此処はいつでも土砂降りなのに

神﨑なおはる

プロローグ『事の発端』

 いじめや暴力や罵声なんかに留まらず、良い事も悪いことも引っ括めて『した人』よりも『された人』の方が覚えているという話はよく聞く。

 悪行なら尚の事。

 した方よりも、された方。

 言った方よりも、言われた方。

 殴った方よりも、殴られた方。


 傷つけた方よりも、傷つけられた方が圧倒的に事の次第を覚えているものだ。

 加害者と被害者。

 その両者の間には認識に大きな差があるのも事実。

 加害者の言う『ちょっとやらかした』が、被害者にいつまでも消えない傷を残すのだ。月日が経って記憶がどんどん風化してきて、加害者が「そんなこともあったなあ」と言って笑うこともあるかもしれないが、被害者にとっては過去のことだなんてとんでもないし、何だったら今でも現在進行形で続く悪夢だということも大いに有り得るのだ。

 加害者でも被害者でも、もう終わったことと決めるのは、一方だけではなく両者合意による儀式なのだろう。


 そして、この男、古橋燿ふるはしようは『加害者』である。

 当然過去を過去として終わったことにできるはずもなく、彼は今も自分を加害者であると認識し自分がやらかした過去に今も精神的に殴られる日々を過ごしていた。


 彼がやらかしたのは交通事故だった。

 それは彼が十六歳の出来事である。

 原付バイクの免許が取得できる年齢になり、通っていた高校が特に免許の取得を校則で禁止していなかったので、彼は十六歳の誕生日を迎えるとすぐに免許を取りに行った。

 そして祖父母と両親にこれでもかと頭を下げて、十六歳の誕生日プレゼントに中古バイクを買って貰ったのだ。

 新品でも良いんだぞと、祖父母は言ってくれた。

 でも新品のバイクは自分が社会に出た時給料を貯めて買うから要らない、と言ったのを今でも覚えている。

 先に述べてしまうが、そんな日の訪れは、今年三十一歳になった今でも無い。


 それに、買ってもらったバイクは一週間乗れなくなってしまった。


 誕生日を迎え、免許を取りに行き、バイクが家にやって来て。

 燿は浮かれていた。浮足立っていた。ウキウキだったし、バタバタだった。

 自分のバイク乗って走り出した瞬間、それまでただ自分の周りに屯っいただけの空気を置いてけぼりにして、風を起こしている様な気分になった。

 凄く速い。

 それまで自転車を漕ぐ感覚とは違い、とても簡単にこれまでの自分が知る速度を越えていく。

 バイクとは何と素晴らしい乗り物か。

 燿は自分の知る風景がどんどん後ろへ流れていく様子に感激した。世界が広がるとは正にこのこと。

 こんなに胸が打ち震える感覚に燿は目頭が熱くなった。この感覚は一生自分と一緒に生きてくれるような気がした。

 この先の人生躓いたり酷く傷付くことがあっても、バイクに乗って風を受けるように走れば、過ぎ去っていく景色のように自分が思い悩んでいたことが、ほんの少しでも吹き飛ぶのならとても素敵だ。

 そんな想像をして燿は堪らなく嬉しくなった。


 だけどその日は突然やってきた。

 燿を地獄に突き落としたものは、長い三つ編みを二つ揺らした小さな女の子の形をしていた。


 このバイクを買ってもらい一週間が経った日曜日だった。

 この日はアルバイトのシフトも入っておらず、燿はバイク乗って少し遠くへ行くつもりだった。

 遠くと言って市を幾つか越える程度。

 山や海に行くわけではない。

 ただ電車で目指すような目的地をバイクで目指したかっただけ。電車の窓から過ぎていく景色が、バイクからだとどう見えるのかという好奇心。昨日の内に燃料は満タンにしたから何処まででも行ける。

 そんな気分で最寄り駅近くの交差点で止まる。

 まだ早い時間だからか、車も人通りもさして多くない。この交差点に止まっているのも、燿と彼のバイクくらいだった。

 信号が赤から緑に変わり、さあ行こうと、アクセルを回した瞬間、目の前の横断歩道を女の子が走る。


 その瞬間の出来事は、今も鮮明に覚えている。


 女の子は燿のバイクの前に飛び出し、横断歩道を左から右へと走り抜けようとした。

 何処かへ出掛けるようで、袖口やスカート裾に白いレースがあしらわれた淡い水色のワンピースを着ていた。

 女の子は燿の姿なんて見えていない様子で、ただ横断歩道を渡った先にある駅を目指して笑っていた。

 一歩、また一歩駆け出すのに合わせて、白いリボンで留められた色素がやや薄い髪の三つ編みが揺れる。

 横断歩道の、女の子が走ってきた方には恐らく女の子の家族が居て飛び出して走る女の子の姿に顔を真っ青にして何かを叫んでいた。

『ショウコ』と。

 女の子の名前を必死に叫んで、彼女を掴まえようと父親が彼女に手を伸ばす。

 燿は女の子との接触は避けなくてはならないと、直感的にハンドルを右に切った。

 でも走り出していたバイクが急に止まるはずもなく、バイクは車体を右に倒し燿を振り落とす。そしてバイクは勢い殺しながらも道路を滑り、走る女の子に激突した。


 小さな、とても小さな女の子の身体をふっ飛ばすのに、バイクは充分な重さとスピードだった。

 女の子が宙に浮くのを燿は地面に転がりながらも見ていた。

 まるでそのまま空高く飛んでいくかのようだった。だけど女の子の身体は直ぐに地面へ激突した。

 女の子を跳ね飛ばしたバイクはそのまま交差点向こうの中央分離帯のコンクリート壁にぶつかって止まる。

 燿はバイクから振り落とされた際、ヘルメット越しではあったが頭をぶつけたせいか徐々に気が遠くなる。

 女の子の家族が女の子の名前を呼ぶ。そして燿にも駆け寄り声をかけてくれる。

 燿は意識が途切れる瞬間、自分を覗き込む女の子の父親の顔を見ながら、あー近所の函南かんなみさんだ、と思いながら目を閉じた。


 斯くして、燿の人生を広げたバイクは失われた。

 事故を起こした燿は頭が痛くなる程の罵声を聞きながら一日入院する羽目になった。

 その時、燿の人生の中で色々なものが閉じていった。

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此処はいつでも土砂降りなのに 神﨑なおはる @kanzaki00nao

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