苦い記憶
「あっ・・・・」
髪留めで束ねた髪を留めようとしていた杏奈は、パンッという嫌な音と共に手から何かが零れ落ちた感覚に、慌てて振り向いて下を見た。
思ったとおり、床に落ちてしまった髪留めは金具が外れており、使えるような状態ではない。
(どうしよう・・・・)
それは、アンティーク調の髪留めで、中央に大きく綺麗なラピスラズリが嵌め込まれ、周りに小さなムーンストーンがちりばめられた、杏奈にとってはお守りのような大切なもの。
贈り主と会う時はもちろん毎回付けていたし、仕事やプライベートで辛い時にも、お守り代わりに付けていた。
(同じものは、無いよね・・・・でも。)
壊れてしまった髪留めを小さな袋に入れて鞄にしまう。
他部署の苦手な担当者とのミーティングがあるため、できれば身に着けて行きたいとは思ったものの、壊れてしまったものは仕方が無い。
会社帰りに雑貨屋で同じような髪留めを探してみようと心に決め、杏奈は鞄を手に会社へと向かった。
会社と駅を結ぶ大通りから少し脇道に入った所。こぢんまりとした、雑貨屋。
そこは、少し変わったオーナーのいる、杏奈の行きつけの店。
「こんばんは。」
なんとかミーティングを乗り切り、仕事終わりにいつものように店へと入った杏奈は、すぐに先客に気付いた。
年配のその女性は、ただ店内を見て回っているのではなく、必死に何かを探している様子。
思わず杏奈が声をかけようとした一瞬先に、真咲から声がかかった。
「お客さん、何やお探しものですか?」
「ああ、あなた、お店の方?」
ホッとしたような表情を浮かべ、女性は真咲へ手に持っていたものを差し出して見せる。
「これと同じ物、無いかしら?」
杏奈のいる場所からは、女性が手にしているものは見えない。
そっと、見える位置まで場所を移動すると、それは少し大きめの飾りボタンであることが分かった。
「ん~・・・・せやなぁ。これと同じもんは、残念ながら置いてへんけど・・・・」
真咲の言葉に、女性はあからさまに落胆した表情を見せる。
「お客さん、これ、何のボタンです?」
「これはね、孫が入学式に着て行くって言っている、お気に入りのワンピースのボタンなの。いつのまにかひとつ取れて無くなってしまったみたいで・・・・ボタンが無いとイヤだって。でも、そのワンピースを着て入学式に出たいんだって、泣いてきかないのよ。」
困ったわ・・・と、女性は途方に暮れたように溜息を吐いた。
(可哀想に・・・・)
女性の気持ちも、女性の孫の気持ちも何となく分かるような気がして、杏奈まで思わず溜息を吐いてしまう。
だが。
「仕方ないから、もうちょっと他のお店を探してみます。」
ありがとう、とその場を離れようとした女性に、真咲は声を掛けた。
「お客さん、そのワンピースの写真て、今あります?」
「え?えぇ、ありますけど・・・」
真咲の言葉に、女性は鞄の中からスマホを取り出し、真咲に見せる。
「このワンピースの・・・ここ、襟のところの。」
「ん~・・・・」
女性からスマホを受け取り、画面の拡大・縮小を繰り返して暫く真剣にスマホを眺めていた真咲だったが、
「あれなら・・・・」
と小さく呟くと、一旦店の奥へと姿を消し、すぐに戻ってきた。
「同じもんやないけど、これじゃあかんやろか?」
真咲が手にしていたのは、可愛らしい二つの飾りボタン。
確かに、女性が探していたものとは異なるものの、可愛らしさでは負けていないと、杏奈は思った。
「あら、素敵ねぇ。」
真咲からボタンを受け取り、スマホの画面と見比べていた女性の顔が、嬉しそうに綻ぶ。
「じゃあ、これをいただくわ。このワンピースにもピッタリだし、これならきっと孫も気に入ると思う。」
杏奈の場所からスマホのワンピースまでは確認はできないが、女性の様子から察するに、きっと本当にデザイン的にもピッタリなのだろう。
女性はそのままボタンを購入し、何度も真咲に礼を言って店を後にした。
「いらっしゃい、主任さん。放っておいてしもて、堪忍な。」
女性の相手をしながらも、真咲は杏奈の来店に気付いていたらしい。
女性が店を出るとすぐ、杏奈に声を掛けてきた。
「良かったですね、あの方。」
「せやな。」
そう言って頷く真咲が、杏奈には何故だか眩しく感じた。
いつもと同じように、杏奈には理解できないセンスの服を身にまとっているというのに。
時々、驚くほど急に距離を詰めてくる、油断ならない人だというのに。
(でも本当は、すごい人・・・なのかも?)
気付かぬうちに、杏奈はじっと真咲を見つめていたらしい。
「なんや、主任さん。いややなぁ、そないに見つめられたら、恥ずかしなるやんか。」
「えっ、あ、すみません・・・・」
言われて我に返り、杏奈は慌てて視線を逸らす。
「もしかして、俺に見とれてたん?」
「違います。」
「・・・・せやろな。でもそないにはっきり言わんでも・・・」
言いながら、真咲は苦笑を浮かべる。
「ま、今日も息抜きに来てくれたんやろ?新商品も入ってるし、ゆっくり見てってや。」
杏奈に背中を向け、真咲は店の奥へと向かう。
(この人なら、もしかしたら・・・・)
杏奈は鞄の中から、壊れた髪留めの入った小さな袋を取り出し、真咲の背中に声をかけた。
「あのっ!」
「ん?」
その場で真咲が振り返る。
「私も実は、探し物がありまして・・・・」
「なんや、今日は探し物のお客さんが多いなぁ。」
真咲の元へと向かいながら、杏奈は袋から髪留めを取り出し、真咲へと手渡す。
「これ、なのですが。」
「ええもんやなぁ、これ。」
手に取るなり、真咲は感心したようにその髪留めを色々な角度から眺め始めた。
「この大きい石、ラピスラズリやろ?めっちゃキレイやし。デザインもええ感じやし。ああ、ここが壊れてしもたんやなぁ。」
「ええ。とても大切なものなのですが・・・・もし同じようなものがあれば」
「同じもんは、さすがに無いけど。」
真咲の即答に、杏奈は小さく息を吐く。
予想はしていた答えだった。
だが、それからもしばらく時間をかけて髪留めを眺めていた真咲が、ひとつ小さく頷くと、杏奈に告げた。
「これなら、直せるわ。ちょっと、待っとってくれる?」
「あっ、はい!」
杏奈をその場に残すと、真咲は店の奥から何やら工具を持ち出し、レジ横の台に並べ始める。
そして、そのうちの1つを手に取り、髪留めの留め具部分の部品を外し始めた。
杏奈もレジの前に立ち、真咲の作業をじっと見守る。
「大切なもんやて、言うてたな。どないしたん?誰かに貰たんか?」
「はい。」
一瞬、真咲の手が止まる。
「それって・・・男?」
「えぇ、そうです。」
「・・・・今でも、続いてるんか?」
「えぇ、まぁ。」
手を止めたまま、真咲は無言で杏奈を見つめた。
驚きと落胆が入り混じったような表情で。
訳が分からず首をかしげる杏奈の前で、真咲はふぅっと大きな息を吐き、小さく笑うと、再び手を動かし始めた。
「そうかぁ・・・・主任さん、恋人おったんかぁ。」
今度は、杏奈の表情が固まった。
(恋人?この人は一体、何を・・・・)
「は?」
思わず、杏奈の口から呆けた声が漏れ出る。
「せやかて、今でも続いてるんやろ?」
「えぇ。兄ですから。」
再び手を止めて顔を上げ、真咲は不可解な表情を浮かべる杏奈を見つめた。
「・・・お兄さん?」
「はい。」
「主任さんの?」
「えぇ、そうです。」
当然のように答え、杏奈は続ける。
「兄は私の雑貨好きを知っているので、たまに買ってきてくれるのです。ただ、兄自身は雑貨にあまり興味が無いせいか、残念ながら私の好みとは少々異なる物も多く、困ってしまうこともあるのですが。ですが、これは特別なものなのです。私を、助けてくれたものでもあります。お守りのようなものですし、兄と会う時は喜ぶのでいつも付けていくのです。ですので、とても大切なものなのです。」
「そやったんか。」
真咲の顔に安堵の表情が浮かぶ。
気を取り直したように、再び作業に取り掛かりながら、真咲は言った。
「でもほんま、心臓に悪いわ。主任さん、天然なんか?」
「何のことですか?」
「普通、『男』言うたら、彼氏のことやんか。」
「か、彼氏っ?!そっ、そんな人、私にいるわけ・・・」
一気に頬が熱を持ったように感じた杏奈だったが、ふと昔の思い出が頭をよぎり、一瞬にして熱が冷めた。
できれば二度と思い出したくなかった、苦い思い出。
『君は真面目すぎて、つまらないんだ。別れよう。』
杏奈を傷つけた言葉が、何故だか鮮明に蘇り、頭のなかに響き渡る。
「・・・・私みたいなつまらない人間に、彼氏なんているわけ、ないじゃないですか。」
(どうして今頃になってこんな・・・・)
小さく頭を振ってはみたものの、壊れた音源のように、同じ言葉が何度も繰り返し頭の中に響き、溜まらずに杏奈は目を閉じる。
「つまらない人間?主任さんが?」
いつもより硬質な声に、閉じた目を開くと、真咲がじっと杏奈を見つめていた。
「誰や?誰がそないなこと言うたん?」
「いえ、あの・・・・」
今まで聞いたことの無いような真咲の低い声。
思わず後ずさりする杏奈の腕をつかみ、真咲はもう一度、ゆっくりと言った。
「誰に、言われたんや?」
いつも優しさを湛えている淡いブラウンの瞳は、何故だか怒りを孕んでいるいるように思える。
その瞳で、杏奈の心の内まで見透かされてしまいそうで。
「離してっ!」
思わず真咲の手を振り払い、杏奈はそのまま店を飛び出した。
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