第2話


 聡子さとこと私とキイナは放課後の教室かキイナの家でお喋りをして過ごした。キイナの門限が五時なので外だとあっという間に時間を過ぎてしまうからだ(キイナの家は学校から徒歩圏内にある)。聡子の家の門限は七時だったし、うちは連絡すれば九~十時でもOK、それでかいりくと何となく仲直りするまではほぼ毎日のようにそうしていたのだが、彼らの勉強部屋で一緒に勉強をした日曜から数日後、とうとつに放課後の校門前で私は陸に待ち伏せされて、聡子やキイナに騒がれた。

「あ、私この人知ってる。あなた陸上やってるでしょ。全国大会の記録保持者だよね」

「もしかしてカンナの彼氏?」

 私は慌てて「ち、ちがう。おさななじみ」と二人に言ってから「陸、何でここにいるの?」

 陸はけろっとした無邪気そうなかおで

「ひまだから神奈かんなの学校どんなとこか見てみたくて来てみた。運が良ければ会えるかなーと思ってたら」と私を見てにっこり笑って「会った」

「実は秘密の彼氏じゃないの~?」

 ひやかす二人に私は

「ちがうって。お隣さんのおさななじみ」

「もしやカンナを待ち伏せして告白とか?」

 キイナが陸本人に直接そう訊いたので、陸はにっこりして名前と学園名、学年を自己紹介してから

「もう少しで中間試験だからまた一緒に勉強しないか誘いに来たんだ」

 それで私が聡子とキイナを彼に紹介していたら、聡子が私と陸を交互に見て言った。

「行ってきなさいよ。全国模試の上位者でしょ。あなた、兄弟でそろってランクインしてるよね」

「陸上の記録保持者は俺じゃなくてその兄弟のほうだけどね」

「陸君はサッカーの選手じゃない? 陸君の名前聞いたことあるよ。すごく強いんだよね、陸君の学校のチーム。精鋭ぞろいって有名だし」

 キイナがそう言うと、陸はうんと頷いている。

「そうなんだ」

 現在の海陸兄弟のことを殆ど知らなかった私は、逆輸入で情報を仕入れることになった。

「なんであなたが知らないのよ」

「だってそんなのいちいち訊かないし」

 聡子にそう言っていたら、そのすきにキイナが陸に

「試験対策用のノートを作ってくれるならカンナを貸してあげてもいいよ」

 などと勝手に交渉していた。

 しかも、陸はにっこりしてばっちり請け負っていやがった。

「いいよ。まかせて!」

「何でそうなるの!!」

「いいじゃない。これでみんなで良い成績が出せたらみんな幸せ♪」

「じゃあ、あとよろしくね♪」

「うん、まかせて♪」

 キイナと聡子は陸とすっかり意気投合。私を彼のもと生贄いけにえに差し出し、にこやかに手を振って去って行った。

「ちょっとー!!」

 うらぎりもの、と去っていく二人に怒っていた私の手を取って、陸は「じゃ、行くか」とさっさと駅の方向へ歩き出した。

「どこ行くの?」

「勉強部屋のマンション」

 そのまま手を引くようにしてすたすた歩いていく。

「海は練習があるから後で合流するってさ」

「……初めから計画的だったってこと?」

「あ、ばれたか」

 言って陸は私を振り返ってにっと笑い

「こんなにうまくいくと思わなかったけど」

 とけろっとしている。

 なんなんだよ、まったく。

「そんなにむくれるなよ。こないだの日曜があまりに楽しかったからまたそうしたいなーって海と言ってたんだよ」

 私は彼を見つめた。

「確かに、あのときは楽しかった」

 私がそれは認めると陸は歩調を少し緩めて私の隣を歩きながら笑った。

「だろ?」

「でも今日は、キイナの家で取り置きしておいてもらったスイーツをみんなで食べる予定だったのに!」

「なんだ、そんなことか。じゃあ何か埋め合せに食べたい物おごってやるから、行きたいところに行こうよ」

「ホント?」

 何故か、またころっと釣られてしまった。

「うんいいよ。どこ行きたい? 何食べたい?」

 まじか。どうしよう。

 急に降ってわいた幸運に私はあれこれ迷って、結果、二人の勉強部屋の最寄り駅にあるパン屋さんのスタンドに連れて行ってもらった。ここのパンはふわふわで特製のクリームがものすごく美味しくて大人気なのだ。ふわふわしたパンに各種フレーバーホイップクリームと季節の果物やジャムが入っていて、ケーキよりも軽く食べやすいうえに、ものすごく美味しい。手軽にぱくぱく食べられる。私は一度に二つくらいぺろっと食べてしまう。私たちは飲み物と一緒に特製クリームパンを買って、途中の丘で手すりに並んで腰かけて遠くに夕日を眺めながら一緒にそれを食べた。海の分とついでに自分たちにもお土産分を買っておき、そこでは一つずつ選んだものを仲良く半分にして交換して食べた。

 ケーキバイキング以来、種類の多い美味しいものは分け合うとたくさん食べられる方式が私たちの間ではなんだか定着していた。これは美味しいものをちょっとずつたくさんの種類食べることができて、しかもおなかがいっぱいになるまでに沢山の種類が食べられる上、その中から自分が特に好きなものを選ぶこともできる合理的なシステムだったので、食いしん坊の私たちはとても気に入っていた。

「これうまいな。初めて食べた。ハマりそうだ」

「でしょう」

 私は嬉しくてちょっと得意気になる。

 自分の好きなものを褒められるとなぜか人は自分のことのように自慢したくなるものだ。

「お土産分に沢山たくさん買ったから、後でみんなで食べるの楽しみだな」

「うん」

 半分ずつにしたパンを手に持ってじっとそれを見ていた陸は私にふいに言った。

「そういえばさ、まだ神奈が小学校に上がる前に、俺たち三人でうちの父親に連れられて映画の撮影スタジオに連れて行ってもらったことがあったの、覚えてる?」

「え? そんなことあった?」

「うん。なんか映画のセットの家とかあって、神奈がその家をものすごく気に入ってさ」

「ふーん?」

「ここを三人のお家にしよう! って言いだして、そこをおままごとの実物大セットにして遊びを仕切り出した」

「へえ」

 まったく覚えていない私は他人事のようにそれを聞いていた。

「その映画用セットの家は二階建の設定で、一階分のスペースも二階分のスペースも天井がなくて、スタジオ内に平屋の家が二つあるみたいだった。そのうちの一階分のスペースの家の間取りを神奈が気に入って、そこを我が物顔で占拠して、ここは三人のお家宣言したんだ」

「なんかいまいち納得できない表現があるんだけど、まあいいわ」

「それで部屋割りをすることになった。その家の間取りは広い部屋一つとその半分の広さの部屋が二つある3LDKだったんだけど、それを神奈が『かいとりくはふたりでひとつだから』って言って、あ、これは俺らがよく自分で言ってたんだよ。俺と海は二人で一つみたいなものだから何でも一緒なんだ。だから公平にしないといけないんだって。それで続けて神奈は『だからこっちの広いお部屋はかんな。かいとりくはこっちの半分ずつのお部屋ね』って言ったんだよ。幼稚舎で割り算までは習ってたから、おいそれはおかしいだろう、ってさすがに俺らが抗議しても『なんでよ』って神奈は言うわけ。こいつなんてごうつくばりなやつだ、って俺はものすごく腹が立って抗議してたけど、神奈はまったく聞かないんだよな」

「……へえ…」

 まあ、小さい頃だし…、それに二人と違って、私はまだ算数のさの字も知らなかっただろうし…、と自分で自分をこっそり励ましていたら、陸は続けて言った。

「そうしたらそれまで俺ら二人のやり取りを聞いてた海が、紙と鉛筆を持ってきて部屋の間取りを書き出して、ここはこの部屋の二つ分の広さでしょう、だからこの場合は、この広い部屋を僕たち二人の部屋にして、こっちの半分の部屋を神奈が使えば公平でしょう、って言ったんだけど、それでも聞かないの。もう一個の部屋はどうするのとか言い出して」

「……」

「俺らはあきれて、そんなの物置かお客さん用にすればいいじゃないかとか言ってたんだけど、その内にスタッフの人が差し入れの焼き菓子を持ってきてくれたんだよ。大きめの四角いワッフルだった。海はそれを一つ、みんなでわけるからってお礼を言ってもらって来た。そんでそれを目の前で二つに割って、その半分の一つをまた半分に割って三つに分けたのを神奈に見せて『かんなは自分は一人分だからこっちって言って、この大きい方の半分をとって、僕らにはさらにその半分ずつで、かんなの一人分のスペースに僕ら二人を押しこめようとしているんだよ』って説明したら、さすがに神奈もこれはおかしいと気づいたのか、ごめん、って言ったから、とりあえず大きい半分のワッフルも半分にして四分の三を三人で分けた後に、残りの一つを適当に三等分して仲良く分けたんだよね」

「よくそんなこと覚えてるね」

「ふたりで一つっていうのと、一人分に二人を押しこめようってのは、根本的に意味が違うだろう!!! という衝撃的な自我の目覚めだったからな」

「ふーん」

「神奈の食い物への執着がすごい分、それで説明したらあっさり納得したのも、ある意味衝撃だった」

「なんか気になる物言いだけど、まあいいわ」

 丘の上から二人で夕焼雲を眺めながら互いに覚えている小さな頃のことをちょっと話してから、私たちは彼らの勉強部屋へ行った。海は六時過ぎに帰って来てそのままシャワーを浴びてから私たちとの勉強に合流した。母には前もって連絡しておいたので、夕飯をまたみんなで作って食べて、デザートにお土産の特製クリームパンを仲良くみんなで分けて食べた。器用な海がほぼ均等に三等分してくれたので、それを見ながら、陸からきいた部屋割りエピソードを海に覚えているか訊いたら、ものすごく覚えてる!! って笑ってた。 




 二日後に今度は海が校門の前まで迎えに来た。

「今度は海なの」

「また誘いに来た」

 海が愛想よく聡子とキイナに自己紹介がてら挨拶しているのを横目にあきれていたら、聡子とキイナはまたあっさりと今度は海に私を生贄として差し出し、笑顔で手を振り去って行った。

「今日はどんな予定だったの」

 と海が訊くので

「特に何もないけど、キイナの家でお喋りするつもりだった」

「そっか。じゃあ行こうか」

 海と並んで駅まで歩いた。

「誘いに来てくれるのは嬉しいけど前もって知らせてくれない?」

「前もって言っておけばマンションに来る?」

「うん。と言うか突然来られても結局行ってるよね」

「そうだね。じゃあ週三日くらい一緒に勉強しない?」

「いいけど、なんで週三日なの」

「部活あまり休むとまずいから」

「休むことないじゃん?」

「部活終ってからだと遅くなるし、その間一人でいてもつまらないから神奈は来ないだろ」

 そうだな、と思った私は彼に提案した。

「キイナの家でお喋りしてから帰りに海たちのマンションに寄ってもいいよ」 

「そうしたらあまり神奈の勉強時間がとれないだろ」

「そこまで気にしてくれなくてもいいよ」

「神奈の成績が今までより上がれば、神奈の両親のお墨付きが得られるじゃないか」

「今でも十分なくらいだと思うけど」

 受験が終わってからすっかりたるんでいた私が海や陸と一緒に遅くまで勉強してくることに、母は大喜びだった。父も礼儀正しいお隣の兄弟を気に入っているので特に問題なしだ。何も気にする必要なんてないのに。

「いいの。これは俺らの問題だから」

「私の問題では」

「とりあえず、月水金で俺と陸が交替で迎えに来るからさ」

 勝手にそう決めて海は私の手をとって引くように先にたって歩き出した。

「ちょっと勝手に決めないでよ」

「前もって言えって言ったの神奈だろ」

 この前陸が迎えに来たのが水曜日。そして今日は金曜日だった。

「……もしかしてもう決めてたの?」

 私が言うと、海は振り返ってにやっと笑った。

「あたり」

 この双子は何を考えているんだ。

 黙って海について歩いていたら、彼はまた振り返って私にたずねた。

「どっか寄って行きたいところある?」

「……特にない」

「ふーん」

 海は私を少し見つめていたが、また前を向いてさっさと歩き出した。そのまま何となく黙ったまま電車に乗って目的の駅で降り、マンションまで歩いていたら、途中雑貨屋さんに私が目を留めたのに気づいた海が「寄ってみる?」というので私は頷いて、二人でその雑貨屋さんに入った。輸入物の雑貨を扱っているらしく、色々珍しい物や何に使うのかよくわからない物まであった。面白がって二人でこれ何かなとか言いながら見ていたら、店主らしいきれいなお姉さんが声をかけてくれて謎の物体の説明をしてくれた。アート作品として飾って置いてもよさそうな精巧な木彫りや金属製の細工物、陶製やガラス製の物やら色々あるのだけれど、元はと言えばそれぞれに実用的な用途があるのだそうで、その実用目的以外にも飾っておいてもきれいなので集めていたら沢山溜まってしまって、こうしてお店に出しているのだそうな。

 私と海はお店を見て回り、素焼きの大きめのマグカップの上に素焼きのお皿型の蓋がついているセットがいくつかあるのを気に入ってみていたら

「これはちょっとしたお茶菓子を入れる小皿にしたり、蓋にしたり、受け皿にもなるのよ」

 ティカップのソーサーのようにマグカップを乗せてみせてくれたら思ったよりしっくりはまっていた。

「ペアカップにしてもかわいいよね」

 私たちの目の前で微妙な色違いの二つを組み合わせてくれたので、海はもうひとつそこに微妙な色違いのマグカップのセットを足して、

「これを下さい」

 と言った。

 彼女はちょっと意外そうに瞳を大きくしたけど何も言わず微笑んでそれを包んでくれた。

 お会計の時に、海は

「僕たち三つ子なんです」

 とにこにこしながらものすごく適当な嘘を言っていた。

「あ、そうなの?」

 にこにこしながらお姉さんが応えてくれると、調子に乗って

「僕ともう一人が一卵性で妹が二卵性の珍しい三つ子なんですよ」

 とか言っていた。

「優しいお兄ちゃんでいいわね」

 にこにこしながらお姉さんにそう言われて私は笑うしかなかった。

 お店を出てから

「何であんなくだらない嘘つくのよ」

「なんとなく。おもしろいかなと思って」

「だいたい誕生日は私が11月であんたたちが12月なんだから、どっちかと言うと私がお姉さんでしょうよ」

「そこかよ」




 海と陸が一緒に作ってくれた私の試験対策ノートは聡子とキイナに大好評だった。二人ともそのノートのコピーを使って成績の順位をだいぶ上げた。もちろん私もかなり上がった。当然両親大喜び。海陸兄弟様様だ。確かにみんな幸せだった。

「今度は期末の分、よろしくね♪」

 二人は満面の笑みで私にそう言った。

 私はこの頃から殆ど家にいなくて、学校にいるか、友達の家にいるかで、週末も聡子やキイナと過ごすか、海と陸と過ごすかのどちらかが多かった。恋愛の話がほぼ半分以上を占めるクラスメートたちの中で、私の日常は友達の存在がかなり大きなものを占めていたので、適当に相槌を打ちながらも「そんなもんなのかなあ」程度の漠然とした感想しかなかった。流行の歌なんかも殆どみんな恋愛を歌っていて、どうしてもっと友情とかもっとちがうものをテーマにしないんだろう、たとえば宇宙の神秘とか、森羅万象の真理とか。となんとなく不思議に思いながらいた(私はクラスメートから変り者扱いされていた)。

 淡い恋までいくかいかないかくらいの憧れの存在はいたけれど、その頃、私は恋愛にも性にもあまり関心がなかった。聡子とキイナは私と同じように変り者なところがあったので(二人の方がもっと如才ない感じだけど)彼女たちと一緒にいるときは気楽だったが、クラスメートの話題の中に入るとついていけずにたまにぼーっとなることがあった(退屈すぎて空想の世界に逃避していたと思われる)。

 そのまま中学卒業、そしてエスカレータ─式で高校生になった。

 さすがに高校生になると少し色気づいておしゃれもデートも楽しんだけれど、それも何となく付き合いでしている感じだった。私達の通う学校には兄妹校の男子校があって、たまにクラスメートに誘われて私たち三人もグループでのデートというかその男子校の生徒たちとの親睦会のようなものに付き合わされることがあったのだ。私にとってはその程度のものだったけれど、意外なことに聡子がそこで知り合った一つ上の先輩と真剣に付き合いだした。

 聡子もやはり箱入り娘のお嬢様で、しかも婚約者(家同士で決めたもの)までいるものだから二人の交際は周囲に秘密だったけれど、聡子は根が真面目なので、その形だけの婚約者に直接、好きな人がいるので婚約は解消したいと伝えた。しかしその婚約者は聡子との結婚にこだわって婚約は解消しない、結婚は予定通りする、と譲らなかった。と言うか、それが火をつけたかのように、聡子の家に頻繁に訪ねてくるようになったのだ。まるで監視しに来るみたいに。それで聡子は両親にも妹にも周囲の友人知人にもばれないように細心の注意を払って、密かに彼氏との恋を育んでいた(もちろん私やキイナは隠れみのになって協力したし応援していた)。

 キイナはキイナで、やはりその親睦会で知り合った同級生の男の子となんとなく仲良くなって、彼の方がキイナに夢中になった。せつない片思いだ。その上、キイナは筋金入りの箱入り娘で、しかも相当なシスコン兄が4人も待ち構えている上に、ラスボスには道場主で剣豪の父がいた。でも彼はめげずに健気にもみんなに認めてもらおうと桜澤家の道場に通い出した。私たちは心を込めて彼のことをチャレンジャーと呼んだ。それでキイナも差し入れに行ったり、たまに稽古の相手なんかをしたり。ひまだった私も何となくそこで一緒に手伝うようになった。海や陸が部活の大会前とか試合前で忙しいときや火曜や木曜にキイナの家にいつも通り遊びに行くと、いつの間にか後から彼が合流するような感じになったのだ。というか彼は道場の方に通っていたので、私達がみんなへの差し入れを持ってそっちへ顔を出しに行くのだけれど。


 なんだかそんなこともあり、私たち自身も、周囲も、取り巻く環境も、すべてが微妙に、だが急速に変化し始めていた。

 子供から大人に変化していく過程にいる微妙な時期特有の、なんとなく常に微熱に浮かされているか抱えているような状態で、とにかく一生懸命に夢と現実が奇妙に入り混じったような空間をひたすら前へ前へと泳いでいるみたいだった。

 なかでも聡子の方は何となく悪夢と現実が入り混じったようなところにいるようだった。家族や婚約者の監視が日ごとにきつくなっていくみたいで何だかしんどそうにしていることが多かったが、その分彼との恋がまた燃え上っているみたいでもあって、恋愛に対して一番冷静そうだった彼女が、何だかずいぶんと情熱的な展開を迎えて、躊躇ちゅうちょせず果敢にそこに飛び込んでいったみたいな感じだった。外向きには常に冷静沈着だったけれど、その内に秘めている激しさは私もキイナもよくわかっていた。

 そして、いつもなんとなく、心配だった。

 


 

 恋に奥手とか変り者と形容された私だったが、淡い憧れの人はちゃんといた。それが恋と呼べるものかどうかまではわからないけれど、憧れの対象であることは間違いなかった。聡子が聞いたら喜んだかもしれないが、私はそれを誰にも言わなかった。相手は、キイナの三番目のお兄さん、聖一せいいちさんだった。


 初めて会ったときは、素敵な人だな、くらいの印象だったけれど、キイナの家に遊びに行った時にたまに彼に会うと、きまって彼はじっと私の目をまっすぐ見つめてから、優しく微笑んで挨拶をしてくれた。そのちょっとした間のじっと見つめられる感じがなんとなく意識するようなきっかけだった。

 聖一さんは、彼のくせなのか何なのかわからないけれど、じっと独特の間で瞳をまっすぐに見つめてから、何かを言ったり、笑ったりすることが多かった。

 彼のきれいな瞳で、その独特な透明な眼差しで、まっすぐに数秒ほど見つめられると、私はいつも不思議な感じがした。何だかマジシャンのようなイメージを彼にもってしまった。それはちょっと神秘的な、でもちょっとこわいような感じ、魔法にかけられるとか催眠術にかけられるとか、そんなイメージを連想したのかも。

 でも少したってから、そのイメージも変わった。何かで読んだ中にあった言葉があまりにぴったりくる感じだったので、そっちのイメージに変わったのだ。

 それは、そのものの真実の名を問いかける、というような表現だった。

 アメリカ先住民の思想哲学のなかに、真実の名には力があって、それは簡単に明かしてはいけないくらい大切なもの、力のあるものなので、真実の名をとても大切にする、秘密にする、というようなものがあったのだ。

 うまく説明できないけれど、彼のじっと見つめる独特な間と透明な眼差しには、そのものの真実の名を直接、まっすぐこちらの心に問うてくるような、そんな神秘的な響きがあった。どこか深いところまでこだまして次々に響き渡っていくような。なんでと言われてもただそんな風に感じるとしか言いようがないんだけど。そしてそれは、真実の名を彼に明かせと要求する問いなのではなく、私に自分自身の真実の名を思い出させるための問い、という感じだった。私は彼にじっと見つめられるたび、いつもそんなふうにまっすぐに心の中に問いかけられているような気がした。

 ――君の真実の名は? それを思い出せる? 覚えている?

 たとえるならこんな感じだ。


 そのものの真実の名を問いかける


 おおこれだ、この表現だ、まさしくこれだよ。

 その表現を見つけた時、なかなか言葉にできなかった感じを的確に過不足なく表現していたので、あまりにぴったりすぎて驚いたくらいだった。それ以来、なんとなく彼は私にとって不思議で神秘的な何かへの憧憬のような、淡い憧れの対象になったようだった。変り者の称号を有難く戴いているにしてもそれでもこのことに関しての自分のかなりの奇人変人っぷりには自分でもよくわかっていたので、話したところで誰にも理解されないだろうからと黙っていたのだった。


 聖一さんとの接点は十五歳くらいからちょっとずつ増えてった感じだった。それまでは挨拶程度の関わりでしかないし、淡い憧れの対象、素敵なお兄さんだけど、彼はおとなのひとだったし、遠くから何だかきれいで素敵ないいものがあるなと風景や景色を眺めている感じに近かった。

 ある日、私はキイナの家にいつものように遊びに来たはいいけれども、チャレンジャーの克己かつみくんがキイナとなんとなくいい雰囲気になっていたので、気をきかせて急に用事を思い出して帰ることにして道場の裏口から中庭を通って桜澤家の正門まで歩いていた。学校帰りに寄ったので制服だった。途中で、あ、かばん、とキイナの部屋に自分の学生かばんを置いてきていることを思い出して、私は母屋の玄関によってチャイムを鳴らした。しかしタイミング悪くみんな道場の方かどこかへ出かけているらしくて誰もいないようだった。それで道場までまた戻ってキイナに家を開けてもらうか、とため息をついていたら、聖一さんが声をかけてきたのだ。

 離れの方の窓から私がひとり玄関前でうろうろして困っている様子が見えたのだそうだ。

「家に入りたいの?」

 彼がそう声をかけてくれてほっとした。

「鞄をキイナの部屋に忘れて来てしまって」

 彼はうなづいて、

「ちょっと待ってて」

 言ってから離れの方から家の鍵を持ってきて開けてくれた。

「一人で勝手に上がるのも気がひけるのでついてきてもらえませんか?」

 私が遠慮がちにそう言うと彼はまたちょっとじっと私の目を見つめてから、にこっとした。

「いいよ」

 それで彼に先導してもらうようにしてキイナの部屋に行き、自分の鞄をとってくることができた。

 玄関を出たところでお礼を言っていたら、彼は家の鍵を閉めながら

「もう帰るの?」

「うん、ちょっと急用を思い出したので」

 私がそう言ったら、彼は私をまたじっと見てから

「そのわりにあまり急いでいないみたいだね」

 くすっと笑った。

 なぜだか私はちょっと赤くなった。

 悪意のないくだらない言い訳の為の嘘だったけど、なんか嘘を見透かされた感じがしたので

「実は克己くんがキイナといい感じになってたから、ふたりにしてあげようかと思って、お邪魔虫は退散することにしたのです」

 聖一さんは明るい声であははと笑った。

「お邪魔虫か。ずいぶん可愛らしいお邪魔虫だね」

 なんかほめられてんのかな。

「そうか、あいつもがんばってるんだなあ。チャレンジャーだからな」

 にこにこしながら彼はそうも言った。

 彼は健気なチャレンジャーの克己くんに好意的なようだ。

「聖一さんは克己くんを応援する派?」」

「応援するも何も、彼らの問題でしょう」

 鷹揚おうように言う彼に、私は言った。

「聖一さんは中立派なんだね」

 聖一さんはちょっと笑って

「何派かどうか決めていないけど、中立だろうね。僕は何ごとにも干渉しないから」

 すごいシスコンなのは彼を除いた三兄弟のことらしい。

 何となく彼だけ毛色が違う──聡子はそんな風に言っていたな。

 そんなことを思い出していたら、彼は私をちょっとじっと見つめてから言った。

「神奈ちゃん、時間あったらちょっと寄ってかない? すごくいい香りの紅茶をお客さんから頂いたんだ。一人で飲むのももったいないし」

 私はちょっとびっくりして

「お邪魔じゃないの?」

 聖一さんは笑って言った。

「全然邪魔じゃないよ」

 聖一さんの離れの家に招待してもらうのは初めてだった。

 独立した小さな家の中はコテージみたいでリビングには暖炉があった。木のいい香りのする清潔であたたかみのある居心地の良い空間に迎え入れてもらって、私は初めての場所に緊張するよりも、なんとなくほっとするようなくつろいだ気分になった。簡易キッチンで紅茶をいれて彼はリビングに持ってきてくれた。リビングには木目の美しいテーブルとゆったりしたソファがあり、暖炉の上には本が数冊重ねて置いてあった。掃き出し用のガラス戸の前にはつやつやした緑の葉を繁らせた観葉植物がある。

「素敵なところ」

 私がほうっと息をついて言うと、彼は

「どうもありがとう」

 そう言って、テーブルにセットした温めた薄い白磁のティカップにティポットから熱い湯気を立てる紅茶を注いでくれた。室内には湯気と共にふわっと香気が広がった。薔薇の香りのする紅茶だった。

「うわあ、ほんとだ。とってもいい香り」

 私がそう言うと、彼はにっこりした。

 お茶うけに可愛らしい花の形をしたクッキーも出していただいた。

 彼はちょうど仕事の区切りがついたので息抜きをしようと思っていたところだったのだと言った。

「聖一さんはここでずっとひとりでお仕事をしているの?」

 私が尋ねると、彼は頷いた。

「高校生の時からずっとここにいる。遊びで友達と作ったプログラムの権利がたまたますごく高く売れてしまって、ちょっといろいろたいへんになって、それで対策のために、当時家の隣の敷地が売りに出されていたのもあって自宅の敷地を拡げてここを仕事場として建てたんだ。そうして自分の会社を立ち上げてしまった方がそのときは楽だったからそうした。何だかそれ以来ここにずっと住みついてしまった」

「ふーん」

 私たちとそんなに変わらない年の頃からお仕事もして、学生もして、ほぼ一人暮らしみたいな生活かあ、ちょっと想像もつかないや。なんかたいへんそうだな。でも、彼にとってはその方がらくなんだろうな。なんかそれは分かるような気がした。

「僕は幼少から病弱だったから母親や家族から過保護にされることが多くて、でも仕事としての線引きができたことで、ちょっと楽になったんだよね」

 彼はそんなようなことを言っていた。

 薔薇のいい香りのする紅茶とメープルシュガーの甘く芳醇なクッキーを頂きながら、彼とはなんだかいろんな話をした気がする。ふだん友達と話せないようなことも彼とは話せたので楽しかった。彼は物知りで、物理学にも詳しくて宇宙の話とか量子の話とか、数式を使えば楽に伝えられるようなことをその数式が理解できない私にもわかりやすいように哲学的に文学的に話してくれたりして、それはとても面白かった。彼は話がとても上手だったし、教えるのもとても上手だった。宇宙の神秘や森羅万象の真理にたとえようもないロマンチックさエキサイティングさを感じる私からしたら、最高の茶飲み友達だった。




 ある日私の元に一通の手紙が届いた。

 封筒には宛名に私の名前が書かれていただけで、宛先住所も差出人の名前も住所もなく、直接投函されたものだった。分厚い封筒のなかには十枚以上の便箋が入っていた。その手紙には要約すると次のようなことがびっしりと書かれていた。


・海と陸に近づかないこと

・彼らを誘惑しないこと

・幼馴染という特権をつかって二人につきまとうのはずるい

・二兎追うものは一兎も得ずということわざを知らないのか


 はっきりいえば、いちゃもんであった。

 どこの誰かもわからない相手からいわれのない因縁をつけられ絡まれているらしい、しかも家の郵便受けに直接投函されているので相手はこちらの家を知っている。

 二人のファンとかかな。

 聡子たちからの情報によると海と陸のファンクラブみたいなのがあるらしい。彼らの通う学園内に中等部時代からあり、校外にも他校生たちのグループがあるみたいだと噂は聞いていた。

 腹が立つとか気味が悪いとかよりも、このようなことをする人が現実にいることや、こんなことを会った事もない知らない人から言われる(書かれる)ということやなんかにただただびっくりしていた。

 妄想に満ちた身勝手な悪意をただぶつけてきただけの迷惑な手紙をきちんと最後まで読んでしまったお人好しな自分にも驚きだが、とにかく驚いた。何から何までツッコミどころが多すぎて、もはやどうつっこんでいいかわからないような手紙だった。そして一番驚いたのは、この差出人が、どうやら心から自分にはこれを私に言う(書く)権利があると信じているようなことだった。

 世の中には他者との距離がおかしいというか、境界線がきちんと認識できないか、もしくは、したくないのか、あるいはその両方なのかわからないけれど、そういう人がいるのだということに私は衝撃を受けていたのだ。

 こうしてほしいとかこうだったらいいのにとか身勝手な妄想や願望をもつのは誰でもあるけれど、それを堂々と他者に、まるでその相手の義務であるかのように要求する人がいるということに対しての、純粋な驚きだった。それはとても衝撃的だった。

 これが小さな子どもが親とか身近な親しい人に対してわがままを言って駄々をこねる、というものであれは、よくあることだろうけれど、差出人は少なくとも私たちと同じくらいの学齢の、きちんと識字力もあるしきれいな字も書くしことわざも引用(そもそも使い方がおかしいけど)する人で、しかも友人や知人ですらない見ず知らずの赤の他人レベルの関係の無さなのだ。

 すごい、なんか初めての経験かも。

 きれいな字で書かれたものすごい熱量の手紙を前に、私はしばらくぽかんとしていたが、とりあえず海と陸には見せておいた方がいいかなと思い、封筒にその便せんをしまった。

 ふたりに言いつけてやろうというのでもなく(仮にそうであってもばれたら困る悪事を働く方が悪いのだが)、単純にこういう人はやばい、と何となく本能的に感じたからだった。海と陸の二人もちょっと気をつけたほうがいいのではとなんとなく思ったからだった。こういう人は自分が欲しいものを手に入れるためなら、相手の都合もお構いなしで強引なことをしそうな感じだった。


 三人で彼らの勉強部屋で夕ご飯を食べた後に、私は食後のコーヒーを準備しながら例の手紙を二人に見せた。

海と陸は読んだ後しばらく無言だった。私も何て言おうかちょっと考えながら黙ってコーヒーを飲んでいた。

「ごめん、神奈に迷惑かけないように何とかするよ」

 しばらくして海がそう言った。

 陸はまだ手紙を持ったままそれを凝視していた。

「何とかするってどうするの?」

 私が疑問に思って尋ねると、海は

「とりあえず俺らにまかせてよ。それからこんなばかげたこと気にしなくていいから」 

「こんなこと言われる筋合いはないからそれを気にはしないけれど、はっきり言って、この人ちょっとおかしいと思うから、海や陸こそ気をつけたほうがいいんじゃないの」

 私が思ったことをそのまま言うと、陸が、うんわかってる、と頷いた。

「断定できないけど、だいたい差出人の見当はついてるんだ」

「そうなの?」

「これは俺らが預かってもいい?」

 海が訊くので、私は別に構わないので頷いた。

「もしまた変な手紙が来たり、おかしなことがあったら教えてよ」

 もうないといいなあ、と思いながら私は頷く。

「なんだか変なことに神奈を巻き込んじゃってごめん」

「あやまんないでいいよ。二人が悪いわけじゃないでしょ」

「これに懲りてもう来ないとか言うなよ?」

「それはないよ」

「そっか、ならいいや」

「それよりあんたたちの方こそ大丈夫なの?」

「うん、こっちはこっちでやるから気にしないでいいよ」

「大丈夫だから、まかせといてよ」

 いまいち不安だったが、これ以上何か言っても仕方ないので私は「そう」と言ってこの話を終わらせた。あまりこんなことで自分たちの時間を煩わされるのもなあ、と思ったのだ。それにこの差出人は、私に対して妄想や悪意をぶつけることで私たちの関係に干渉したかったのだろうし、それにこちらが付き合い続けるのは逆効果な気がした。

 私たちはそのまま一緒に食後の後片付けをして、コーヒーを淹れ直してまた少し勉強をした。しばらくして、

「なー、神奈ー?」

 海が声をかけてきたので、私はノートにペンを走らせながら顔を上げずに返事した。

「なに?」

「神奈は誰か好きな奴とかいるの?」

 私は顔を上げて海を見た。

 海はこっちをじっと見ていて、陸もこっちを見ていた。

「何なの、急に」

「きいてみたことなかったから」

 確かにそんな話題、今まで出たことなかったけど。なんで今? 急に?

「いるの?」

 今度は陸が訊いてきたので、私は二人を交互に見ながら

「それって恋愛対象としての好きだよね。ならいないと思うよ」

「思うって何だよ?」

「憧れのひとみたいな感じのひとはいるけど、なんかそれもそっちの好きとはちょっとちがうっぽい」

「ふーん」

「俺たちにはきかないの?」

 海が言うので、私は別に訊きたくなかったため「きいてほしいの?」

 すると二人はうん、と言う。

「海と陸は?」

 私が訊くと、二人は「いる」と答えてから、私を指さした。

「あ、そ、そうなんだ、どうもありがとう」

 少し動揺しながら私がそう言うと、二人は何だよそれ、とあきれて言った。

「何か言わないといけないかと思って」

「別に何も言わなくていいよ」

「伝えたかっただけだから」

 二人はそう言ってまた普通に勉強モードに戻った。

 そんなこと言われて普通にされても意識しない方が無理だったので、私はしばらくがまんしたけれどもどうにも耐えられなくなって、

「今日はもう帰るっ」

 と立ち上がった。

 二人は私を見上げて、

「意識してるんだろ」

「照れてるんだろ」

 にやにやして、からかってきた。

「~~~っ」

 何故か私の方が恥ずかしくなって、いたたまれなくなるって、この状況、そもそもおかしくない?

 赤くなりながらにらみつけてたら、二人はしれっとして口々に勝手なことを言い始めた。

「俺たちみたいないいやつを目の前にして意識しない方がおかしいんだから、ちゃんと意識すればいいんだよ」

「そうだよな。少しはこっちのことも考えてほしいよな」

 なんなのこいつら。

 私があきれて何も言えずにいたら、

「まあ座りなよ」

 海が立ち上がって私の背後にまわり、私の両肩に優しく手を置いてその場に沈めるように座らせた。

 すとんと腰を下ろし、しばらくにやにやして私を見ている二人の顔を呆然として眺めていたが、あほらしくなってペンを手に取り、怒りにまかせ猛然とさっきの続きをノートに書きつけた。何なの、何なの、何で私がこんなふうに、気にしないといけないのさ!? わけのわからないままただ腹が立っていたので、二人のことは無視してその日にやる分をしっかり片づけ、ばん、とノートを閉じてから

「終わったからもう帰るっ」

 と再び立ち上がった。

「なんだよ~、感じ悪いなあ。俺たちまだ終わってないんだから、ちょっと待っててよ」

「そうだよ、もう遅いし、一緒に帰らないと危ないだろ。あ、ひまならコーヒーいれてきてよ。ちょうど立ち上がったんだからついでに行ってきてよ」

「あんたたちのそのふてぶてしい態度は何なの」

「だってこうでもしないと、神奈は本当に出て行っちゃうじゃないか」 

「この微妙な心遣いってものがわからないのかよ」

 それはそうかもしれないけれど……

「ずいぶんえらそうじゃないの」

 海と陸は私を見てにやっとした。そうしてなんだか優しい声で子供をあやすみたいに

「そうそう、そうやって怒ってなよ」

「もう少しで終わるから、待ってて。送ってくよ」

 そう言って、また普通に勉強モードに戻った。

 なんだか毒気を抜かれた私は仕方ないのでキッチンへ行ってコーヒーを落とした。ダイニングテーブルに頬杖をついて、椅子に座ってコーヒーが落ちるのをひとりで眺めていたら、陸が来て

「まだ怒ってんの」

「怒ってないよ」

「ふーん、じゃあ何考えてんの」

「何も。ぼーっとしてただけ」

「あ、コーヒー落ちたね」

「うん、いれよっか」

 私は椅子から立ち上がって、リビングに戻って「冷めたの捨てていい?」と海にきいて、うんと言うのを確認してから全員のマグカップを回収してきた。残りちょっとのコーヒーをシンクに捨てて、熱いコーヒーを注ぎ直す。このマグカップはいつだったか雑貨屋さんで海が三人分買ってくれたものだった。

「はい、海のぶんも一緒に持って行って」

 マグカップにポットのコーヒーを全部注ぎ終わって私がそう言うと、

「神奈はこっち来ないの」

「ポット洗ったら行く。カップは自分でもってくからそこに置いといていいよ」

「うん、わかった」

 陸が自分と海の分を持ってリビングに戻っていくのを見送ってから、私はコーヒーポットなどを洗って水切りバスケットの上に乗せていった。ふだんならこのまま水を切って置いておくんだけど、布巾でふいちゃおうかな、と思っていたら今度は海がやって来て、何も言わないで黙って布巾をさっと取って拭き出した。仕事を取られた私が手持ち無沙汰になっていたら、海は私に何も言わずに拭き終わったポットを私に渡した。私はそれをコーヒーメーカーに戻す。他の物も海がどんどん拭いては私に手渡すので、それを所定の位置にしまっていった。

「神奈、普通にしててよ、って言っても無理だろうけど、とりあえずは俺らから逃げないでよ」

「べつに逃げてないよ」

「逃げてるだろう、それってけっこう傷つくぞ」

 まっすぐこっちを見ている彼を見つめてから

「うん、ごめん」

「あやまらなくていいよ、でも避けないでよ」

「うん、わかった」

「じゃあ、戻ろう」

 そう言って海は私のマグカップを持って、私の手を引っ張るようにしてリビングに連れて行った。私達がリビングに入って行くと、陸がこっちを見上げたので、私は彼にあやまった。

「陸ごめん、避けたり逃げたりするつもりなかったんだよ」

「うん、聞こえてた。あやまんなくていいよ。避けないって言ってくれただけでいいよ」

 ちょっとほっとしてたら、海が私の手を引っ張って「座って」というので自分の席に腰を下ろした。テーブルの上は勉強道具が片づけられ、私の分も一つにまとめられて隅に置いてあった。何となくみんな黙ったままおそろいの微妙な色違いのマグカップでコーヒーをすすっていた。

「あのさ」

 陸が口火を切ったので、私は彼を見た。

「今まで通り普通にってわけにはいかないだろうし、ちょっとは意識してほしいけど、三人で一緒に居るのは続けようよ」

 私は黙ったまま頷く。

「ここで集まるのは、いつも通り。いい?」

 海がそう言って念をおしてくるので、私はもう一度頷いた。

「よし。じゃあ、コーヒー飲んだら帰ろうか」

「うん」

 

 何で私が海や陸とあんなにも一緒に過ごしていたかと言うと、気心の知れた彼らと一緒にいるのがなんとなく居心地がいいからもあるけれど、何でかふとしたときに、あの日の帰りに見せた彼らの子供みたいに可愛らしい、そしてなんだかどこか儚い、外灯に照らされていたあの笑顔を思い出したからだった。それはなんだか、私の胸を痛ませるようなものだった。大切すぎて痛いような感じで。

 私は彼らが好きだった。それは恋とかよりも家族を思うような、そんな友情からだったけれど、愛おしいとしかいいようのない感情があったのだ。

 でも、いつまでもこうしてはいられない。

 いつか終わる時が来るんだろうな。

 私たちも、周りも、その関係も、みんな少しずつ変わっていきつつあるのを、何となく私は痛いほどに感じていた。悲しく思うほどだった。色んな要素がからみあって、いやおうなしに変化の波に押し流されようとしているみたいだった。今はこうしていられるけれど──私たちはどこへ行くんだろう。この変化の流れは、私たちをどこまで連れて行くんだろう。





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