お泊まり
(まだ、大丈夫かな・・・・)
会社と駅を結ぶ大通りを、杏奈は早足に歩いていた。
目指しているのは、杏奈が大切に想うオーナーのいる、行きつけの雑貨屋。
体調を崩してお休みした後輩の仕事を片付けているうちに、いつの間にか雑貨屋の閉店時刻間際になってしまっていた。
特に欲しいものがある訳でもなければ、毎日寄ることを約束している訳でもない。
だが、今日のように疲れた日には無性に、雑貨屋に行きたくなる。
大好きな雑貨に囲まれて、オーナー:真咲と言葉を交わす時間は、杏奈にとって何より大切な癒しの時間だった。
「こんばんは。」
開いていた扉に頬を緩め、店を訪れた杏奈を真咲が出迎えた。
「いらっしゃい、杏奈ちゃん。遅うまでお疲れさん。」
いつもと変わらぬ笑顔ではあったが、心なしか疲れているようにも見え、
「大丈夫ですか?」
杏奈は思わず口にしていた。
「ん?なにがや?」
「お疲れのように見えたので・・・・」
杏奈の言葉に、真咲がニヤリと笑う。
「さすがやなぁ、杏奈ちゃん。実は今日、少しレイアウト変えてん。」
じゃんっ!
と言って、真咲が指し示したのは、入口からほど近く。
確かに、商品の配置が変わっていて、いつもとはまた違う雰囲気を醸し出している。
だがそれよりも。
(すてき・・・・)
初めましての、可愛らしい小振りのトルコランプが目に飛び込み、杏奈は吸い寄せられるように、そばへと近寄った。
「色々いじりすぎて、疲れてもうたわ・・・・って、聞いてへんし。」
ランプに見入っている杏奈に、真咲は苦笑を浮かべる。
「ま、ええか。」
そして、ランプに見入る杏奈の姿を、目を細めて眺めていた。
(これなら、ベッドサイドに置けるかな。)
だいぶ以前より、杏奈はトルコランプが欲しいと思っていた。
色とりどりの細かなガラスを通る、柔らかで可愛らしい光は、見ているだけで心が癒される気がする。
だが、今住んでいるアパートは、それほど広さに余裕がある訳でもなく、店先で偶に見かけるトルコランプはどれもサイズが少し大きめで、部屋に置くほどの余裕は無い。
もっと小振りのランプがあれば。
そう思っていた杏奈には、運命の出会いとも言えるようなものだった。
(買ってしまおうかな。)
杏奈がそっとランプに手を伸ばした時。
鞄の中からコールを告げる着信音が鳴りだした。
ほぼ同時に、真咲のスマホからも、コールを告げる着信音が響きだす。
一瞬、お互いに顔を見合わせ、とりあえずそれぞれのスマホを手に、通話を開始した。
杏奈のスマホに表示されていた発信者名は、『陽ちゃん』。
杏奈の兄・朱鳥の妻、杏奈にとっては義理の姉だ。
「もしも・・・・」
”あっ、杏奈ちゃん?あの、朱鳥さん、知らない?”
通話が繋がると同時に、陽子の焦ったような声が聞こえてきた。
「兄がどうかしました?」
”全然連絡が取れないの・・・・まだ帰ってきてないし。”
言われて時計を見てみたが、大の大人が帰って来ないからと言って、それほど慌てふためくような時間ではない。
「まだ仕事中とか・・・・」
”今日は早く終わるって、言ってたの!もう、どうしよう・・・・”
いつもは明るくておっとりしている陽子のただならぬ様子が、杏奈は気になった。
「陽ちゃん、お兄ちゃんと何かあったの?」
問いかけに、スマホの向こうから陽子の溜め息が聞こえる。
「陽ちゃん?」
”・・・・実は今朝、朱鳥さんとその・・・・ケンカ、しちゃって。”
「原因は?」
”・・・・ネクタイの、色・・・・”
「・・・・え?」
”今日は、大事な会議があるって言うから、私はビシッと締まる紺色がいいって、言ったの。そうしたら朱鳥さんは、絶対に赤だって。朱鳥さんが私に『どっちがいい?』って聞いてきたのよ。だから答えたのに・・・・”
どん底に沈んだ声の陽子ではあったが、杏奈は正直なところ脱力感を否めなかった。
結婚して何年経っても、初々しい新妻のような陽子は、杏奈にとっては理想の『妻像』ではあったが、偶に呆れかえるような些細な事でケンカをしては、杏奈に助けを求めてくる。
(ネクタイの色、って・・・・)
放っておけばそのうち帰ってきますよ。
そう答えようとした杏奈の肩に手を掛け、真咲が小声で囁く。
「杏奈ちゃん。朱鳥さん、姉貴の店で酔いつぶれて寝とるって。」
「えっ?!」
”杏奈ちゃん?どうかしたの?”
真咲に小さく頭を下げ、杏奈はスマホの向こうの陽子に言った。
「お兄ちゃん、今日はうちに泊めるね。明日必ず帰すから、心配しないで待っててね、陽ちゃん!」
急いで店閉まいをした真咲とともに、杏奈は玲美の店へと向かった。
「悪いねぇ、真咲。・・・・あれっ?杏奈ちゃんも来てくれたの?!」
出迎えた玲美は、杏奈の姿に驚いた様子を見せたが、すぐに朱鳥の元へと2人を案内する。
カウンターの隅で、朱鳥は突っ伏して眠っていた。
「玲美さん、申し訳ありません。兄がご迷惑を・・・・」
頭を下げる杏奈に、玲美は慌てて体の前で両手を振る。
「違うのよ、杏奈ちゃん。私も悪かったのよ。つい、悪ノリしちゃって。」
玲美の話では、どこかつまらなさそうに1人でビールを飲んでいた朱鳥が気になり、【飲み比べ】の勝負を持ちかけてみたとのこと。
朱鳥は、二つ返事で勝負に乗ったという。
ところが、お互いにいいペースで飲んでいたかと思うと、突然机に突っ伏し、そのまま眠ってしまって、いくら起こしても全く起きず、困って真咲に助けを求めたということだった。
「間宮さんのお宅、知らないし。杏奈ちゃんの連絡先も聞いてなかったし。かと言って、私の家に連れて帰る訳にも行かないでしょ?だから、今日のところは真咲の家に連れて帰ってもらおうかな、と思って。」
「姉ちゃん、何やっとんねん。そら、こうなるに決まってるやろ。」
呆れたように、真咲が玲美を見る。
「今までどんだけ相手潰してきた思とんの?朱鳥さんかて、酒にはそう弱ないと思うけど、姉ちゃんに勝てる訳なんて無いやん。」
「だから、私も悪かったって。でもまさか、突然寝ちゃうなんて思わなかったんだもの。」
「・・・・本当に、申し訳ありません。兄は、ある程度酔うと、突然寝てしまう事がよくあるんです。そうなったらもう、何をしても起きなくて・・・・」
穴があったら入りたい、とはこの事だ。
いや、穴があったら、まずは呑気に眠りこけている兄を、穴の中に突っ込んでやりたい。
杏奈は体を小さくして、玲美に頭を下げる。
「いいからいいから。かえって、ごめんね?」
玲美も、申し訳無さそうに頭を下げた。
「そやそや。杏奈ちゃんは何も悪ない。悪いんは、姉ちゃんと朱鳥さんやし。」
そう言いながら真咲は、眠りこけている朱鳥の片腕を取り、自分の肩に回して体を持ち上げる。
「真咲さんっ?!」
「今日は、杏奈ちゃんとこ泊めるんやろ。俺、送ってくわ。」
「でも・・・・」
「そうね、そうしてあげて、真咲。頼んだわよ。」
恐縮する杏奈をよそに、真咲は朱鳥を抱えて玲美の呼んだタクシーに乗り込み、杏奈の部屋へ向かった。
「どこに寝かすんや?」
「あ、そこら辺でいいです。適当で。」
「そこら辺て。」
苦笑しながら、真咲はカーペットの上に朱鳥をそっと横たえる。
「真咲さん、本当にありがとうございました。今お茶入れますので、少し休んでてください。」
「ええってええって、すぐ帰るし。」
言いながら、真咲はふとテーブルの上に置かれた起き上がりこぼしに目をとめた。
それは、真咲から杏奈への、初めてのプレゼント。
(大事に、してくれとんのやな。)
嬉しさがじわじわとこみ上げ、気付くと真咲はテーブルの前に腰をおろしていた。
(こないテーブルのど真ん中に置いてもろて、お前、幸せやなぁ。)
指でつつくと、中から小さく美しい音が響いてくる。
(良かったなぁ、お前。杏奈ちゃんのとこに来られて。)
真咲には、起き上がりこぼしが何度も嬉しそうに頷いているように見えた。
「お待たせしま・・・・あっ」
キッチンで入れたお茶を運んできた杏奈は、テーブルの上に突っ伏している真咲の姿に、慌てて口を閉じた。
(そういえば・・・・)
雑貨屋での真咲を思い出す。
(レイアウトを変えたとかって、言ってた・・・・真咲さん、疲れてたんだ。)
朱鳥の宿泊用にと用意をしてある毛布を、そっと真咲の肩に掛ける。
(ありがとう、真咲さん。)
そしてついでに、酔いつぶれて眠っている朱鳥には、適当に上掛けを掛けて。
杏奈は1人、眠っている2人の寝顔を眺めながら、お茶をすすった。
(なんだかなぁ・・・・なんでしょう一体、この状況・・・・)
「何故お前がここにいるんだ?!」
(・・・・なにごと?)
怒鳴り声に眠りを妨げられ、見れば目覚まし代わりのスマホのアラームが鳴る3分ほど前の時刻。
部屋から出てキッチンへ行くと、目を吊り上げた朱鳥が、まだ寝ぼけ眼の真咲を憤怒の顔で睨みつけている。
「ん?あれ、なんで朱鳥さんが?・・・・あれ?ここ、どこや?」
「お兄ちゃん?」
「杏奈っ!これはいったいどういうことなんだっ!」
怒りの矛先を向けられた杏奈は、ムッとして朱鳥を睨んだ。
「昨日の事、憶えてないの?」
「昨日?」
「そう、昨日のこと。何でここにお兄ちゃんがいるのか。どうやってここまで来たのか。憶えてる?」
「・・・・そういえば、何故俺はここに?」
全く記憶にない、といった様子で、朱鳥は口元に手を当てて考え込んでいる。
そんな兄の姿に溜め息を吐き、杏奈は言った。
「お兄ちゃんは昨日陽ちゃんとケンカして、お家に帰りづらくて、玲美さんのお店に行ったの。そこで、玲美さんと飲み比べしているうちに、酔いつぶれて寝ちゃったの。ここまでお兄ちゃんを運んできてくれたの、真咲さんなんだからね?ちゃんと、お礼くらい言って!」
「そやった、ここ、杏奈ちゃんちや!」
ようやく眠気の覚めた顔で、真咲が笑顔を見せる。
「朱鳥さん、体鍛えとるんとちゃう?見た目以上に重かったで~。でも、こないして杏奈ちゃんちにお泊りできたし。俺にとっては万々歳や!」
「真咲さん・・・・」
(お泊りって・・・・)
事実ではあるが、言葉の響きに、何故だか頬が熱くなってしまう。
そっと頬を手で隠す杏奈の隣で、朱鳥はバツが悪そうな表情を浮かべ、真咲に小さく頭を下げた。
「それは・・・・悪かった。迷惑をかけたようだな、すまない。」
「ええですって、お兄さん♪」
「・・・・・っ!」
さすがに、今回ばかりは『俺は貴様の兄ではない!』の言葉は飲み込んだようで、朱鳥はふいっと顔を背ける。
「もうっ、お兄ちゃんたら!」
そんな兄の態度に納得がいかない杏奈ではあったが。
「そないなことより、2人とも時間、大丈夫なん?」
真咲の言葉に、杏奈と朱鳥は我に返った。
「まずいっ、陽子に怒られるっ!」
「あああっ、遅刻しちゃうっ!」
同時にアタフタと動き始める兄妹の姿を、真咲は楽しそうに眺めていた。
数日後の休日。
「どうしたの、お兄ちゃん。」
突然、朱鳥が杏奈の部屋を訪ねてきた。
「あ、あぁ。」
「とりあえず、上がって。」
「いや、ここでいい。」
そう言って、朱鳥は手に持っていた包みを杏奈に手渡す。
「なに、これ。」
「この間は悪かった。」
「えっ?」
決まり悪そうな顔で、
「真咲の、オススメだ。」
とだけ言うと、朱鳥は部屋に上がることなく、そのまま帰って行った。
(真咲さんの、オススメ?)
包みを開けた杏奈は、中から姿を現したものに目を奪われた。
「わぁ・・・・」
それは、真咲の店で見た、小振りの可愛らしいトルコランプ。
きっと朱鳥は、謝罪とお礼を兼ねて、真咲の店に顔を出したのだろう。
あれで一応、朱鳥は礼儀にはうるさい人間だ。
おそらくはその時、真咲にこのランプを勧められたに違いない。
(ありがとう、お兄ちゃん。ありがとう、真咲さん。)
テーブルの中央。
起き上がりこぼしの隣にトルコランプを並べて置き、杏奈はしばらくの間、幸せに浸りながらその二つを眺めていた。
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