怪6





 おそるおそる目を開けると、公爵が床に尻餅をついていた。


「お父様?」

「なんだ……うわっ!!」


 公爵の体が、ずずず、と床の上を移動した。まるで、何かに引きずられるように。


「な、なんだっ!?」


 公爵は慌ててもがくが、見えない何者かが公爵の体を引きずって遠ざかっていく。

 アメリアは動くことも出来ず、その恐ろしい光景を見守った。

 恐怖に駆られた公爵が叫ぶ。


「や、やめろっ!! 放せっ!!」


 ぶんぶん手を振り回すが、何も当たらない。何もいないはずなのに、誰かが——何かが自分を引きずっていく。


「放せっ……」


 クスクス、と、かすかな笑い声が響いた。

 公爵は引きずられるまま、顔を青ざめさせて辺りを見回した。誰もいない。ずっと遠くなった部屋の入り口に、立ち尽くす娘の姿があるだけだ。


「誰かっ……」


 本邸とは違って、離れには使用人を置いていない。そのため、誰も公爵の声に応えない。——いや、


 クスクス あはは


 声が、笑い声が聞こえる。


 公爵は背筋をぞっとさせた。


 クスクス うふふ あはは


 子供の、女の子の笑い声だ。無論、アメリアの声ではない。


「う……うわあああっ!!」


 恐怖で我を失った公爵が、めちゃくちゃに腕を振り回して見えない何者かの手から逃れようとした。

 と、なんの弾みか、引きずられる力がふっと消えた。


「ひぃっ」


 公爵は必死に立ち上がって、離れの出口を目指してもつれる足で走り出した。


 クスクス あはは ははは ふふふ きゃはは


 笑い声が追いかけてくる。声だけが走る公爵を追い越して、前に回る。声から逃げる公爵の周りを漂い、執拗につきまとう。


「ぎゃあああああっ」


 公爵は声から逃れようと、必死に目の前の扉を開けて飛び込んだ。


 がっしゃんっ どがっ がらがらがらっ


 派手な音が響いた。


「お父様っ!?」


 アメリアが父を案じて走ってきた。さらに、離れの外で待機していた使用人が悲鳴と音を聞いて入ってきた。


「旦那様っ!?」

「お、お父様……」


 アメリアと使用人が目にしたのは、頭からトイレの便器に突っ込んで逆さにひっくり返って気絶している公爵の姿だった。



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