第2話

 年が明け、小正月を越えた日、祝言が挙げられた。

 その後のささやかな宴にて、まだ垂れ髪の花婿と振り分け髪を束ねた花嫁が並んで座るさまは、宝珠を並べたように恭しく、咲き始めの福寿草のように微笑ましい。

「あなたに必ず跡取りを授けます」

 乙千代丸にこっそり囁かれ、福の目尻がほんのり桜色になるが、まるで他人ごとのように睫毛を伏せたまま、丸い瞳も動かさなかった。

 於万は顔すら見せなかった。北条の人間で溢れかえっているこの城のどこかで、一人歯噛みして見ているのだろうか。

 参列している重連は、中座して福へ通り一遍の祝辞だけを述べ、

「お方さまか」

 と、寂しげに呟いた。

「母上はこちらの様子が落ち着いたら、来られるそうだ」

 三年ぶりに会った兄は亡き父によく似ていたが、乾いた声は最後に会った時のままである。

「兄上が来てくださるのをずっと待っていました」

「あの時は、情にほだされただけだ。忘れろ」

「悲しいことを……ようやく会えましたのに」

「今度こそ、もう来ないよ。俺は用済みだからな」

「なぜ?」

「これからは、若ぎみがいらっしゃる」

 広間の向こうで、列席者と談笑している乙千代丸を見やった。

「いやです。兄上は兄上なのに、なぜ」

「何度も同じことを聞かないでくれ」

 苦しそうに眉を寄せる兄を見て、福は、はっとした。

 しつこくしたから嫌われてしまったと思い、涙ぐんだ。

「花嫁が泣くな」

 晴れの日に悲しい顔をしたらいけないと言って、片手で抱き寄せようとしたが、すぐに我に返って手を引いた。

「これからは若ぎみを頼れ」

 繰り返し言って、馬上の人となった。

 さらに長年仕えてきたが、乳母を引退し本領へ帰ると言ってきた。今後は小田原から派遣されてきた菊名きくなという者がよく仕えてくれるであろう、とのことである。

 別れの言葉は互いに出なかったが、

「これからはお方さまとして、一人立ちなられるのですよ」

 自分から離れていってしまう人たちが頭の中を駆けめぐり、福は慣れ親しんだ乳母の胸元にしがみついて、声を殺して泣いた。

 

 

 北条から来た若ぎみはよく日に焼けていて、涼やかな目元に鼻筋の通った、白い歯も眩しい快活な印象を与えた。

 領内をよく知りたいといって少数の近習のみ連れて出かけていくが、泥だらけになって帰ってくることがよくあった。何をしているのかと思えば、少し離れた村々へ出向き、同年代の子供らと相撲をしたりなどしているという。

「童どもと遊ぶのは楽しいぞ。遠慮というものがないからな。それに、その親もやって来てあれこれ本当のことを教えてくれる」

 連れて出歩く近習も、主に藤田家旧臣の子弟であった。

 早く馬持ちの武者になるようにと、優しい言葉を常々かけているようである。

 夕の膳では、福に、傍らにいて欲しいと頼んできた。

 給仕扱いのような申し出に、福が戸惑っていると、

「お方さまは侍女ではございませぬ」

 新しく福に仕えるようになった菊名が、ちかの言う通り、福を守るように抗議した。

「そのような意図ではない」

 もちろん一緒に摂れということでもない。

 ただ話がしたい、福のことがもっと知りたいだけだと、臆面もなく言った。

「今はゆっくり話せる時間がここしかないのだ。大人になり余裕ができるまでは、許して貰えぬだろうか」

 小田原時代から乙千代丸を知っているためか、菊名は、

「さようでございますか」

 と、不承不承ながら承諾した。

 話をすると言われても、乙千代丸の方から質問し、福はたどたどしく答えるしかできない。

 それでも、乙千代丸はいつも満足げにうなずいていた。

 また、気付くとよく手を墨で黒くしていた。どうしたのか聞くと、墨をこぼしただけだとか、手習いで失敗しただけだなどと言って、両手を後ろに引っ込める。

 福が一度だけ、ふいに部屋を訪ねて声をかける前にのぞいたことがあった。部屋が埋まるほどに村々の絵図や武蔵の城の縄張り図が書き散らかされていたが、声をかけると急いで全て障子の向こうに押しやり隠して、何もしてなかったふうを装った。

 ある時福が、薙刀がいやだと庭木の茂みに隠れて泣いた時、あちこち探し回る腰元をよそに、乙千代丸はいとも簡単に見つけ出したことがあった。

「姫、裸足のままでいけませんよ」

 茂みの中で並んで座り、

「皆が探しています。戻りましょう」

 諭しても、福は首を横に振った。

「へっぴり腰と叱られます……」

「あなたはそれでよくても、あなたを見失った者たちが罰を受けるのですよ」

「……」

「藤田の姫で、城主の妻である以上、おのれの我が儘よりも優先して考えなければいけないことが、これからも多々あるのです」

「……」

「私がそばで見ているから大丈夫。一緒に、皆に謝りましょう」

「一緒に?」

「えぇ、一緒に」

 促して福を立たせ優しく手で袴の土を払ってやったが、子犬のように縋りつく視線に気付くと、ふいと視線を外した。



 北条の人間たちが乗り込んで来て以来しばらくは大人しくしていた於万だが、雪解け水も温るんでくる頃にはその空気にも慣れ、再び福にあれこれ口出しするようになってきた。

「福ッ」

 いきなり福の部屋の襖を開けると、そこには乙千代丸が福と向かい合わせで茵に座していた。

「これは、乙千代丸どの」

 一瞬ひるんだが、すぐに福を睨んだ。

「使いのものを呼びにやったのに、中々来ないと思うたら」

「お待ちください、お祖母さま」

 乙千代丸が途中で遮った。

「姫は私の妻です。小間使いのように呼びつけるのはお止めいただきたい」

 ぴしゃりと言った。

 福は、はっとしたように乙千代丸を見つめた。

 自分に意見してくる人間に初めて会った於万は、一瞬ひるんだが、

「頭も下げずに私にものを言うのは無礼であろうが」

 二人を見下ろしたまま強く言い返した。

 しかし乙千代丸は引くことはしなかった。

「いきなり襖を開ける方がよほど無礼ではないですか。それに城主はこの私です。私にものを言う時こそ、頭を下げていただけませぬか」

「そなたは、誰にものを言うておるのじゃ」

「城主の妻の、お祖母さまにでございます」

「……」

 於万の方が微妙に気まずい表情になり、その場にすとんと座った。

「乙千代丸どのが来られてからは、きちんと躾けができず、この子は明らかに気が緩んでおる。そなたは福を甘やかしすぎじゃ」

「本日はたまたま私がいましたが、平素からそのように姫を扱ってこられたのですか」

「福、余計な告げ口でもしたのか?」

「姫は何も言いません」

 少しの間、睨み合うようにしていたが、

「今後お祖母さまのお使いは、必ず私を通すことにさせていただきます。私が不在の隙に福の許へ訪れないようにお願いします。城内にそう申し伝えておきますので、ご承知おきください」

 乙千代丸が断じた。

「もう、お祖母さまの好きにはさせません」

 返す言葉が見つからずに不機嫌な態度で於万が帰って行ったあと、

「もう大丈夫ですよ」

 優しく言ってみせた。

 福は息を殺したまま不思議そうに乙千代丸を見つめていたが、少し涙ぐんで視線をずらすと、きゅっと唇を固く結んだ。

 心の奥底で何かがざわめき立つような感じがした。しかし生まれて初めて遭遇したそれが何なのか、少女の福には量りかねた。



 乙千代丸が天神山城に来て二度目の桜も散り、少し動けば汗ばむような日が続いたある日、小田原から早駆けの伝令が到着した。

「姫っ」

 息急き切って乙千代丸が、福の元に駆け込んできた。

 福は乙千代丸の訪問を待っていたかのように、襖の前に座していた。ついさっきまで芸事の鍛練をしていたのか、不用心に薙刀が放り出してある。

 乙千代丸が口を開くより先に福が切り出した。

「こちらにも報せが参りました」

 床に小さな手をついた。

「小田原にお戻りになられるのでしょう」

 まだ細い、骨も固まっていない華奢な指が小刻みに震え、反り返るほどである。

 数年前に遁走した関東管領上杉氏は、現在越後の長尾景虎に庇護されていた。その長尾が、上杉氏の要請で、関東を取り戻すために出陣してくるというのだ。

 ならばその前に天神山城の備えを強固にせねばならないが、相手は軍神だの戦さ上手だのと崇められている長尾景虎である。初陣も済ませていない乙千代丸をいきなり矢面に立たせて、ただで済むはずもない。

 とりあえず今回は信頼できる三山綱定に仕切らせて、氏康の息子は小田原へ避難させよ、と評定で決まったとのことであった。

 乙千代丸は残念そうに顔をしかめた。

「でもまた戻ってきます。戦さが終わるまでの辛抱です」

「そうですね……」

 福は睫毛を伏せた。

「どうぞ……あちらでもお身体からだを大事になさって……」

「え?まぁ、そうですね」

「できれば……早く戻ってきていただけたら嬉しい……いえそんな贅沢は申しません……」

 声もすっかり沈み込んでいる。

「またいつか戻ってきてくだされば、それで結構です」

 反り返った白い指先が、徐々に赤くなっていった。

「え、姫?何を言っているのですか」

 乙千代丸が訝しげに首をかしげた。

「それまでお待ちしています」

「え?いや、姫は……」

「一人で置いていかれるのはもう慣れております。一人と言っても腰元たちもいるし、大丈夫でございます」

「だから姫は私と……」

「いえ、大丈夫です」

 自分の言葉に昂ぶり、感情は少女の制御の範疇を越えつつあった。

「もう、何もおっしゃらないで」

「待って、姫、ちゃんと聞いてください」

 福は両耳を塞いて、固く目を閉じ、かぶりを振った。

「いや、聞きません」

 耳を傾けると、祖母の声が聞こえる気がした。

 ──福ッ

 いやだと大きな声で言いたかった。

「聞きません」

「姫」

「聞きたくありません」

「姫」

 乙千代丸は福の両手首をつかみ、耳から引き離した。

「福ッ」

 今まで聞いたこともない、強い声を出した。

「あなたも一緒ですよ」

 福が驚いたように目を見開いた。

 目の前には、乙千代丸の優しい顔があった。

「私たちは夫婦めおとですよ。置いていくはずないでしょう」

「……」

 しばらく固まったように、乙千代丸を凝視していたが、

「私も?」

 ふと糸でも切れたかのように、福の目から涙がぽろりと一粒こぼれ落ちた。

 本当に?

 一緒に?

 行っていいの?

 念を押すように畳みかけると、涙がどっと溢れ、その刹那、わぁっと声をあげて泣きだした。

「イヤなの」

 聞き分けのない童のようにひたすら首を振り続けた。

「置いておかれるのはイヤなの」

 乙千代丸は、十になったばかりの少女の身体を受け止め、節が固くなって太い指で頬を拭ってやった。

 涙に触れると一瞬、胸がきゅっと締めつけられる気がした。

「福が、大きな赤子になりましたね」

 いつもと同じ笑顔を作ってみせたが、その手は珠を転がすように少し優しかった。


   

 武蔵を発って三日目の朝、目の前に現れた小田原の城下は、なにもかもが広かった。

 なにしろ、山と荒川に囲まれた狭い地で育った福たちは、道中の相模川ですら、その幅の広さと見たこともない水量のゆったりとした流れに目を見開く有り様であった。

 川のほとりで休息を取った折に見た富士の山が初めて経験する雄大さだったのも、まるきり別世界であった。

 若ぎみはこのようなところでお育ちになったのだ……と思いついたのも、城下に入ってしばらくしてからである。

 小田原城内に入ると福たちはすぐ南殿へ通された。南殿は、北条家の人びとの私室のある屋形である。福たちは客人ではなく、身内として扱われた。

「ようお越しになられましたね。道中大変お疲れでございましょう」

 居並ぶ女性たちの真ん中で、皆に「御前ごぜんさま」と呼ばれているのが、当主氏康の妻、香子きょうこである。

「早くお会いしたくて、待ちかねましたよ」

 駿河国守護今川家の出身だと言うその人は、威厳はあるが優しい声で迎え入れた。

 その横に並んでいる福より少し年上らしき人が、波瑠はると名乗った。

 数年前北条氏康は、越後の長尾と激突している甲斐の武田、香子の実家今川との三者で同盟を結ぶことに成功していた。その証としてやってきた武田の娘であり、北条の跡取りである氏政の妻だという。

「私が甲斐から来た折りも、山道に難儀いたしました」

 波瑠の声に、長旅を終えたばかりの福への気遣いがこもっていた。

「乙千代丸どのは優しうしてくださりますか」

 福の脳裏に、於万にぴしりと言った時の乙千代の姿が浮かび、何と答えていいのか困りもじもじしていると、

「若ぎみさまはいつも優しく、下の者たちも皆感謝しております」

 後ろに控えていた菊名が、慣れたように言葉を添えた。

「まぁ、それはよかった。そなたも、きちんと見守っているのですね」

 波瑠は笑いながらも、見知った菊名への労いも忘れなかった。

 香子も、ことのほか嬉しそうに笑った。

「あの子は私の自慢の息子ですから」

 乙千代丸の生母は香子ではないが、城の奥向きを仕切る正妻として、氏康の子供たち全てを教育してきたのは香子だという。

 学問や武芸を教えるのはもちろん傅役ではあるが、北条の家のために働く心得を叩き込むのは、当主の正妻の役目だと考えていた。そこを疎かにすると身内同士で争い分裂し、やがて滅ぶ。関東でも鎌倉公方足利氏や関東管領上杉氏などいい例だし、今川でも兄弟で諍いをおこし、香子の兄が亡くなっている。

「北条御一家衆は皆、本家を支えるということを忘れてはならないのです」

 一瞬厳しくなった表情には、長年北条の家に人生を捧げてきた自負が滲んだが、すぐに柔和に戻った。

「あの子は他の兄弟に比べても、とりわけ心根がしっかりしていました。陰で一人努力を怠らず、頼り甲斐のある子に育ったと思うておりますよ」

 そこへ「よろしいかな」と、小袖姿の若い男がやって来た。

「乙千代丸の奥方がご到着と聞いてな」

 つかつかと奥まで入って、波瑠の隣に腰を下ろし、新九郎氏政と名乗った。

「あれの夫ぶりは如何なものかな。わしのようにいい夫かどうか、ちと心配でな」

「まぁ、よくおっしゃいますこと」

 波瑠が口元を隠して笑った。

 この二人は普段から仲がいい。目線を交わしあう様子だけで、初めて会った福にもそれがよく伝わってきた。

「乙千代丸はどうも生真面目だからな。少しも自分を誇らしげに見せようとしない」

 それはそれで愛すべきところではあるが、その真面目さを冷たく感じるものがいるのではないかと、氏政には気がかりだという。

 弟たちは誰しもがかわいいが、乙千代丸の要領がよろしくない分、どうにかしてやりたいという思いはひとしお強かった。

「とてもよい夫だと思うております……」

 大勢が侍る前に出ることなどほとんど経験していない福は、すっかり気後れして、赤らみながら辛うじて伝わる程度の声を絞り出すのがやっとであった。

 対面が終わると、同じ南殿の少し離れた部屋へ通された。小田原滞在中はここで過ごせとのことである。

 小田原でも贅沢は避けているようで床は全て板張りのままだが、褥を敷くところには畳が敷かれてあり、私の畳だ……と思うと、福は少し嬉しくなった。頬をゆるめて畳を撫でてみると、

「お方さま、どうなされました」

 後ろの菊名に訝しげにきかれ、

「な、なんでもありません」

 恥ずかしそうに手を引っ込めて、うつむいた。

「いきなりあのような場で、お疲れでございましょう」

 福の気性をすっかり理解した菊名が、脇息をすすめた。

「はい……」

 脇息に両手を置いて、その上に顔を伏せた。

 日差しがすっかり高くなり、庭木の影が濃くなっている。開け放した蔀から入ってくる初夏の風が几帳を揺らした。

「乙千代丸さまがこちらで慈しまれていたのが、よく分かりました」

 風の音に紛れるほど小さな声で呟いた。

「皆さま賑やかで、楽しそうでした。小田原は良いところですね」

 菊名は「そうでございましょう」と嬉しげにうなずいた。

 そこへ、

「失礼いたします」

 涼やかな声の腰元がやって来た。絹の小袖に染め抜き紋の入った裳袴をつけた、物腰の柔らかな上﨟である。

「お着替えをお持ちしました」

 丁寧に膝から進み出て、深々と頭を下げた。

「こちらにおられる間は私がお仕えするよう、香子さまより仰せつかりました。何でもお申しつけくださいませ」

 菊名が何かに気付いたようだが、素知らぬふうに礼を返した。

 腰元は顔を上げても、きちんと福の胸元のみを見ている。

 亡くなった母、西福と同じくらいの年であろうか。目は合わなくとも、鼻筋が通った、野の花のような美しさを残したままの女性ということが、福にも分かった。

「秩父郷の三山の娘でございます。三山とお呼びください」

 と、名字だけ名乗った。

「宿老三山さまの娘御で、香子さま付き腰元でございます。お気に入りの一人でとりわけ覚えもめでたい方なので、香子さまがお取り計らいくださったのでしょう」と、菊名が説明した。

「乙千代丸さまは、そちらでもご健勝でございましょうか」

 三山が目を伏せたまま尋ねた。

「北武蔵は国境くにざかいで何かと難しい土地と伺っております。北条の若ぎみさまとして、お役に立たれておられるでしょうか」

「え……あ、はい」

 福が小さくうなずいた。

「私も……乙千代丸さまに来ていただいて感謝しております」

「そうでございますか」

 肩の動きで、ほっとしたのが分かった。

「乙千代丸さまは、ものごころ付いた時に乳母を亡くされてしまいましたが、心細さにも負けることのなかった、お強い方でございます」

 もちろん御曹司として大勢にかしずかれてはいたが、子供が頼るべき乳母を失った不安と孤独はいかほどであったろうか。

 それは福にも、容易に想像できた。

 私にはちかがいたけど、乙千代丸さまは私以上にずっと一人だったの……。

「いつも人目のない陰で努力をされておりましたが、それを誇らしげにもなさりません。常に謙虚なお人柄で、どこに行かれても尊敬に値するお方だと思っております」

「……」

「お方さまも、必ず乙千代丸さまへご好意を持っていただけるかと思います」

 控えめな物言いから溢れる熱意に押され、福は小さく「はい」とうなずいた。

「乙千代丸さまのこと……よくご存じなのですね」

「いいえ。ただ御前さまにお仕えしておりましたので、若ぎみさまたちをよく拝見していただけでございます」

 平伏するその頬に、乙千代丸と同じ翳を感じた。

 福の着替えを手伝い終えた三山は、「これを」と、小さな釣鐘を差し出した。

「風鈴というものです。近ごろ小田原で作られるようになったと聞きました」

 蔀に吊り下げさせると風に合わせて揺れ動き、高く涼しげな金属の音が響いた。余韻があって、耳に心地よく感じる。

 福が嬉しそうに風鈴の動きを見つめた。

「お気に召しましたら、小田原滞在中のお慰めにしてくださいませ」

 思いやりのこもった優しい声だった。

 その声に合わせるように、

「福はもう、いらっしゃいましたか?」

 乙千代丸の声がやって来た。

 はいと返事をする間もなく、几帳の影からひょいと顔を出して、耳をすませた。

「所用は全て終わらせてきましたが……ずいぶん美しい音色が聞こえますね」

「ええ。それよりも、いきなりのぞかないでくださいまし」

 福は恥ずかしそうにうつむいた。

「だって早く福のお顔が見たかったのです」

 乙千代丸が丁寧に、優しく言ってから、傍らに侍している三山に気付いた。

 一瞬「あ……」と何か言いかけたが、すぐに、

「お母上ははうえさまのところからいらしたのですね。妻のためにご足労いただきかたじけないと、お伝えください」と労った。

 お母上さまとは、乙千代丸の、香子の呼び方である。

「かしこまりました」

 三山は深く深く腰を曲げて礼をし、「私はこれにて」と退いた。

 去っていく足音が青い空に吸い込まれていくのを聞き届けてから、

「もう海はご覧になりましたか」

 福の横に腰をかけて、乙千代は静かに優しく言った。

 恥ずかしさで顔をあげないまま、福は首を横にふった。

「今までは?」

「いえ、一度も……」

「では時間ができたら、ご一緒しましょう」

「え、よろしいのですか?」

 思いがけず嬉しい言葉に、とっさに明るい表情で面をあげたが、目が合うとまた気まずい心地になり、さっと横に逸らした。

「海を知っている人は……なぜ海の話をしたたがるのでしょうか?」

 乙千代丸は顎を撫でながら、あぁと小さく唸った。

「山の者が初めて小田原にやって来て、まず何をすると思いますか?」

「え……さぁ」

「海を見に行くことです」

 囁くように言う。

「そして海で育った者は、海を見たことがない者が、初めて海を見たときの反応を見て楽しむのです」

 福は目尻でそっと乙千代丸を盗み見た。

 この人はなぜ、そのような話を大真面目な顔で言うのだろうか。

「冗談です」

「え?」

 戸惑いで赤くなった頬を、両手で隠した。

 考えてみれば、乙千代丸が小田原や相模など故郷の話をするのを、これまで聞いた記憶がなかった。福のことや武蔵、秩父の話を聞きたがってはいたが、そもそも彼自身の話は向けてこなかったことに、今になって福は気付いた。

 三山と話したことを心の中で反芻した。

 一緒に行こうと言う乙千代丸が少し寂しげに思えて、用土へ行った兄と重なって見えた。

 福と二人になってから、菊名が言った。

「あの三山の娘という腰元は、綱定の妹でございます」

「え、まぁ、では」

「はい、乙千代丸ぎみの生母でございます」

「私、きちんとご挨拶しませんでした」

 福がうつむくと、菊名は首を横に振った。

「本人から申し上げることはいたしませんので、お方さまも口になさらないで結構でございます。ただ、その心づもりで仲ようしていただければ、それだけでよろしうございます」

 どれほど正妻が子供をもうけることができたとしても、産める数に限りはある。だが、当主の子供はできるだけ多く欲しい。

 そこで正妻が、信頼できる寵臣の娘で、邪心を持たず見目も人柄も申し分のない健やかな女性を選び、自分の代わりに子をなして貰うのである。

 三山綱定の妹は、香子のお気に入りの腰元たちの中でも、選び抜かれた特別な存在であった。

 しかし出産が済めば子供は正妻が預かり、自身は再び奉公に戻るというのが掟の、厳しい身分社会である。

 乙千代丸が幼くして乳母を亡くしたからといって、代わりに実母が抱き育てることなど当然できるはずもなかった。

「私と三山どのは昔から昵懇にしておりましたので、そういうご縁で私が藤田家へ参ることになったのでございます」

「乙千代丸さまはご存じなのでしょうか」

「特に教わってはいないでしょうが、知っておられるかと」

 まだ十にもなっていない福は、乙千代丸と同じ翳の意味をうまく説明できる言葉を持っていないが、いつも同じ笑顔の意味が分かるような気がした。



 そんなことをぼんやりと考えながら日々過ごしていると、約束の機会はすぐに訪れた。

 出立前、輿の小窓から外をのぞくなと、乙千代丸が真面目な顔で念をおしてきた。

 進むにつれて、坂道を登っているような感覚になった。どこに連れていかれるのだろうかと少し不安になり、固く目を閉じ、身動きもせずじっとしたまま、揺られていた。

 やがて輿が地面に下ろされたのが分かったので、袿を被った。

「開けますよ」

 一瞬目にきらりとした光が飛び込んできて、思わず目を閉じた。

 それから、おそるおそる開けてみた。

 山の中腹だろうか、空気が少しひんやりした感じが荒川の畔と似ている気がした。覆い繁った薄緑から溢れる木漏れ日がまぶしい。

 目を細めて辺りを見渡した。

 曲輪のような場所に、礎石のような大きな石があちこちに転がっている。

「海へゆくのでは無かったのでしょうか」

 おずおず尋ねても、

「大丈夫ですよ」と、意にも介さないふうに乙千代丸が手招きした。

「ここにはかつてお堂がありました」

 鎌倉の府を開いた源頼朝が旗揚げに失敗した後、再起を図った場所だという。

「東国武士にとっては鎌倉と並ぶくらい重要な場所なのです。あなたにまず見せたかった」

 足元に気を付けてと言われ、福が手を引かれて歩いた先には、下草が踏みしめられた跡が続き、突き当たると一斉に空が広がる場所に出た。

 乙千代丸があれをと指し示した方を、福は見やった。

 ああっ

 わあっ

 自分でもどう言ったのか分からないような声が出た。

 彼方では、透き通ったような青が左右遥かに続き、たゆたう白い波がどこまでもさざめく。遠くにいくほど藍が濃くなっていき、薄青い空とは互いに境目をくっきり主張しあっていた。金色の粉をふりかけたように、陽光がきらきらと輝いている。

 思わず袿を放り投げて、丸い瞳で乙千代丸の方を振り返った。

 乙千代丸も白い歯をこぼした。

「そう、これが相模の海です」

 海とは何と広く、のびやかなのであろうか。

 乙千代丸が遠くを指さした。

「あれが真鶴の岬です。あそこから頼朝公は対岸の房総へ旅立ちました」

 真鶴の背後には三浦の岬、さらにその後ろにはうっすらと房総の影が広がっている。

「荒れた東国を平らかにしたいという、祖より代々続く我々の願いを叶えるための努力を惜しんではならぬと、ここで改めて自分を奮い立たせるのです」

 言いながら乙千代丸は、父の言葉を思い出していた。

 ──くれぐれも藤田の姫を丁重に扱うのだぞ。粗末に扱ってると思われたら、北武蔵の連中にたちまちそっぽを向かれてしまうからな

 この話の時の氏康は、いつも表情が読み取れなかった。

 ──お前の気持ちまでは担保にせぬから、好きにしろ

 担保とは果たして、どういう意味だったのだろうか。

 乙千代丸は、大人ぶって福の頭をぽんと叩いてみた。

「喜んで貰えましたか」

「えぇ……」

「福が喜ぶことをしたかった」

「え?」

 一瞬驚いたように目を開いてから、福はうつむいた。

「乙千代丸さまが……何だかおかしい」

「私がおかしい?」

 野心を見抜かれたかと、どきりとした。

 福はその場にしゃがみこんで再び海を眺めていたが、乙千代丸をちらりと見て、目があうと慌てたように頬を押さえて前を見直した。

 しがらみも無い少女らしい笑顔を見たのは初めてのような気がして、こんなにまぶしい娘だったのだと、乙千代丸は知った。

 二人で肩を並べてしゃがんで海を見続けていたが、

「おれも……おかしいのかな……」

 福に気付かれないように、時折そっと盗み見ていた。



「御前さまより、こちらを福さまにと」

 そういって届けられた紅白粉は、最近京で流行っている高価なものであった。

 まだ化粧っけのない福を案じた香子からのささやかな贈り物である。

「まぁ、まぁ、ようございましたね」

 あまり着飾らず、本来のいとおしさも隠すようにひっそりと過ごしている福に気を揉んでいた菊名は、さっそくお使いなさいませと、いそいそと大きめの鏡立てを用意した。

 薄紅色の粉をすっと刷くと、それだけで福の冴えない顔色が明るくなった。

「まぁ、おかわいらしい」

「そうかしら……」

 鏡に映る自分と目を合わせてもよく分からないが、そうですとも、と畳みかけられると、まんざらでもない気がしてきた。

 柿色の小袖に着替えて庭に出てみると、初秋の高い空に吸い込まれるように、周りの景色とよく馴染んだ。

 福が娘らしいことをしたのは、初めてかもしれない。

「ねぇ、ご覧になったら、なんと言うかしら」

「はて、どなたのことでしょうか」

「あ、いいえ」

 なんでもないと恥じらう仕草もかわいらしい。

 じつは乙千代丸が、武器庫になっている櫓で、好事家のように隠れて槍を磨いているのを、福はすでに知っていた。

 時折こっそり行ってはそばで見ているだけだが、大人の秘め事をしているような気持ちになり、ちょっとだけ胸が高鳴る時間になっていた。

 身舎の、槍掛けがずらりと並んでいる場の端に、いつも乙千代丸は座り込んでいる。

「乙千代丸さま」

 どういう顔をするだろうかと期待を胸に、小声でのぞいたが、そこに姿はなかった。息をひそめたまま奥へ足を滑らすと、並ぶ槍掛けの間に乙千代丸が倒れ込んでいた。

「乙千代丸さま」

 驚いて駆け寄ると、安らかに寝息をたてている。

「え……?」

 予想外のことに面食らい、しばらく立ち尽くしていたが、はっと我に戻り、

「乙千代丸さま、ここで寝ていては危のうございますよ」

 それに残暑とはいえ、薄暗く涼しい櫓の中である。

「お腹を冷やされますよ」

 言いながら、そっと脇を掴み、端のいつもの場所まで引きずっていった。

「袿を取りに行ってまいりますね」

 寝ている乙千代丸に囁くと、ひとえの裾をひしと掴まれた。

「……は……うえ……」

「まぁ?」

 今確かに、を聞いた。

 しかしこれ以上身動きが取れなさそうなので、両親がよくしていたのを思い出し、その場に座って乙千代丸の頭を自分の膝の上に乗せ、手を握った。

 狭間から流れ込む風が心地よく二人を撫で去り、福も次第に気分がよくなりかけた時、

「あれ、福?なぜこのようなところで寝ているのですか」

 乙千代丸が寝起きで枯れた声を出した。

 寝ぼけ眼で、こちらを見上げている。

「まぁ、それはこちらが訊くことですわ」

 あ、そうかと、照れたように笑いながら、乙千代丸は身体を起こした。

「夢の中で、手がとても暖かくて……」

「手?」

 福は気付かれぬように、ぱっと手を離した。

「それは……ははうえ……さまですか?」

「え?」

「いえ、何でもございません」

 やっぱり聞いてはいけないような気がして、口をつぐんだ。

「おれ、何か言ってましたか?」

「いいえ、別に」

「……」

「……」

 その後なんとはなしに二人で櫓を後にしたが、そういえば、福の化粧について乙千代丸はひと言も触れなかった。

 なぁんだ……。

 自分のことをそれほどよく見ているわけではないのだと気付き、とたんに寂しくなった。同時に、独りよがりな期待を持ったことが恥ずかしく、誰かに悟られたくないとも思った。

 乙千代丸もしばらくは平素通りに過ごしていたが、ある時、

早生わせだ。自分で獲ってきた」

 まだ小さいみかんを山ほど抱えて、突然福の部屋を訪れた。

「まぁ、こんなにたくさん」

「早く福にあげたくて」

 照れたように笑った。

 二人並んで縁に座り、小春日和の日差しを受けながら、乙千代丸が一つ皮を剥いてみせた。その手元を見ながら、

「花はどんなふうに咲いているんですか」

 福が問いかけた。

「花?」

「えぇ。見たことがございません」

「橘は見たことがありますか?」

「絵でなら……」

 知識では知っていたが、秩父の山奥では実際に見る機会はなかったと、恥ずかしそうに答えた。

「橘とは近いですが、少し違いますね」

 乙千代丸は、色々興味を持つのはいいことだと笑い、

「白くかわいらしい花ですよ。来年咲いたら、おれがみかん畑まで連れて行ってあげます」

 剥きあがると半分に割り、片方を渡す。

 丁寧に筋を取っている乙千代丸の横で、筋も取らずに、受け取ったそのままを福は口に放り込んだ。

 驚く乙千代丸に向かって、「なにか?」と無邪気な顔を見せる。

 よくよく考えると、これが山育ちの娘なのか……という仕草を見せることが、ままあったことに、乙千代丸は気付いた。同時に、今さらな自分に少し落胆もした。

 りすのように頬をふくらませている様子が妙におかしくて、思わず手をのばして触れてみた。福は少し驚いたようだが、口をもごもごさせたままにっこりとした。

 乙千代丸はもう一つみかんを剥き、今度は丸ごと渡し、興味深そうに見た。

「あの時おれは、何を言ったのでしょうか」

「あの時とは?」

「一緒に櫓にいて……あなたが、きれいに着飾ってた時ですよ」

「え?」

 福は、どきりとしたのを悟られないように、二つに割ったみかんの片方をさっと口に入れた。

 乙千代丸はそれ以上は追及しづらく、しばらく黙って自分のみかんの筋を黙々と取っていた。

 顔をあげると、福が、目を見開いて小鳥が件目に威嚇するような顔で、みかんを口いっぱいに頬張っている。

 驚いてみかんを落としそうになり慌てたが、胸がくすぐられたようにざわめいたのは、乙千代丸も初めての経験であった。

 また別の日、二人で紅葉の美しくなった庭を散歩している時、

「あの時のこと、教えてください」と囁いてみた。

 もはや福の反応を見たくて言っている部分もあった。

 福はタッと走りだした。乙千代丸は簡単に追いついて福の腕を捕らえる。

「なぜ逃げるのですか」

 息を切らせもせずに訊くと、

「知りませんと申しましたのに、何度も訊くからです」

 少女らしく拗ねたように言った。

「もし何かあっても、誰にも言いません。絶対に」

 本人も自覚していないところに、お転婆な気質が隠れていたのだろうか。

 仔犬かな?

 どうにもいじらしくて仕方なく、ふわりと後ろから抱きとめると、身体の内側から何かが突き上げてくるような感じがした。

「兄上、痛い」

 福が口走ったが、すぐに、

「あ、間違えました」

 慌てて両手で口を塞いだ。

「申し訳ありません。兄上に嫌われて以来、口に出すことを憚ってましたのに、つい気が緩んでしまって……」

 紅葉よりも赤く頬を染めた。

「いやだなぁ、おれは兄上どのじゃないですよ」

 乙千代丸は笑おうとしたがいつものようには上手く顔が作れず、重連は今まで当たり前のように福を抱きしめていたのかと思うと、兄妹きょうだいだから何もおかしなことは無いと頭では理解しつつも、どうしようもなく腹が立った。

 おれのものに無断で触れたと、過去に対して理不尽で身勝手な憤りを覚え、福を抱く腕に力が入った。



 翌年の初夏、長尾が越後を発った。

 まるで手土産のように道中の城を次々と制圧しながら関東に向かっているという報せが、小田原にも舞い込んできた。

 関東平野では稲作の合間に、麦や大豆を育てる二毛作が可能であり、何とか生き延びることができる。しかし越後は二毛作ができない。

 長尾の越山は、天候不順でも比較的恵まれた関東平野の夏地子を奪うのが目的であった。

 越後の口減らしのために、身体が大きく食い扶持のかかる腕力自慢の荒くれ者を連れて来ているだけに過ぎないと分かっているにも関わらず、関東諸将は越後軍の快進撃に喝采をあげ、こぞって長尾軍に従う。

 おそらく、長尾が関東管領上杉氏を奉じているからというより、どうしても新興勢力である北条に従うのが我慢ならないのであろう。

 北条は、越後軍への迎撃体制を整えながら、同盟相手の武田と今川にも援軍を請うた。

 武田はすぐに呼応してきたが、今川は上洛を開始し、尾張の織田と交戦中だからといって断ってきた。

 長尾の狼藉は武蔵でも例外ではなく、麦の強奪後、城下一面が焼き払われていた。

 天神山領に残っている人たちががどうなったのか母、西福に文を出したが、心配しなくていいという返答だけであった。

 まるきり山賊のような行為に、子供の福ですら嫌悪感しか抱けなかった。

 そして、関東各地を荒らしまわっていた長尾が、ついに小田原城を包囲した。

 櫓に登ると遠巻きに黒い人の波が見えたが、中には、呼応した反北条の者も少なくはないだろう。

 北条は、籠城に徹した。城内の蓄えならある、無駄に腹が減るだけだから余計なことはしない。

 その北条の思惑どおり、ひと月ほどで長尾が囲みを解いた。

「この時期には、もう兵糧も尽きて不満も出るだろうからな」

 と、評定では、してやったりという空気だったという。

 小田原城包囲を諦めた長尾景虎がその足で鎌倉へ入り、関東管領上杉氏を相続したという報告がもたらされた時、北条氏康の顔色がさっと変わった。

「は? 上杉政虎に改名? 誰だそれ」

 北条は鎌倉公方からすでに関東管領の職を賜っている。

「越後のヤツが、我らと同格とでも言うのか」

 長尾を上杉と呼ぶ者がいようなら、斬りつけかねない怒り具合である。

 留守になった越後方面へ武田軍が出陣したという報せを受け、慌てて北へ戻っていった上杉政虎の幻影に向かって、氏康は拳を振り上げた。

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