玉淀にそばだつ

和田さとみ

第1話

 その日、北武蔵では暑さがひと段落し、草木も気持ちよく眠り込んでいるようだった。

はおるかっ」

 ぬるんだ空気を破るかのごとく、父、藤田泰邦が花園城に帰ってくるなり、叫びながら部屋に入って来たものだから、

「せっかく昼寝させたところなのに、起きてしまったではないですか」

 と、眉をひそめる母、西福に髪を撫でられながら、福は寝ぼけ眼で泰邦を見上げた。

「ちちうえ、おかえりなさいませ」

 眠そうに目をこすっていると、「かわいいのう」と顔をほころばせながら、泰邦は、福の小さな背中を優しく抱き起こした。

「お前にお婿さんがくるぞ」

 耳元でいたずら少年のように囁く。

「おむこさん?」

「まぁ」と、とんだ不意打ちに目を丸くしたのは西福である。

「まだ五つになったばかりではないですか。ずいぶんと慌ただしいお話しだこと」

 かたわらに控えていた福の乳母も、同じ顔をしていた。

「うむ、だから急いで戻ってきたのだ」

 小田原城に出仕したところで、北条家当主の氏康に呼び止められ、突然「我が息子を養子に貰わぬか」と打診されたと、泰邦はいう。

 今までそんな素振りも見せてこなかった氏康だが、

「なるほど、ご本城さまは藤田家の状況をよくご覧になられておる……」

 と感じた泰邦は、この話に飛びついてみることにした。

「相手は氏康どのの五男、乙千代丸ぎみだ。お前の三つ上で年回りもよい」

 とんとん拍子に話が進み、一刻も早く伝えねばと馬を駆ったのであった。

 乙千代丸の生母は側女そばめではあるが、それを感じさせないどころか、むしろわずか八歳でどの兄弟よりも堂々と振る舞っているように、泰邦の目には映った。

「ご城内でも、女子衆おなごしにたいそう可愛がられておいでのご様子。あの若ぎみなら、福にとっても自慢の夫となられるだろうよ」

「ふぅん?」

 幼い福はまだ興味もなさげだったが、父親の嬉しそうな様子を見て、楽しい話に違いないと、一緒に笑った。

「あにうえさまも、よろこぶかな?」

「うむ、梅王丸も一緒に喜んでくれるよ」

「ほんとう?」

 ちちうえ、ありがとうございます、と小さな丸い手で泰邦の胸元にしがみついた。

「福が八つになったら藤田家に入っていただく。それまで北条の代官どのにこの地を任せるよう手筈も整えてきた」

「まぁ。三年後まで殿がこの地を治めておれば、よろしいではございませんか、なにも北条のお代官まで呼ばなくても」

 西福が不満げに言った。

「近頃お加減がよろしくないとはいえ、まだ三十を過ぎたばかりでございましょう」

「無事に婚儀が執り行われるのを見届けるまで儂も生きておればよいが、自分の体調は自分が一番よく分かっておるのでな」

「病は気からでございますのよ。げんに今日はご気分もよろしそうじゃありませんか」

 父母の顔を見比べている福の両耳を、ちかが懸命に塞いでいるのを尻目に、

「それに…」

 西福が不穏な表情で声をひそめた。

「今から婿養子などお決めになって、梅王丸はどうなさるおつもりですか。福もあんなに慕っているのに、これで兄妹きょうだい仲が気まずくにでもなったら…」

「分かっておる。だが、わしもよくよく考えてのことだ」

 泰邦が、梅王丸はどこぞ?と問い、

「おそらく弓の練習を。呼んでまいりましょうか」

「いや、いい。あとでわしから話しに行く」

 深く遠くを見つめるように澄んだ瞳を、格子窓の外へ投げかけた時、

「泰邦どのッ、たった今、家臣に聞きましたよ」

 この日一番の大きな声をあげながらがズカズカと部屋に入ってきて、不躾にどっかりと座りこんだ。

「当家には梅王丸という立派な跡取りがいるのに、北条から養子を貰うとはどういうつもりですか」

「母上、そのようにカッカなさらずとも」

 泰邦は苦笑し、火を付けたような剣幕の物言いに気押されているちかに、福を連れて部屋を出るよう促した。福には、

「兄上のところに行って、庭のアケビでも獲って貰うよう、おねだりしなさい」

 と言いつけ、「よろしいですか」と、真剣な表情で於万を振り返った。

「足利の将軍家から派遣された鎌倉公方足利氏とその家宰、関東管領かんとうかんれい上杉氏に、東国は長らく統治されてきました」

 藤田家はその上杉氏を味方につけて上野こうずけや甲斐への街道を含む秩父一帯を掌握している、実質北武蔵の支配者である。

 ところが足利氏や上杉氏の分裂によって東国は乱れ、この機に乗じた近隣諸国の領主たちが、武蔵への侵攻を開始してきた。

 武蔵の守備の最前線にいる藤田家への攻撃は激しさを増した。そして、その隙に上杉氏に直接取り入って泰邦の地位を奪おうとする一族の者も現れ、泰邦はすっかり疲弊してしまった。

 そこにやって来たのが、河越の合戦での勝利以来関東で勢力を伸ばしてきた北条氏康である。

「北条に従えば、藤田家の地位を保証いたしましょう」と誘いをかけてきたのだ。初めのうちこそ泰邦も拒んでいたものの、藤田家が頼っていた上杉氏の当主が、北条に敗れて遁走したという報せを目の当たりにして、

「藤田家を守るためには、北条氏に従うのがよい」と判断したのである。

「ですから、そこまでは私も承諾しましたよ」

 於万はにらみ返し、

「しかし何故にこちらが婿養子を貰わねばならぬのですか。梅王丸に嫁を貰うのが筋ではないですか」

「梅王丸だけの力では、当家を脅かす勢力とは戦えませぬ。武蔵の守りの要として北条もこの地が欲しいのですから、梅王丸とて決して悪いようにされることはありません」

「我が息子ながら軟弱な」

 いまいましげに舌打ちをした。

「病で気が弱っているのか知らぬが、さっさと梅王丸に跡目を譲れば気も休まるではないか」

「梅王丸は用土の家に養子にやります。用土は信頼できる我が弟です」

「そなた正気か?」

 於万は一瞬言葉につまったが、「どうかしている」と部屋から出て行ってしまった。

 西福は、

「いたわりどころかあのような物言い、義母上もずいぶんではありませんか……」

 静かな声に怒りをにじませたが、

「上杉氏から長年のご恩を受けてきた母上だからな。突然やって来た余所者の北条への嫌悪もあるのだろう」

 泰邦は理解を示すと、ため息をついた。

「あまり怒らんでやってくれ」

 傾き始めた日がその頬に濃い翳を落とした。



 藤田家の今後を決めたとたん、張りつめていた気が抜けるように泰邦は身罷った。

 天文から弘治へ変わってほどなくした頃である。

 倒れてからさして苦しむこともなくあっさりとした最期に、於万は、北条に殺されたと騒いだが、藤田の家臣達はほとんど取りあうこともなく、むしろ泰邦の遺志を継ぎ……というより、仕える主が外敵に滅ぼされることを畏れ、本心はどうあれ北条から来た代官に従うものがほとんどであった。

 葬儀は北条から来た代官で、乙千代丸の伯父にあたり傅役でもある三山綱定が取り仕切った。

 参列の席での梅王丸の落ち着き払った様は、元服前の若輩でなければ……と居並ぶ者たちがつい考えてしまうほどであった。

 梅王丸はまだじっと我慢ができない幼い福を、葬儀中は外で遊ばせていたが、全てが終わってからひと気のなくなった広間へ招き入れた。

「あにうえ、みて」

 庭で見つけたといって、福は小さな掌を開いて見せた。

「いや、待て。これは」

 見たことのない、小さな桜色の茸を持っていた。

 梅王丸は慌てて取り上げ、

「これは俺が貰ってもいいかな」

 優しく手巾で福の手を拭き取り、懐紙で茸を包み袖口に仕舞った。

「うん、きれいだから、あにうえにあげようとおもってたの」

 まだ舌の回らぬ物言いに、梅王丸は苦笑いした。

「でも、これはもう獲ったら駄目だぞ」

「どうして?」

「福には毒だからな」

「そうなの?」

「あぁ。綺麗でも信用してはいけないよ」

「ふぅーん」

 幼子は目が離せないなと言いながら、福を自分の膝の上に座らせ、父の白木の位牌を見せた。

 福は不思議そうに兄とそれを見比べた。

「まだ葬儀が分からないか」

 梅王丸は乾いた笑い声を出した。声変わりしたての梅王丸のそれは、泰邦と聞き違えんばかりである。

「父上は、これを俺にくださった。藤田家の嫡子に代々伝わってきたものだ。」

 珍しい、赤い珊瑚の数珠を福に見せた。親玉に藤田の家紋が掘られている。

「どうだ見事な細工であろう」 

 幼い福が触れようと指を伸ばすと、

「お前には触らせんぞ」

 笑いながら、数珠を高々と掲げた。

「俺は、じき用土へ移らねばならぬ。もうお前とは遊んでやれない」

「どうして?あにうえとあそべないの、つまらない」

 庭木の果実を誰に獲って貰えばいいのか。

「アケビとか、スモモとか……もうすぐビワがなりますよ」

 こしゃまっくれた口調で、福は兄を見上げた。

「俺はこれから、お前の家臣となるからだ」

「かしん?あにうえは、あにうえではないの?」

「お前の兄ではなくなる。父上がお決めになったことだ」

「かしんだと、なぜ、あにうえではないの?」

「いずれお前にも分かる時がくる」

 妹を抱きしめ、艶やかな切り髪に頬を寄せた。

 梅王丸にとって十もはなれた妹は、娘のように慈しむ対象だと思っている。いずれ自分が当主になったあかつきには、何の苦労もさせずよき縁を結んでやろうと、まるで父親のような気分になっていた。

「お前の婚儀が先に決まるとはなぁ」

 気付くと陽はすっかり沈んでいたが、東の空から差し込む月明かりで、灯明がなくても表情ははっきり見える。

「あにうえは」

 福は身体からだを離し、梅王丸の横顔を窺った。

「どうして、ないてらっしゃるの?」

 細めた眼には少年らしい生気がみなぎってはいるが、福にはそう見えた。

「泣いてなどないよ」

 藤田の家に生まれた身を呪っているだけだ、いや、呪うべきはそこではない、俺に力が無かったことだ……と、梅王丸は続けた。

「さすれば父上もこんなに早くお亡くなりにならなかったかもしれない」

「……」

「母上も一緒に用土に行かれる。お前はこの花園城に嫡女として一人残るのだ」

「……」

「お祖母さまは残る。だからお前は一人ぼっちだ」

「……?」

 この時の福には意味は分からなかったが、その声はあくまで穏やかで優しい兄に思えた。

 遠くで、「姫さまはどこぞに」と、ちかの足音がした。

「乳母が探しておるな」

 行けと梅王丸が促す。

 福は不安そうに兄の袖口を掴んだが、

「俺は父上の本当の志を継ぐつもりだ」

 強くそれを振り払うと、

「達者でな」

 優しく嗤った。



 梅王丸と西福が供回りのみを連れて用土に移った後、静かになるいとまもなく、花園城内に小田原から家臣団が百名ほど入ってきた。

 元々相応の奉公人がいたのでいきなり人数が膨れ上がったわけでもないが、ものものしい雰囲気だけは増し、初夏の日差しの下でせわしなく走り回っていた。

 母親と兄が去って以来、ちかの裳袴に隠れるようにして渡殿を歩く福が、

「こわい」

 涙ぐむと、ちかはしゃがんで、努めて明るい顔で幼い姫の背をさするしかできなかった。

 北条の到来を父親があれほど喜んでいたのだから、北条が悪いものとは福も思ってはいないが、

「あにうえ、いないの」

 いつも一緒に遊んでくれていた兄がそばにいないのを、不安がった。

 見渡せば行き交うのは知らぬ顔ばかり。小田原から来たものたちは決して我が物顔で肩をそびやかしているわけではないが、見知っていた者はここより遠い随身所にやられたと聞く。

 代官の三山綱定はまだ四十に手が届かないくらい若く、一人残った姫に対してなにくれとなく気遣いを見せてはいるが、奥向きのことに細かく指示できる老練家というわけでもない。

 頼れる身内もいなくなったんだもの、怖がるのも仕方ないと、ちかがいつも通り諦めていると、

「姫さま、お加減如何かな」

 対屋の庇の下に亡き泰邦の弟、用土業国が立っていた。

 顔は泰邦とそれほど似てもいなかったが、立ち姿はそっくりである。

 見慣れた直垂姿を確認するなり、福は顔をぱぁと明るくし、ぱたぱたと駆け寄るとその勢いのまま飛びついた。

「用土のおじさま」

 業国も相好を崩して受け止め、

「おっと、少し見ない間にまた大きくなられたようですなぁ」

 片腕だけでひょいと抱き上げた。

 追いついたちかにも、「息災だったか」と気遣いを見せる。

「葬儀以来顔を出さずに申し訳なかったな。こちらも色々忙しかったものでな」

「いいえ。そちらのご様子お察しいたします」

「これからはもっと頻繁に様子を見に来るから許せ」

「そんな、私にまでお声かけくださりもったいのうございます」

「おぬしには、この子を頼まねばならぬからな」

 にこやかな顔のまま福の部屋へ行き、福をしとねに降ろすと自身も正面に腰を下ろした。福がしがみついてたせいか、襟元がすっかり汗で濡れている。

 空には雲ひとつなく風も止み、庭の騒がしさが尚更暑く感じさせた。

 首の辺りを手巾でぬぐいながら笑っていると、於万のけたたましい声が響いた。

「福、先ほど私の部屋へ置いて行った書物が間違ってましたよ、一体どういう躾けを……」

 ずかずかと入り口まで来ると、業国が座っているのに気付き、

「まぁ。お前、来ていたのですか」

 遠慮もせずに入ってきた。

「私のところよりこちらに先に来ているとは、どういう了見なの」

 図々しい子だねと、福を睨み付けた。

 業国は福の視界を遮るように座り直すと、

「たまたま会っただけですよ」

 にこやかに返した。

「梅王丸が元服をすませたので、その報告に参ったのです」

 元服した梅王丸は用土の姓を継ぐことを許され、弥八郎重連と名乗った。しばらくすれば、藤田家の家臣として仕えることになる。

「まぁよろしいことですね、おめでとうございます」

 福の後ろから、肩ごしにちかが祝いを述べると、

「何がめでたいものか」

 於万はあからさまに不機嫌になった。

「本来ならここで華やかにお披露目されたはずなのに、なぜ支城なぞで…哀れではないか。それになぜ事前に知らせてこぬ。ないがしろにされて、なんとかわいそうな」

 刺々しい口調を隠そうともせずにまくし立てた。

「だいたい、乳母の分際で口を挟んでくるとは、西福はお前にどのような躾けをしてきたんだい」

 キッとちかを睨みつけた。

「母上、よろしいではないですか。八つ当たりもいい加減になされませ」

 業国は、福の表情が硬くなっているのに気付くと、ふいと立ち上がり、

「さ、母上のお部屋に参りましょう。式の様子などを詳しくお話いたしますから」

 機嫌が直りきらないままの於万を連れ出した。

「福、また後ほどな」

 振り返って、肩をすくめた。

 しかしこの日以来、於万の機嫌はさらに悪くなった。

「福ッ」

 使いの者を呼びにやったのになぜすぐに来ぬ、と叫びながら、その日もずかずかと福の部屋へやって来た。

「この私を四半刻も待たせたね」

 入るなり、不躾に几帳をはね除ける。

「も、もうしわけありません……」

 祖母の剣幕に、写経の途中だった福は筆を放り投げて平伏した。桜色の丸い手が、分かりやすいほど小刻みに震えている。

「本当に愚図な子だねぇ。なぜ泰邦は、お前みたいなのを藤田家の跡取りにしたのやら」

 何度繰り返されただろうか。

 その度に福は小さな声で、もうしわけありません、とお経のように唱えるだけであった。

 於万は福の横に置いてある硯をつまみ上げると、簀子に出て、墨池の墨を庭に垂れ流した。庭の草に跳ね返り、辺りが黒く染まった。

 それから、

「このような贅沢品、お前にはもったいない」

 庭に投げつけた。敷石に当たり、木っ端みじんとなった。

「あっ」

 福はとっさに両手で口を塞いだ。

 硯は、於万が福の誕生祝いに贈ってくれた品だと、両親から聞かされていた。

 当人はそのことを忘れているのだろうか。それとも、あえてやったのだろうか。

 いくら機嫌が悪くても孫の自分を心底嫌っているわけではないと、その硯を見ては、心の慰めとしていた。それが、目の前で粉々になったのである。

 みるみる涙が溢れてきたが、泣いたらまた叱られると思い唇を噛んで堪えた。

 於万から解放された後、部屋から皆を追い出して一人きりになり、袿を被って声を殺して泣いた。

 父がいないのは、とっくに知っている。しかし母や兄までいないのは、今でも理解ができずにいた。

 西福は用土へ去ってから、二、三度ほど文を寄越してきたが、於万を憚ってか会いにはきてくれない。重連は音沙汰すらない。

「ははうえぇ、あにうえぇ」

 なぜ自分がこんな仕打ちを受け続けるのか、全く分からなかった。周囲は北条を憚ってか、誰も教えてはくれない。ちかですら言えなかった。

 しかし、ことあるごとに於万が、

「お前さえいなければ」

 と、言っているので、とにかく自分さえいなければ祖母はこんなに怒ることもないのだ、と思った。

 藤田を継ぐ器量がないのだからきちんと躾けないといけないねと、於万は福を呼び出してはあれこれ用を言いつけ、さらに手習いのできが悪いだの薙刀がくだけ腰だのと、必ず余計に付け加える。

 於万を見るたび兎のようにびくびくしていたのが、さらに顔色を失うようになり、朝夕の膳も、

「ほしくない」

 か細い声で言うようになった。

「姫さま、少しでもお召し上がりにならないと」

 周囲が案じて申し上げても、

「いらない」

 首を横に振るだでけある。

 この年の頃の娘なら手よりも口が先に動くものなのにと、ちかが涙ながらに綱定に訴え、やがて庭に萩が咲き誇る頃、ようやく西福と重連が呼び寄せられた。

 元々小さく細かった指が、さらに折れそうなほど細くなっているのを見て、西福は、

「ごめんなさいね」

 ひたすら繰り返した。

 大事な跡取りの孫が追い出されて腹立たしい於万の気持ちは、理解している。しかし西福にとっては、孫どころか我が子である。まるで重連が自分のもののような於万の意固地な態度は、西福にも愉快とは言い難かった。

「無理にでも、もう少し会いにきますからね」

 それが母のできる精一杯だと言った。

 奥向きを仕切る女あるじの不在は、城内の不安しか引き起こさない。

「あなたが早く大人におなりなさいね」

 指先が赤くなるほど、握りしめた。

 一方重連は、今日来たことを後悔しているようであった。

 福を花園城に一人残した時から、こうなると分かっていた。それを振り払って出たはずなのに、情に負けてのこのこ来てしまった。

 声を殺さなければ泣けなくなっている妹に、

「いつか迎えにくるから、それまでの辛抱だ」

 慰めるように言ってやった。

「いやだ、いやだ」

 福は一緒に行くとすがりついてきたが、

「すまない」

 自分の無力さをぶるけるように、そのか細い背骨がきしむほど力いっぱい抱きしめた。

「いい子にしてたら、欲しがっていた木の実を全て採ってやるからな」

 乾いた声で言い含めた。

 うんとうなずいて、以来福は、兄がいつ迎えに来てくれるのだろうかと幼な心に待ちわびた。時折祖母のいいつけから逃れ、生け垣の根本に一人で膝を抱えて隠れて、木の実をかかえた兄の姿を待っていた。



「三山綱定さまが姫さまにお話があるとのことですが、お時間はいつがよろしいでしょうか」

 昼をすぎても吐く息がまだ白い頃、表御殿との取次ぎ役がちかを通じて尋ねた。

「姫さまは、いつでも大丈夫でございます」

 福に確認してちかが障子越しに答えると、綱定はすぐさまやって来た。

「姫さま、ご不自由などされておりませんかな」

 よほど急いだのか、顔を上気させている。

「何かあれば遠慮なく言いつけてくださりませ。小田原からもそのように申しつかっております」

 すすめられた茵に座り、両拳を床についた。

「いつもありがとう存じます」

 打掛にすっぽりと埋まった福も両手をつき、小さくそれだけ言った。

 この二年で幼かった尼削ぎもすっかり伸び、振分髪は艶やかに成長していたが、その輝きを隠すように福はうつむいて押し黙って過ごしていた。

「今日は何のご用でございましょうか」

 ちかが、取り次ぐように訊ねた。

「おぉ、そうでござった」

 思い出したように膝を打つ。

「小田原から報せが届きましてな」

「姫さまにですか?」

「えぇ、年があけたら乙千代丸さまが向こうを発たれるとのことです」

「まぁ、さようでございますか」

「お父上とのお約束どおり、姫さまが八つにおなりになってすぐ祝言ですな」

 待ち遠しげに顔をほころばせてから、すぐに居住まいを正した。

「もちろん若ぎみお一人ではなく、さらに百人ほどが付き従って参ります。そうなればここは手狭になるので、天神山城へ移っていただくことに決まりました」

 天神山とはこれより西へ、山ひとつ超えた向こうにある城である。

「姫さまはこれから、お方さまと呼ばれることになります。百人の中にはお方さま付きとなる腰元もおりますので、今後はその者たちがあなたさまをお守りします」

「それは、姫さまも心強いですこと」

「乙千代丸さまは、北条家の御曹司の中でもとりわけ真面目で優れておられ、それがしの自慢の甥でもあります」

 じつは乙千代丸の生母が自分の妹なので、特に肩入れをしているのだと、照れたように頭を掻いた。

「藤田家の役にも必ずお立ちになられますし、北武蔵のことをまず考えてくださるはずです」

「……」

 色を変えない福の様子に、綱定は少し不安そうになった。

「あまり浮かないご様子ですな」

「いえ、そのような……」

 福は、ようやく重たげに答えた。

 親が決めた相手との婚姻に、異議を持ち合わせる者などいない。

 ただし、好き嫌いは当然存在する。

「北条家がお嫌いですか。於万さまのように」

「いえ、決して……」

 そういうことではないと、福は睫毛をしばたたかせた。

「決まっているお相手なので」

 気にしたところで今さら……と口ごもった。

「確かに、乙千代丸さまについてお尋ねになられることが、ありませんでしたな」

 綱定は、ふうむと顎を撫でた。

「やはりこれだけは申しておかねばなりません」

 鼻の頭が赤くなった様子は一見人がよさげだが、表情そのものは厳しい。

「泰邦さまには小田原で何度かお目にかかりましたが、大層北武蔵への思いやりに溢れ、勇敢で頭の切れるお方だと、それがしにもすぐに分かりました。そのお方が、東国の状況を読み取り、藤田家のおかれた立場を考慮なされた上で、北条の若ぎみをお貰いになる決断をなさり、武蔵の国衆はそれに従ったのです」

 もし福と乙千代丸との仲が悪ければ、北条は国衆たちに野心を疑われ、疑心暗鬼のうちに北武蔵はばらばらとなり、たちまち近隣の大名たちに侵略されてしまうだろう。

「決して脅しではありませぬ」

 藤田家の嫡女としてそのお覚悟は持っていて欲しいと、綱定は言った。

「武蔵の行く末は、姫さまにかかっております」

「はい……でも私は何をすれば……」

 その小さな肩にいきなり国を背負えと言われても、自分に何ができるのが全く分からなかった。

「なぁに、ただ、お二人で仲良うしていただければよろしいのです」

 綱定は相好を崩した。

「若ぎみは本当に折り目正しく、姫さまにもお優しくしてくださいます。何も心配ございません。ご安心ください」

 自分の言葉に納得しきったように、大きくうなずいた。

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