第5話


神奈かんなーちょっといい?」

 珍しく葉月はづきが私のクラスに呼び出しに来たので

「どうしたの?」

「ちょっと話したいことあるんだけど、お昼一緒に食べない?」

「いいけど?」

「じゃあ、あとで話す。昼休み屋上で待ってる」 

 彼女はそう言って移動教室の途中だったようで教科書を持って去って行った。

「どうしたの?」

 聡子さとこに訊かれて

「お昼食べようって。今日は葉月と食べることにするよ」

「葉月ちゃんってスタイルいいよね。何食べてんのかな」

「普通だと思うけど。けっこうお菓子も食べるし」

「お肌もつるつるできれい。化粧品とか何使ってるの?」

「すっごい興味津々だね」

 キイナが笑うと、聡子は

「だって気になるもの。いいな、私もうちょっとウェストにくびれがほしいのよね」

「じゅうぶんじゃないの」

「でも葉月ちゃんみたいにきゅっと細いウェストがいいな」

「恋をすると美しさに貪欲になるのね」

「貪欲って失礼ねえ」

「だって十分聡子はきれいじゃないの」

「そうだよ」

「ありがとう、でも、やっぱりあのむきたてゆで卵肌ときゅっとくびれたウェストは羨ましい」

「じゃあ、秘訣があるか訊いといてあげる」

「ありがとう、よろしくね!」

 機嫌よくそう言う聡子に、キイナが

「ねえ、まだ謹慎きんしん解けないの?」

「うん、なんか家族も婚約者も意地になってるみたい。家同士の決めごとだから、何も私じゃなくてもいいのにね。そんなに家同士のつながりを持ちたいなら妹と結婚すればいいのに」

「ふーん、たいへんだねえ」

「でも、輝幸てるゆきがこっそり近くまで会いに来てくれるから耐えられる」

「駆け落ちとかしないでよ」

「それもいいね」

「ちょっとー、本気なの?」

「まさか。でもいいなあ、憧れる。二人で逃げちゃうの」




 お昼休みに屋上に行ったら葉月がお弁当を持って手を振ったので手を振り返した。

「自分で作るの?」

「うん?」

「聡子が葉月が何食べてそんなにスタイルいいのか、肌がきれいなのはどんな化粧品使ってるからなのかとか知りたがってる」

「なにそれ」

 あははと笑ってから

「それより神奈のこと、何か色々聞き回っている子がいるんだけど。バイト先によく来てはスタッフとかに声かけて聞き回ってるよ。みんなとぼけて誰のことかわからないふりしているけど。一応うちの学校バイト禁止なのはみんな知ってるしね」

 私は自分のお弁当を開きながら

「それって私たちと同じくらいの年の女の子?」

「そう」

 亜実ちゃんかな。その仲間か。

 私は葉月に一連の騒動をかいつまんで話した。

「なんかやばそうだね」

「そうなんだよね」

 他人事のように私が言うと葉月は特に何の感情もいれずにさっくり言った。

「そういうタイプの子って意外とけっこういるよ。人を選んで仕掛けるから他の人たちからはまともそうに見えることもあるし、他の人から見てもやばいのもいるし、ピンキリだけど」

「そうなんだ」

「なんていうか、スケープゴートを常に探しているみたいな、飢えた感じがあるんだよね。そういう子ってなんとなく。弱者の振りが得意だったりするケースもよくあるし、優しくて良心的なひとって、特にそういう困ってそうな人を放っておけなかったり、何とかしてあげようとしたりするから、そういう良心や優しさにすぐれている人がつけこまれてスケープゴートにされることもよくある。あとはそういう美質に対しての羨望せんぼうとか、それをおとしめたいみたいな悪質なタイプもいるし。同情とか共感とか善意とかそういうのが彼らにとっての甘くて美味しいエサなんじゃないかな。吸血鬼みたいだなって思う。それか死にぞこないのゾンビ」

「ふーん。詳しいね」

「まあね。私、十四歳くらいからあのライブハウスでバイトしてたんだよね。大人っぽく見られたから。いろんなお客さんがいたし演者の方もね。色々見てきたし、けっこうトラブルもあった」

「なんかみんな仲良く平和にやってるみたいだったのに、意外」

「基本的にみんないい関係だよ。でもたまに、やばいのがいるんだよね。あ、これは、っての、なーんとなく見ていてわかる。カンとしかいいようがないんだけど。すっごく見た目もきれいで礼儀正しくてきちんとしていてよさそうな感じのひとなんだけど、こいつはやばいやつだ、っていうのもいれば、誰が見てもやばいのもいるしさ。ほんと色々。で、たいていトラブル起こすんだよね。そういう人に限って、なんていうかこれって決めたスケープゴートへの執着しゅうちゃくがスゴイの。からまれた方はたまんないよ、命がけで絡んでくるみたいな感じもけっこう見たよ」

「ちょっとーこわいじゃないの。命がけで絡むって何それ」

「だって本当にそうとしか言いようがないんだもん。おまえの前世はタコかイカかっていうくらい、吸盤付きの触手しょくしゅを絡ませてとりついて離さないみたいなもんだよ」

「笑っていいの、それ」

「いや、笑えないって」

「タコとイカのお化けでしか再生されなくなったじゃないの。どうしてくれる」

「とりあえずタコとイカに謝っとくわ。そんで全員に共通するのは、なんかどっか飢えているみたいな感じかなあ。どんなに上品そうにしていても、なんかそういうのがあるんだよね。うまく説明できないけど。愛に飢えているって言ったらなんかきれいすぎる。もっと根源的な何か。人が人を思うあらゆる真心をブラックホールみたいな自分の胃に吸い込んでもそれでも飢えているみたいな感じだよね。きりがない感じ。根源的な貪欲さ? なんかそういうもの」

「とりあえず、うっかり同情してしまったら、とんでもない目にうってことだね?」

「そう、その通りよ」

 私はお弁当をぱくぱく口の中に入れながらフェンスの向こうの青空を見つめた。きれいだなあ。すかっと晴れた青空に真っ白な雲が浮かんでいる。ちょっとぼうっとしてそれにみとれた。

 根源的な飢え。かあ。人が人を思う真心に対しての、善意や優しさや誠実さなどへの、どうしようもない飢餓きが感――飢渇きかつ渇望かつぼうとか乾きのようなもの。そんなものに取りかれてしまったとしたら──そうしたらひとはどうなるのだろうか。それってどんな気持ちだろう。自分がどんなに渇望してもずっと満たされ得ないものを、当たり前のように享受きょうじゅしているような人を目の前にしたとき、どんな気持ちになるだろうか。常にそのような状態であれば、憎しみに変わるかもしれない。奪えるところから奪いたい、奪えないなら壊したい、と。

「……でもなんか一番こわいのは、そういうのって、案外だれの心の中にもあるものかもってことかも。休眠中のウィルスみたいに、何かのきっかけである日突然活性化することもありえそう……自分も例外じゃないこわさとか、あとなんかどうしようもないような悲しさとか。そういう自分が自分であることの、存在自体の、どうしようない悲しさもあるような気もする。……どうしたらいいんだろう、もしそうなってしまったら。自分では止められないだろうし、誰かに止めてもらいたいって思うかも。それか、逃げてーって泣きながら追いかけるとか?」

 葉月は私を黙って見つめた。それから私が眺めていた空の方向に目をやって

「うん、そうかも。安易に自分は違うって切り離してしまうと、それに簡単に呑み込まれそうな気がするから、自分にもあるかもってくらいがちょうどいいかもね。だからって同情は禁物だけど」

 そう言ってから、私に目を戻し、

「神奈、気をつけなよ。あんた、ちょっと同情してるし。すでに」

「そうかな」

「うん、そうだよ。それに、誰かに止めてもらいたくても止めるほうに負担かかりすぎだよ。だったらほとぼりが冷めるまで、それこそ、その吸血ゾンビウィルスが餓死するまで一人で閉じこもっていてほしいよ。私ならそうする。それで自分も死んでも仕方ない」

「なるほど。私もそうすることにする」

「自分の始末くらい自分でしろってことよ」

「そうだね。そんな恐ろしい甘えをぶつけられても困るしね。誰か止めて~って言いながら吸盤付きの触手を絡みつかせようと近づいてこられてもね」

「こっちくんな、でしょ。ていうか、速攻で逃げるよふつう」

「確かに」

「あ、あと、共通する特徴に、自分を理解してほしい、わかってほしい、っていう感じもあるかな。だから理解しようという姿勢がもう同情と同じもの、相手の飢餓感を誘発して呼び寄せる気がするから、神奈、あんたほんと気をつけて。彼ら彼女らは、どうか理解してほしいとかしおらしく言いながらも、実際はわかれーって全力で圧しつけてくる。強要してくる。自分の問題なのに、相手がそれを理解して共有して肩代わりすらすることが相手の義務だ、くらいにものすごく図々しいよ」

「なんかちょっとわかるかも」

 最初に届いた亜実ちゃんの手紙を思い出した。

 確かに、一言で言えばあの手紙の内容は、とても図々しいものだった。紙の分量も厚かったけど、内容はさらぶっとんだ厚かましさだったし。

 



 かいりくにも一応静香さんや葉月から言われたことを要約して話した。

 うまく伝えられたかどうかわからないけど、とにかく一応は伝えておいた。

「もう何もないといいけどなあ」

  二人はちょっと不安そうにそう言っていた。


 それが出回っていると知ったのは、ずいぶん後になってからだった。

 私が海や陸とキスをしている写真や動画。

 暗かったのもあってブレブレの動画はほとんどちゃんと映っておらず、私がタンカを切る声だけがしっかり録れていた。それに写真は海と陸の方がそうかなとわかる程度で、私はほぼ陰になっていて顔が映ってはいなかったので、写真と動画の音声がセットで拡散されていたみたい。


 考えてみればあのとき、撮り放題ではあったわけだよね。

 そんなこと思いつきもしなかったので、あのとき私も相当頭に血が上っていたようだ。 

 それで今度は、親には内緒で海が依頼人になって弁護士さんを通じて調査会社に調査を依頼した。実は海と陸もこっそりとあの時、彼女たちを追いかけた時点から動画を携帯で撮っていた。こっちは暗視モードだったのでけっこうはっきり相手の顔も撮れていたし、何より私へのものすごい罵詈雑言ばりぞうごんがすべて録音されていた。しかも私はずっと黙ったままなので、一方的にものすごく酷いことを言われているみたいだった(実際そうなんだけど)。でも本当はあのとき、いいぞもっとやれ、とか不謹慎にも面白がりながら参戦していたんだよね、ちょっと一方的な被害者とは違うような、と言ったら、それを言うとややこしくなるから黙ってろ、と二人に言われた。

 まあ、何というか、二人の撮っていた動画は初めこそあまりしっかり撮れてはいなかったけれども、海と陸が私の前にポジショニングをした際にばっちりとアングルも決まっていて、多少動きでぶれてはいるもののわめいている彼女たちの顔も声もしっかりれていたので、

「すぐ犯人もわかるでしょう」

 と弁護士さんは請け負った。

 ただ拡散してしまったものを回収するのはほぼ不可能とのことだった。それに対して厳しく責任をとらせることはできるので、徹底的にやった方がいい、とのことだったので海はその方向で正式に依頼したようだ。ただそうなると、さすがに海や陸の両親にもうちの両親にもばれるので、先手を打った海と陸が動画を見せて(私が一方的に侮辱言葉の罵詈雑言を浴びせられて続けているところ)、どうしようもないので仕方なく演技で相手を驚かせて黙らせただけだった、と説明した。本当にはキスなんてしてないし、ふりだけだったのに、それが思いの外うまくいっただけ。そしてその説明は拍子抜けするほどあっさり通った。それで費用は海と陸の両親がもってくれるとまで話がついた。この双子を敵にはまわしたくないな、私は改めて心からそう思ったのだった。


「なんだか今の子たちってすごいのね、もう戦争だわね」

 あきれたように母がそう言っていた。




 私は葉月と仲良くなったのとほぼ同時期に、咲良さくらという、葉月とはタイプが違うけれど独立不羈どくりつふきさに関してはいい勝負な女の子とも仲良くなった。咲良は私のひとつ上の先輩だった。咲良はとても可愛らしく、そんなに背は高い方ではないけれど、出るとこはちゃんと出てコンパクトにきゅっと引きしまったかなりいいスタイルで、当然ものすごくもてた。彼女は異性関係に奔放であっけらかんとしていて、しかも中身はけっこう男前という、ものすごく魅力的な女の子だった。彼女はとにかく自由気ままで、学校休んで2週間も行方不明になったと思ったら海外で好きなだけ遊んでてけろっとして帰って来るとか、とにかくかなり突き抜けた感じだった。校内で私を見かけると、彼女のほうからフレンドリーに話しかけてきたりしたので、なんか仲良くなった。

 面白いことに彼女はうちの学校にある古めかしい石造りの礼拝堂が大のお気に入りで、授業さぼって礼拝堂で居眠りしていたり、ものすごく難しそうな本をまじめに読んでいたりという、ばちあたりなのか敬虔けいけんなのかさっぱりわからないことをよくしていた。それで、たまに私も彼女に誘われて、保健室に行くといっては授業をさぼって彼女のところに行った。そうしてひそひそと声を潜めても何故か響きわたる礼拝堂でたわいないおしゃべりをして過ごしたりしたのだ。

 咲良はものすごく頭がよくて、一回見たり聞いたりすれば覚えてしまうので、しょっちゅう授業をさぼっていてもかなり成績がよく、授業はつまらないので自分の好きな何か難しそうな哲学書とか宗教学の本なんかをよく読んでいた。彼女が何かを食べているというところはあまり見なかったが、いつも何かしら飲み物は飲んでいた。自販機のパックのジュースとかお茶とか、自分のマイボトルからとか。いつも美味しそうに何か飲み物を飲んでいるイメージだ。

 礼拝堂の奥には小部屋があって神父様が常駐していたと思うけど、たまに祭壇の手入れに来たりすることはあってもあまり出てこないし、出て来ても私たちがさぼっていても何も言わずに好きにさせてくれたので、私はこの老神父様がけっこう好きだった。いつもにこにこして穏やかな好々爺こうこうやって感じ。

 咲良は旅行やマリンスポーツが好きで、その話をよくしてくれた。一人でも仲間とでもどんどん自分のしたいことをして行きたいところに行ってしまう彼女は、小さな妖精の姿をしたエネルギーの塊みたいで、ただ一緒にいるだけでもなんか元気をくれるような楽しい気分になる不思議な魅力のある女の子だった。当然上から下まであらゆる年齢層の男性が彼女に惹かれて言い寄って来るのでトラブルも絶えなかったみたいだけれど、本人は至ってあっけらかんとしていて、変に深刻ぶったり悲劇のヒロインぶることもなく、からっとして明るかった。なんでも冗談にして笑い飛ばしてしまう。なんかそこがよかった。情念どろどろ系ではなく、ぱっと情熱を大胆に発散させる感じ?

 とにかく彼女の存在はある意味で私にとって新しいエネルギーの補給、チアアップガールみたいなものだったと思う。そして、自分で思うよりも本当はずっと疲れていたりした私の心を力づけ助けてくれた、元気いっぱいの可愛らしい優しいマリア様でもあった。

 もしかしたら、天使やマリア様はときどきこうして人の姿を借りて、迷える子羊を導いてくれたり元気づけてくれるのかもしれない。悪魔や天使やマリア様とも仲良くなった(?)私はこうして次の世界へと新しい扉を開くのだった。




 つやのある真っ直ぐな黒い髪。それは光の加減でとときどき青く見える。秀でた額、意志の強そうな眉、きれいな瞳。すっと鼻筋が通った繊細な顔だち。    

「なんだよ、人の顔をじっと見て」

 私は迎えに来た海の顔を、一緒に歩きながらさっきから見ていた。

「海も陸もきれいな顔してるんだなあと思って」 

 海はにやっとして言った。

れた?」

 私は彼を見ながら訊いた。

「ねえ、海は何で私が好きなの?」

「何でって、好きだから好きなんだろう。理由なんかないよ」

「そんなものなの」

「なんか理由が欲しいのか? きれいだとか可愛いとか?」

「別に無理に言ってくれなくてもいいよ」

「無理に言わされてるわけじゃないよ。そうだなあ、しいて言えば、神奈は俺と陸を間違えたことがないからってのもあるかなあ」

「何それ」

「俺らが入れ替わって互いに互いのふりして演技をしたら、殆どみんながだまされる。両親もたまにしか見抜けない。でも、神奈は一度だって騙されなかったんだよね。昔から」

「ふーん」

「あとは、何か居心地がいい」

「ふーん」

「でもどうして? 俺たちのことが気になりだした? 好きになってきたとか?」

 今度はまじめに訊いてきたので、私は彼に

「そうなのかも。でも、私は今までも海も陸も好きだったよ。二人といるのは居心地がいいから好き。でも、正直言って、あんたたちにときめいたりしたことってない。どきどきしたりもない」

「別にときめいてほしいわけじゃないよ。どきどきしなくてもいいし。でも、ちゃんと男として見てほしい」

 私はちょっと立ち止まった。

「それって、性の対象としてってことだよね?」

 海も立ち止まって私を見た。そしてはっきり答えた。

「そうだよ」

「性への興味と、恋とか愛の好きって、同じもの? 同じでなければいけないの?」

 海は少し黙って私を見ていた。

「別に同じでいいだろ」

「でも、切り離しても、性への興味だけでも成立するよね。本来は別物じゃないの」

 海はじっと私をしばらく見つめていた。それから訊いてきた。 

「プラトニックがいいってこと?」

「そこまでは言ってないけど……」

「じゃあ、いいじゃん。別に一緒でも」

「一緒でもいいけど、でも、必ずしも一緒でもないものだから、本来は別物じゃないのって話なの」

「ふーん」

 海が私をじっと見つめてから、手を差し出したのでなんとなく手をつないで歩き出した。

「たとえば、こうして好きな相手と手をつないだり、好きな相手に触れたい、って思うの、自然なことじゃないの? 俺はそう思うけど? 神奈はそう思わないの?」

「海や陸のことは好きだけど、二人に特に触れたいとか思ったことない」

「ふーん」

 海はそのまま黙って歩いたので私も黙ったまま歩き続けた。駅について改札口に入るときに手を離して、そのまま電車に乗ってマンションの駅で降りた。改札を出てまた海が私を見つめて黙って手を差し出したので、手をつないだ。彼は私の手を引くようにしてマンションへの道をそのまま何もしゃべらずに歩いたので、私も黙ったまま彼に手を引かれるようにして歩いた。

 部屋に入ってから、彼は私に訊いた。

「何で俺と手つなぐの? 神奈は手を差し出されたら、誰とでも手をつなぐの?」

「誰とでもつなぐわけないでしょう」

「じゃあ、俺だから手をつないだの?」

「そうだよ」

「俺と手をつなぐのはいやじゃないってことだよね?」

「当たり前じゃん?」

「それって自分から触れたいって思わなくても、俺に触れられるのは嫌じゃないってことだよね?」 

 海がじっと私を見つめて言うので、私はちょっと黙った。

 なんか話が変な方向に行こうとしているみたい、と思ったから。

 海はむっとしたように言った。

「何で黙るんだよ」

「何で怒るのよ」

 むっとして私が言うと

「別に怒ってないよ」

「怒ってるじゃん」

 海がじっと私を見下ろすように見たまま黙っているので、

「何?」

 ちょっとむっとして訊くと、彼は

「ちょっとじっとしてて」

 そう言って私をそっと抱きしめてきた。ちょっと遠慮がちに、そうっと触れるように腕をまわして優しく抱きしめて、それから少し力を込めた。

「すごい緊張してる」

 抱きしめながら、海は私の頭の上で笑った。言われた通り、私は固まっていた。

「力抜いてよ、ちょっと力入れすぎだよ、神奈」

 笑いながら力を込めて抱きしめてきたので、びっくりして固まったまま、彼の身体に押し付けられるようにしていたら、ぱっと彼は私の身体を離した。そして私をのぞき込むようにしてにやっと笑った。

「どきどきしたんじゃない?」

 私が呆気にとられて黙ったまま彼を見上げていたら

「心臓の音が聞こえそうなくらいどきどきしてたじゃん?」

 とからかうように笑った。

 密着していたから互いの心臓の鼓動は感じていたので、私が驚いて心臓の鼓動が早くなっていったのも彼には体を通して伝わっていた。否定も肯定もせずに、我に帰ったように私は彼を見た。

「試したの?」

「そう」

 悪びれずに彼はそう言って、

「陸とも試してみる? 他の奴はだめだけど、陸ならいいよ」

「なんでそんなこと決められないといけないのよ」

「細かいことは気にすんな」

 笑って、海は、じゃあ勉強しよっか、とさっさと勉強道具を出して何事もなかったかのように勉強を始めたので、私は何だかぎこちないまま自分の教科書を出して、仕方なく勉強を始めた。海がいつも通り自然なのに対して、私は妙に緊張してきた。何か落ち着かないのでキッチンに行ってコーヒーメーカーをセットして、それをぼんやり眺めながら、何とかここから逃げ出す口実はないものか考えていたら、陸が帰って来て

「おーっす」

 と言いながら、バッグを投げ出すようにリビングに置いて、そのままシャワーを浴びに行った。

 浴室の方から陸がシャワーを浴びる水音とコーヒーメーカーのこぽこぽいう音だけがやけに静かな室内に響いていて、しばらくして、

「こっちくれば?」

 海がリビングから突然声をかけてきたので、ひえっと声が出そうになった。なんか体がびくっと反応してしまった。どうしよう、なんか逃げたい。でも逃げない避けないって約束させられてたし、どうにかここを切り抜ける方法はないものか。

 そうしたら海がこっちに来て、

「何してんだよ」

 と様子を見に来たので、

「ごめん、海、今日はこのまま帰る」

 涙目になりそうになって言ったら

「そんなにおびえることないだろう。別に襲わないから」

「襲うとか思ってないよ」

 さらに涙目になりそうになって私が言うと、海は困惑したように言った。

「嫌いになった?」

「なってないっ」

 海を傷つけないように私が少し強くそう言うと、海はにやっとした。

「じゃあ、いいじゃない。帰るなよ。どうしても意識しちゃうだけだろう?」

 やられた。と思ったときには遅くて、

「だいたい、この前はあんなに熱烈なキスもしたんだし、今更照れることないと思うんだけど?」

 とかぬけぬけと言い出した。

 それからついでのように訊いてきた。

「なんでそんな涙目なの」

「知らないよ」

「そんなに怯えることないだろう?」

「怯えてなんかないよーっ!!! あほ海!!! ばか!!!」

 言いながら私が、感極まって泣き出したので、海はびっくりしていた。

「なに泣かしてんだよ?」

 着替えを済ませた陸がいつのまにか来ていて、冷蔵庫から炭酸飲料を取り出しながら、何やってんの、という感じで訊いてきたので、海が

「ごめん、なんかびっくりさせたみたい」

「何で俺に謝んだよ。神奈に謝れよ」

「神奈、ごめん、悪かったよ」

 とりあえず泣いたら少し落ち着いたので、私は「ティッシュ」と海に命令して持ってこさせ、思いきり音をたてて鼻をかんだ。海がゴミ箱を差し出したので、それをぽいっと入れて、また鼻をかんで、ごみを捨ててから顔を洗いに洗面所に行って水で顔を洗い、さっぱりしてからリビングに戻った。

 その後は何ごともなかったように三人でいつものように勉強して、ご飯を作って食べてから食後のコーヒーを淹れていたら、キッチンに陸が来た。

「なんかへんじゃない?」

 何となく海と私がぎこちないので、直接わたしに尋ねてきたのだ。

「ちょっとなれるまでに時間がかかるだけだよ」

「俺が?」

「私が」

「何で?」

「何ででも」

「ふーん」

 陸はそう言って、リビングに戻っていった。そうして海にも同じことを訊いているのが聞こえた。海の返答は直球だった。涼しい顔して応えているのがわかるような声で

「神奈は意識してるだけだよ」

「何で?」 

「俺が意識させたから」

「何したんだよ?」

「ちょっと抱きしめてみた」

 と言ってる辺りで私はリビングに戻って

「ちょっともくそもあるか!」

 とコーヒーをいれた海のマグカップをどん!とテーブルに置いた。

 それから残りのマグカップもキッチンから持ってきて、テーブルに置いた。

「陸とも試してみれば? ってちゃんと言ったぞ。他の奴はだめだけど陸ならいいよって」

 海が陸にそう言っているので、

「なんでそんなの決められないといけないの」

「他の奴とそうしたいのかよ」

 と陸が訊いてきたので

「そんなこと言ってないでしょ」

 陸は私をしばらく見つめていた。

「何で泣いてたの?」

「海がからかってきたからだよ。ちょっとやりすぎだったから」

 むっとした陸が海を見ると、海は両手を上げて言った。

「手は出してないぞ。ちょっとあおっただけだし」

「ちょっともくそもあるか!」

 また私が怒ると、海は素直に謝った。

「ごめん、悪かったよ」

 陸はちょっと息をつくと、私と海を見て言った。

「とりあえず仲直りってことでいい?」

「いいよ」

 海が言って、何でお前が先に言うんだ、とちょっとむっとしつつ、私もむすっとしたまま言った。

「いいよ」

「何かまだ不満そうだなあ」

 陸があきれ顔でそう言い、

「何だよ、まだ何か不満なのかよ」

 海がいけしゃあしゃあと言うので

「おまえ、ちょっと黙ってろ」

 と陸が海に言って、海がむっとしていた。

 それでちょっとすっとした私は

「もういいよ」

 と手打ちにした。そうしてコーヒーを飲んで、いつも通りにまた少し勉強して、いつものように三人で帰った。


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