第3話

 箱根で二度目の夏を迎えようという頃、武蔵に帰ることが決まった。

 手薄になっていた花園城が、長尾軍の進撃に乗じた反藤田勢に掠め取られ、天神山城の代官三山綱定や、用土といった藤田派と対峙しているという報が届いたからである。

 打つ手を間違えれば、本格的な戦闘にまで発展するであろう。

 しかし氏康は、長尾が去った今なら小競り合いですむと読んだ。手間取れば後詰めを送ってやるから、が済み次第速やかに戦後処理に当たるようにと、乙千代丸に命じた。

 北武蔵の支配者として、一人立ちする機会だと踏んだのだ。

 帰路に就く前、氏康は秘かに乙千代丸を呼びつけた。

「お前が天神山城で、城主気取りで威張ってた藤田の老母を挑発したおかげで、こうして反勢力をまんまとあぶり出せた。わが息子ながらようやった」

 長尾がいる間に挙兵されたら危なかったが、「まぁそこは博打よの」と声を潜めて笑った。

「え?何の話でしょうか」

「この城では好きにはさせないと言ったのだろう。老婆の自尊心を傷つけるには、なかなかうまいやり方だ」

 乙千代丸は、はっと顔をあげた。

 ──違います、違うのです。あの時は、本当にあの子が見ていられなかっただけで、この結果はたまたまなのです。

 心の中でそう叫んだが、

「お前は小さい頃から頭がよく、常に冷静で思慮深かったからな。国境くにざかいの難しい場所だが、お前を選んで正解だったわ」

 父親が嬉しそうに褒めてくれるのを見て、口をつぐんでしまった。

 そんな自分のあさましさを殴りつけたかった。



 もちろん福も一緒に帰った。置いて行くと言われても、付いていくつもりでいた。

 慣れ親しんだ人たちとの別れもそこそこに、朝六つ、馬出門から短くささやかな列がしのび出た。

 風はまだ冷たかったが、櫓の高覧から三山が見送っている。向こうからは見えないだろうと分かっているが、福は輿の中から小さく一礼した。

 懐かしい天神山城に到着して最初に聞いたのが、於万が遁走したという報だった。福たちの帰城と入れ違いだったようで、綱定たちも全く気付かなかったという。

 乙千代丸は直ちに人を集め、軍議を開いた。おそらく於万の処遇も議題になっているであろう。

「本当に申し訳ない」

 評定が終わったあと、用土業国が福に頭を下げた。

「おじさま、お止めください。誰も分からなかったのですから」

「しかし、あれでも一応母親だからな」

 自嘲ぎみに笑う。

 行き先は間違いなく花園城だ。おそらく自分たちの正当性を主張したい反藤田派に唆されたのであろう。

 否、自分から出向いたのかもしれない。

 目と鼻の先でこちらを窺い、どのような企みを考えているのか。

「それよりも、梅王丸どのはお元気でしょうか」

 重くなりそうな空気を払うように、福は訊ねた。

 梅王丸というのは、福が祝言をあげた翌年に生まれた業国の子であり、福の従弟になる。業国は、あえて重連と同じ幼名を付けたという。

「お会いしたのは、ほんの赤子の時でしたね」

 乳母に抱かれて、小さな目と鼻を懸命に動かしている珠のような顔を見て、胸をときめかし、いつか自分もこんなかわいい子を授かるのだと、ふわふわした指を握りしめたものだった。

「もうだいぶ大きくなり、かわいい盛りですよ」

 業国は口元をゆるめた。そして福を見つめて、

「あなたさまも大人になられて」

 しみじみと言った。

「背も伸びたが、よくお話になられるようになった。気持ちの方が大人になられた」

 短い期間ではあったが小田原で過ごした時間は、福にとって何ら無駄になることはなかったようだと、うなずいた。

 結局、越後軍の後詰めのない花園城の抵抗勢力はろくに持ち堪えることもできず、小田原の援軍を頼む間もなく降伏してきた。

 乙千代丸は北条の与力のともがらに敵から没収した領地を与え、乙千代丸名義の安堵状を発行し、勢力の速やかな回復に努めた。

 氏康によく言い含められている祐筆が乙千代丸の帰城に同行しており、彼らが手慣れたように次々と文を書く。乙千代丸は内容を確認して花押を入れるだけだが、たどたどしい手つきで、とても彼らの速やかさには追いつかない。

 山のように積もった文束を押しやり、誰もいなくなった部屋で、乙千代丸は手足を伸ばして床に転がった。

 すっかり上がりきっている十三夜月が、目の端に入ってきた。

「新しい城を造ってみたいな」

 花園城の南、荒川を挟んだ向かい側に、かつて上杉氏が造ったが現在は放置されている城があった。

「改造するのに、ちょうどいいんだよな。川のあそこら辺に罠を仕掛けて、反対側にあれをこう、ガッとやったりとか……せっかく色々学んだし、勝手にやったら怒られるかなぁ」

 誰もいないと思い、子供のようにごろごろ床を転がりまくる。

「でもって、そこで月見の宴とかやったりしたりして」

 気を緩めてニヤリとすると、

「あのぅ、乙千代丸さま」

 開け放した襖の影から、福がひょいと顔を出した。

「やっぱり、まだいらした」

「やや、福」

 慌てて起き上がると座り直して、乙千代丸は咳払いをした。

「今のは、見なかったことに」

 馬鹿真面目な顔で言ってから、

「まだ起きてたのですか」

 と、照れたように鼻を触った。

「お忙しいのに、こんな時間にごめんなさい……」

 福は中に入ると、外に声がもれないように襖を閉めた。

「お祖母さまはどうなるのでしょうか」

 よけいな言葉は省いた。

 これ以上ないほど申し訳なさそうに見つめてくる福から、乙千代丸は視線を外した。

「さあ、どうでしょうか。気になりますか」

「身内ですから……」

「身内ですか」

 その人は本当に身内でしょうか?と、言いながらすぅっと笑顔を消した。

「身内でも殺し合う世の中ですよ。げんにこれまで、散々あなたに冷たく当たった挙げ句、殺そうとした人がそんなに気になりますか」

「……」

「あなたを守るために一緒に戦ってくれた用土の叔父上さまや兄上どのの気持ちは、どうでしょうか。あなたにとっての身内とは、一体どちらでしょうか」

 福も本当は、於万に殺したいほどまでに憎まれていたのかと、受け入れていたよりも遥かに重い現実に胸を衝かれていた。

 心配するふりをすることによって、傷付いてなどいないと自分をごまかしているのを、乙千代丸に見透かされたようで、恥ずかしさでうつむいた。

「浅はかでした。聞かなかったことにしてください……」

 顔を上げることができなかった。

「ではお互い見ていない、聞いていないということで、いいですね」

 乙千代丸は、優しく笑ってみせた。

 数日後、業国に頼まれたといって、西福が梅王丸を伴って天神山城へやってきた。

 目刺し髪の幼子が、あねうえたま、と懸命に呼ぶさまに、このところ落ち込んでいた福の心が慰められた。

「お祖母さまは、お許しになられたようですね」

 母に言われて、福は目を丸くした。

「おや、聞かされておらぬのですか」

 逆に西福の方が訝しんだ。

「小田原で謹慎だそうですが……」

「それは……人質ということでしょうか」

「いえ、違うと思いますよ。私たちのお味方ではなかったのですから。余計なことをなされないように監視するためだと思いますけど」

 西福も於万にはさまざまに思うところがあるので、

「藤田の人間を助けてくださったのですから、感謝しなければいけないのかしら」

 でもねぇ……と、納得いかないふうである。

「あなたは礼を言う必要はありませんよ」

 娘がされたことを考えれば、当然であった。

 しかし亡き夫の母親を助けてくれたことに対して、後家として機会があれば礼をしておくと、言い置いた。

 はい、とうなずきながら福は、ふと思った。

 乙千代丸が隣にいてくれなかったら、自分はとっくに壊れていたかもしれない。そういえば小田原にいた間、於万のことを全く思い出しもしなかった。

 あとで乙千代丸と顔を合わせた時に一度訊きかけたが、やめた。知らないふりをした方がいい気がしたからだ。

 西福に会ったのは、この日が最後であった。

 流行り病で、苦しむこともなくあっけなく逝った。泰邦と同じく四十に手の届かぬ若さである。

 度重なる心労のせいで弱っていたのだろうか、母上さまにご心配しかかけていない私の不徳さのせいに違いない、と福は自分を責めた。

「人には寿命というものがあります」

 乙千代丸はそう言って肩を抱いてくれたが、せめて覚悟するだけの時間は欲しかった。

 用土での葬儀を終えた後、重連が、父の形見の赤い数珠を握りしめ祭壇に一人で手を合わせていた。

 あれは、あんなに妖しい赤だったろうかと、福は首をかしげた。

「お方さまとは、これで縁が切れましたな」

 福に気付いた重連は、乾いた声で他人行儀に言った。

「何の縁でございましょうか」

 福も同じ態度で訊いた。

「母上が亡くなり、これで兄妹きょうだいの縁も終わりということです」

「そうですか」

 二人きりの兄妹きょうだいではありませんかと、福は言いたかったが、しつこく食い下がって、これ以上兄に嫌われたくなかった。

 悲しげに目を伏せる福を見下ろしながら、重連が言った。

兄妹きょうだいというものに、大した価値はありません。気に病むことはありません」

「……」

「藤田を取り戻すために、今ここでお方さまを殺して反旗を翻すこともできるのですよ」

「そんなこと……なさるはずがありません」

「なぜ分かりますか」

「藤田の、信頼の厚い家臣だからです」

 重連は、敵わないなと笑った。

「殿は、よくしてくださいますかな」

「はい。いつも優しくしてくださいます」

「では何も問題ありませんな」

 いいえ違います、兄上は兄上です。殿とは違います。

 母がいなくなった悲しみに想いを言えぬ苦しさがさらに加わり、福はまた涙が出てきた。

 さすがに今日は重連も、泣くなと咎めることはしない。

「私一人で、母上を思い出すのは辛うございます」

「ならば梅王丸をご機嫌伺いに、そちらへいかせます」

「せめて家臣として、奥へ声をかけてはいただけませんか」

「……」

「それも無理なら、形見にその数珠をください」

 小さくため息をついて、重連は、

「分かりました。ご挨拶くらいならいたしましょう」

 諦めたように言った。

 


 翌年早々、北武蔵平定に忙殺されて遅れていた乙千代丸の元服式がとり行われた。

 北条家に伝わる“氏”と、泰邦の“邦”から偏諱をうけ氏邦と名乗った。仮名けみょうは、藤田家で踏襲されてきた新太郎とした。

 袖括の紐がつけられている、深い海のような群青色の直垂にきりりと髪を結い上げたさまには元服劣りが一切なく、生母に似て鼻筋の通った清々しい若武者ぶりであったが、式そのものは、華々しく披露された兄たちとは差があり些か寂しくもあった。

「福はいるか」

 それでも自身の新しい姿を見せたい乙千代丸──氏邦は烏帽子直垂のまま福の元を訪ねたが、菊名にけんもほろろに追い返された。

「お方さまはお具合が悪く、お休みです」

 こっそり侍女たちに尋ねても、口止めされているのか、

「のちほどお分かりになるので」

 素っ気なく、教えてくれようとはしなかった。

 その夕の膳に、ささやかな鯉料理が添えられており、

「殿とお方さまのお祝い事が重なり、縁起がよろしうございました」

 菊名や腰元たちに手をついて頭を下げられ、それでようやく合点がいった。

「あ、いや、こちらの方は全くの不調法なもので」

 恥ずかしさのあまり、膳を運んで来た侍女にまで、しなくてもいい言い訳をしてしまった。

 しばらく激しくまばたきを繰り返し視線をさまよわせていたが、耳まで赤くしたまま、そうかと小さく言った。

 氏邦、十六歳。福、十三歳。

 三日月に、ほころび始めた梅がくっきりと浮かんでいた。

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