

「おれが不在がちで、あなたには申し訳ない」

 ふらふらしてる兄とは違うと思った。

「祝言の時に誓ったことは、必ず守りますから」

 強い瞳で妻を見つめた。


  

 新しい城は、荒川の南側、険峻な断崖上にそびえ立っていた。

 天神山をあとにし、山裾を縫うように荒川沿いに東へ進むと、左手にかつて住んでいた花園城が見えると同時に、前方に広大な城壁が広がった。大手口を隠すように山の斜面にへばりついていた花園城や天神山城とは、まるきり異なる堂々とした勇姿に、武蔵を北狄から守るという氏邦の強い決意が窺えるようだ。

 氏邦はこれを、

「鉢形城」

 と呼んだ。

 真新しい大手門の手前で列を止め、輿の中にいる福に、歩けるかどうか訊いた。

 福は戸惑いながらも「はい」と答えて、草鞋を履き袿を被ると、氏邦がその手を取り大地に導く。

「すまないな。でも、あなたの足でちゃんと確かめて欲しかったんだ」

 照れくさそうな顔をした。

 できたばかりの道は明るく輝き、真新しい板塀の波からは微かに香気が漂っている。芝などの贅沢は施されていないが、質実剛健を銘とする北条の意気をよく顕しているように、福には思えた。

「元々残っていた跡は、あの辺りだけなんだ」

 大手道を歩きながら本丸の方向を指さし、敷地を広げてここまで通りを延ばしたのは自分だと、自慢げに言った。

 途中、拓けた辺りで立ち止まると、今度は、

「深沢川を堀に使ってみたんだ。あの渓谷は守りにもちょうどいい」

 誇らしげに胸を反らした。

 指し示すその先には深沢川の急峻な岸が見え、その川の向こうにはまだ造りかけだが、屋根の波も見える。

「いずれ小田原のような大きな城下にしたい」

 そこまでは無理かなと、照れたように笑うが、

「外郭を新設して、堀と畝、さらに巨大な土塁を造り、敵が近づけないようにしてやるんだ……」

 そう言って大きく腕を広げ、弓遊びに興じる少年のように輝く氏邦の目には、いつか完成するであろう夢の国が映っていた。

 政務の合間に絵図を書き、普請奉行を決めるところから全て己の手で始め、ここまでたどり着いたのだから、その喜びはひとしおである。

「ここからなら領内に行くのも易くなる。もっと働いて、武蔵の役に立ってみせるから」

 二の曲輪に入ると、他よりほんの少しだけ華美な屋敷があった。

「ここがあなたの住まいです」

「まぁ」

 福自身も豪奢を好んでいないのを知っている氏邦からの、分を弁えたできる限りの心遣りである。

「調度品だけは運び込ませているので、不便はないと思います」

 中には、きちんと誂えられている真新しい調度類にまじって、先ほどまでいた天神山城に置いてきたと思っていた馴染みの文机や、小田原で譲り受けた黒漆塗の衣桁もあった。

「離れ難たそうな品を腰元たちに選んで貰い、先回りして運ばせておきました」

「まぁ、内緒で?お人が悪い」

 思いがけない“贈り物”に胸が熱くなった。

 普段気遣ってやれていない妻の嬉しげな顔を見て、氏邦は心底ほっとした。

 それからは、朝霜の積もる枯れ草を踏みしめながら普請進捗を見て回り、御殿に戻って通常政務、ある時は水仙の咲き乱れる道を駆け、村同士の水争いの仲裁に直接出向いたり、若さゆえの未経験を若さで補うべく、動けるだけ動いた。

 さらに、数度の外堀改修も行い、要塞としての威容が急速に仕上がって行った。

 当然合間にも、おのれの武芸の鍛練を怠ることはしない。

 その甲斐もあり、次の麦秋に越後軍が武蔵へ侵入してきた時の被害は、これまでにない少なさだった。信濃の山を超えたという報せを受けてから、早めに作物を刈り取らせ城内に運び込ませて地子を守るだけでなく、近隣の村民も城下に避難さていたので、凌辱や乱妨、乱取りを防ぐことができた。

 この前までは無かった巨大な防御壁に囲まれた新しい城を目の当たりにし、荒川の対岸でしばらく歯ぎしりしていた越後軍ときたら……。

 攻めあぐねた挙げ句、数日ですごすごと陣を引き払っていくのを見て、城兵たちは、してやったりと手を叩いた。

 さすが我が殿の造った城じゃ、これだけの民が逃げ込んできてもまだまだ余裕の広さじゃ。

 藤田の若殿は、我らの主にふさわしいお方じゃ。

 こぞって褒めそやした。

 厩橋城で成果を期待して呑気に酒をあおってるであろう上杉輝虎が、地団駄を踏むのを想像して、氏邦も胸がすっとした。

 とはいえ、武蔵は決して狭くはない。上野の一部も支配下になりつつある。それらの被害も確認しなければならない。当然腹いせに道々の集落を焼いていったであろうから、領地回復のための土木工事もさらに必要となるし、そのための文書を発行しなければならない。

 氏邦は多忙を極めた。

 福もよく分かっている。

 顔を合わせる時間すら減ってはいるが、それでも、帰城を知らせる使いの者だけはちゃんと寄越すので、それ以上は妻の辛抱だと思い不服を言うこともしなかった。

 秘かに部屋をのぞくと、たいがい褥も敷かずに床にそのまま転がって寝込んでいた。福は見て見ぬふりをして放置ということもできないので、自分の袿をそっと掛けて自室へ戻っていた。

 しかし今日は、更待月が高くなる頃になっても何の報せもなく、さすがに気がそぞろになった。

「明日は久々に小田原へ出仕するとおっしゃってたはずなのに、大丈夫なのかしら」

 元服したての頃はふた月おきに小田原へ出向いていたのだが、氏邦の領国経営が軌道に乗るにつれ、足が遠のきがちになっていた。文でこまめに連絡を取り合ってはいたものの、直接顔をつき合わせて近況を報告しあうのは久々なのだから、それなりの準備も必要なはずだ。

 ここまで遅いと何かあったのではと疑っているところへ、外でなにやら小さなざわめきが聞こえてきた。

 見張り番の侍女に様子を見にいかせると、「殿がお帰りになったようです」と返ってきた。

 ところがすっかり静まり返っても、ひと言もない。

 深夜だと思って遠慮しているのだろかとは思ったが、ならば一旦小姓を使いに送り、福が起きていれば伝えるようにと言い含めるだけでよいではないか、こちらはちゃんと行灯をともして待っているのに、と考えると、さすがに少しだけむっとなった。

「誰かぬるめの湯と、やわらかい端切れを持ってきてはくれぬか」

 すぐさま湯桶と叩いた麻の切れ端を持ってきた侍女を伴い、寝衣に袿だけを羽織って表御殿の方へ歩きだした。

「新太郎さま、お一人ですよね、入りますよ」

 返事も待たずに襖を開けると、泥だらけの顔のまま、散らかり放題の文書に、氏邦が埋もれていた。

「あれ、福、起きていたのか」

 少し驚いたように、顔を上げた。

「思ったとおりですね」

 福は小さくため息をついて、傍らに座ると、

「朝慌てて出て行かれるのでしょうから、せめてお顔くらいは綺麗になさいませ」

 自らの手で麻布を湯に浸して、固く絞り、氏邦の顔の泥を拭い取った。

「すまん……」

 恥ずかしそうに、されるがままでいた。

「あなたが私の所にわざわざ来る必要はありません。でも、使いの者を寄越すくらいはしてください」

 福は布をすすぎながら続けた。

「私も、あなたに気を使わせるつもりはありません。でもそれすら無いのは、さすがに情けなくなります」

「もう遅いと思って……」

「分かっております」

「すまん……」

 氏邦はしゅんとしながらも、「さっぱりした」と、つるつるになった頬を撫でた。

「あなたに会わずに小田原へ発とうと思ったんだけどな」

 あぐらをかいた膝の上で、頬杖をついた。

「まぁ、なぜですの」

「ううん、それは」

 ぷいと顔を背けた。

 福は絞った麻の手巾で手を拭うと、ぐるりと廻って顔をのぞき込んだ。

 氏邦は微妙な顔で、言いよどんでいたが、

「おれは強盛で若い男だ。だが、今は仕事以外で体力を使う余裕がない」

 小さな声で言った。

「まぁ……では、誰にも知られずに秘かにお休みになりたかったのですね」

 昔から人に弱みを見せたがらなかった性分なのを知っていたはずなのに、すっかり忘れていた……と、福は恥じて頭を下げた。

「あ、いや、そうではなくて」

「私の膝をお貸しします。少しお休みになって」

 氏邦の言葉を最後まで聞きもせず、福はにじりよる。

「お疲れなのでしょう。決して誰にも言いませんし、少し経ったら起こしますから」

 福が、男の大きな手を取って自分の細い膝の上に乗せると、氏邦は慌ててさっと手を引いた。

「だから、そういうことではない」

 困ったふうに自分の首に手を回した。

 やがて意を決したように漆黒の瞳で福を正面から見据え、細い手を取り直し自身の下腹部に導いた。

「まぁ」

「今のあなたの姿は、おれには誘惑が過ぎる」

「そこまで……考えが及びませんでした……」

 激しい滾りを打ち明けられ、戸惑い、福が目を泳がせていると、

「謝ることではないけど、じつはもう限界なのです」

 丁寧な口調に反して、今まで試みたことすらないほど強引に、情熱的に福を抱きしめた。

 顎を掴んで女の口を吸おうとしたところで、何かに気付き、怒ったように襖の方を振り向いた。

「いつまでも見てないで、さっさと桶を持って出ていって貰えないだろうか」

 桶を持ったまだ若い侍女が、一人あたふたしていた。



 奥のは、ただ座っているだけではない。

 戦さの後の感状を出すのは城主ではあるが、後家になった者へは、城主の妻から書信を発する。

 亡夫の北武蔵への忠節を鑑み、寡婦になった心を慮り、残された息子や娘たちへの縁組を申し合わせ、引き続き変わらぬ奮励を頼むよう、一人一人を思い出しながらしたためた。一枚書き終えるたびに、差し出す相手の人間性が心に刻み込まれ切なくなった。

 母はいつもこのようにしていたのだろうか。

 朧げになってゆく母の姿をどうにか頭に浮かべながら、筆を走らせていた。

 その日も、亡くなった人への思いを綴っていると、小田原から帰ってきた氏邦が、

「ちょっといいかな」

 顔をのぞかせてきた。

 文机の上を見やり、色々任せてしまってすまないと、申し訳なさげに言った。

「いいえ、これが私の仕事ですから」

「しかし……」

 奥のことを教えてくれるはずの母親と引き離したのは北条だから、という言葉を氏邦は飲み込んだ。

「何かご用だったのでは」

「そうだ、これを見て欲しいんだ」

 抱えていた反物を二反、床に並べた。

「どちらも綿です。違いが分かりますか?」

 福が首を横に振るのを確かめて、

「おれも、分からない」

 右側の方を指し示し、

「こちらは小田原で手に入れた、三河で作られたものです」

 近ごろは三河産の綿が広く流通し始め、畿内、駿府のみならず、小田原の方まで商人が売りに来ていると説明した。

「ではこちらは?」

「熊谷で作ってるものです」

 ゆっくりと言った。

「三河も熊谷も同じ、西国の種を買い付けているはずなのに、なぜ三河のものが出回っているのだろうと思って」

 小田原に来ている商人に何が違うのか訊ねても、「質は変わらない」という。

「だからこうして比べてみたのだけど、確かに変わらない」

 どちらも柔らかく、手触りが優しい。大きな違いはないようだ。

「なぜ三河のものが売れているのだと思う?」

「なぜって」

 福は不思議そうに首をかしげた。

「売るほど作って売っているからとは、違うのでしょうか?」

 氏邦は、あ、と言った。

「そうか。そうだな」

 ふうむと顎を撫でた。

 綿はそもそも、麻より断然使い勝手がいい。武具に使用するのも柔らかい木綿がよく、戦さ場に欠かせない陣幕や旗指物に加工するのもたやすい。色も鮮やかに出る。

 しかしほとんどが明や朝鮮からの輸入に頼っているので、絹よりは安いとはいえ、まだまだ高い。

「たくさん安く売っているなら、三河ものじゃなくても買うかな」

「ならば最初から染めたものを売ればよろしいのでは」

「おぉ、おれもちょうど同じことを考えていた」

「秩父の絹と、熊谷の木綿をまとめて売り込んでしまえば手間も減るのでは」

「そうそう、おれもちょうど同じことを考えていた」

「まぁ、気が合いますね」

 福は素直に笑った。

「そうだな。やっぱりあなたと話してるのが一番安心できる」

 反物を脇に押し退けて、氏邦は寝ころがって福の膝に頭を乗せた。

「小田原は気を張って、疲れる」

「まぁ、故郷さとなのに」

「どうにも落ち着かないんだよ」

 先日も戌の刻になる前に、灯を点けもせずさっさと褥に横たわったところ、誰かが寝所にやってきた。障子越しに聞けば、氏照からの使いの女だという。

 特に警戒もせず開けると、立っていたのは菓子を持った侍女であった。両手で恭しく菓子だけ受け取ると、「兄上によくよく礼を言っておくように」とだけ申し渡して帰そうとすると、

「そこに源三兄上が飛び出して来てさ」

 なぜ黙って帰す野暮天が、と怒鳴り込んできたのであった。

「兄上何ですか、いきなり。野暮天はないでしょう」

「野暮天を野暮天と言って何が悪い」

 その場で口論が始まった。

「お前の頭が固いから、俺が粋な計らいをしてやったんだよ」

「いやいや、隠れて見てるとか趣味が悪すぎますよ」

 騒ぎを聞きつけた氏規が、隣の部屋から出てきて、

「いい年して餓鬼ですか」

 と、仲裁に入ったもののすでに手遅れ、話はすぐさま氏政に伝わり、

「ぬしらは阿呆か」

 翌朝、なぜか氏規までまとめて叱りつけられるという有り様……。

「福はどう思います?」

「どうと言われましても」

 福は答えに困ったが、

「頼んでもないのに余計なお世話なんだよな」

 ただ純粋に子供のように、兄に腹を立てていただけだと悟った。

 それにしてもこの兄弟は、喧嘩はしながらも仲がいい。が、一方では、心底憎み合い殺し合う兄弟も世の中にはいる。

とは、不思議なものですね……」

 呟くと、氏邦が視線を投げた。

「え?」

 何かを言いかけたが、すぐに止めた。

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玉淀にそばだつ 和田さとみ @satomi_wada

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