第2話 春の卒業式、桜の雨のなかで別れた
肌寒い日々もいつしか雪解けを迎えた。
季節は春。
クリスマスイブに
中学校の敷地にはあちこちに桜の花が咲いている。
薄紅色の雨を眺め、俺たちは並んで歩いた。
「きれいだね。まるで花びらの雨みたいだ……」
「そうね。じゃあ、わたしとどっちがきれい?」
俺は「えっ」と立ち止まる。
一方の優愛は期待を込めたイタズラ顔。
このお嬢様はすぐそういうことを言う。
答えなんてわかってるくせに。
「えーと……」
「ねえ、どっち?」
髪を揺らして顔を近づけてくる。
やめてほしい。付き合って三か月になるけど、いまだにこの整った顔には慣れてないんだ。
堪らず俺は明後日の方を向く。
「優愛だよ。優愛の方がずっとずっときれいだ」
「よろしい♪ 桜の花に勝てるなんて、わたしもなかなかのものね」
お嬢様はご機嫌である。
俺をからかって楽しんでいるのだ。
しかしクリスマスの頃と違って、俺も多少はレベルアップしている。
からかわれてばかりは悔しいので、ちょっと仕返ししてみる。
「なるほどなるほど、俺は理解したよ」
「理解? なにが?」
「優愛は今、桜に嫉妬したんだね?」
「な……!?」
「自分の方が桜より上だって、彼氏にちゃんと言ってほしかったわけだ?」
「ななななななっ!?」
かぁーっと頬が赤くなっていく。
うん、可愛い。
優愛は才色兼備のパーフェクトお嬢様なので、普段、他人からやり込められるということがまずない。
だからたまにこうして俺から図星を突かれると、やたらと狼狽える。
意外に防御力が低いのだ。いや防御というより耐久力かな。
優愛は拗ねて視線を逸らす。
「しょ、しょうがないでしょっ」
頬を赤らめたまま、小声でつぶやく。
「……わたしはいつだってあなたの一番でいたいのよ」
ちらり、とこちらを窺うような視線。
「……いけない?」
……っ。
心拍数がぐっと上がった。
前言撤回してお詫びしたい。
恋人に対して防御力と耐久力が低いのは俺も同じでした。すみません。
「ぜんぜん、いけなくない……です」
こっちも照れながらどうにかそれだけ返した。
「……ふふ、よろしいっ」
ふわりとした笑み。
照れとイタズラっぽさが重なった、魅力的な笑顔だった。
結局、俺はこのお嬢様には敵わない。
どちらともなくまた歩きだす。
指先が触れ合い、自然に手を繋ぎ合った。
もう一方の手にはお互い、黒い筒を持っている。
卒業証書だ。
クリスマスイブに付き合い始めて。
大晦日は年が明けるまで電話をして。
初詣では優愛の晴れ着姿に見惚れて。
毎日、一緒に受験勉強をして。
お揃いのお守りを持って入試に挑んで。
バレンタインはびっくりするほど高級なチョコをもらって。
逆にホワイトデーは不格好な手作りクッキーを返して。
そして、卒業式を迎えた。
今日、俺たちは中学校を卒業した。
一週間後には高校の入学式がある。
でもそれは俺だけ。
優愛は……違う道をいく。
「出発はいつ?」
できるだけ自然に聞こえるように注意して訊いた。
それでも彼女の瞳が陰るのがわかった。
手が離れる。
髪をなびかせ、彼女は少し前を歩き始める。
「……この後、午後の最初の便。あっちの春学期は日本より少し早いから」
「そっか……」
優愛は春から海外のハイスクールに進む。
いわゆる留学だ。
俺も無事に志望校に受かって、例の屋上伝説の高校に通う。
二人は別々の進路をいく。
だから――今日でお別れ。
優愛の家は日本有数の企業・藤崎グループを経営していて、彼女はいずれ跡取りとなる立場だ。
それは誰かに強要されたものじゃない。
優愛自身、トップとなってグループを引っ張っていくことを望んでいる。
留学は必要なことだ。
そして海外のハイスクールを卒業した後も、ひょっとしたらあっちで進学するかもしれないという。それどころか成人後、経験を積むためにそのまま海外の支社に入る可能性もあった。
いつ日本に帰ってくるかはわからない。
何度も何度も話し合いをした。
お互い遠距離でも頑張ろうという思いもあった。
でも最後は、二人でこういう結論を出した。
後悔はない。
これでいいんだ。
「優愛と出会って、俺……少し大人になれた気がする」
「なあに? イヤらしい話?」
「ちーがーう」
「あいたっ」
後ろ頭を軽くチョップ。
このお嬢様はたまに際どい冗談を言う。
将来的によろしくないと思うので、こういう時は俺も心を鬼にしてツッコむようにしていた。
優愛は振り向かない。
でも唇を尖らせてるのがわかった。
「こ、このわたしにそんな気安い攻撃を仕掛けて許されるの、
「だから感謝してるって話をしようとしてたんだってば」
苦笑し、俺は続ける。
「両親のこと、今なら少しは理解できる気がするんだ」
俺の両親はクリスマスイブに離婚し、それから程なくして父親が家から出ていった。
でも月に一度は顔を出し、家族三人で食事をしている。
不思議なことにその時間は今までにないくらい穏やかなものになっている。
たぶん父と母にとって、離れることが最良の選択だったのだろう。
そばにいるだけが相手を大切にする方法じゃない――と言い切れるほど、俺はまだ大人じゃないけど、そういうこともあるんだろうと思えるようになった。
ちょうど今の優愛と俺がそうだから。
「……ごめんね」
ふいに小さなつぶやきが聞こえてきた。
「あのイブの夜、わたし言ったのに……」
目の前の細い肩が震えていた。
「真広のこと、ぜったい幸せにするって言ったのに……っ」
「俺は幸せだったよ」
そっと優愛の肩に触れた。
この震えが止まってくれることを祈って。
「優愛と過ごしたこの三か月が人生で一番幸せだった。もうこんな幸せは一生ないんじゃないかってくらいに」
「……大げさよ」
小さな笑みの気配。
「まあ、このわたしの隣にいたんだから当たり前だけどねっ」
強気に言い、肩の震えが少しだけ収まった。良かった。
優愛が手を伸ばす。
肩に置かれた俺の手に触れる。
「ねえ、真広」
「なに?」
彼女が少しだけ振り向く。
明るい髪の間から笑みの欠片が見えた。
「イヤらしいこと、ちょっとはしておけば良かったね」
「……うん」
ツッコむべきか、ちょっと迷った。
でもやめておいた。珍しく優愛の冗談に乗ってみる。
「本当だね。今、心底後悔してる」
「ふふ、ばーか。真広のえっち」
手の甲で俺の胸をコツンと叩き、優愛は駆けていく。
俺たちの交際はとても健全で、キスどころかハグすらしなかった。
手だけは何度も繋いだけど、触れ合うのはそこまで。
改めて考えると、ちょっと本当に後悔しそうになってしまう。
でもこれでいいんだ。
そばで触れ合うだけが大切にする方法じゃない。
真っ白なままの穢れない彼女と別れること。
それがきっと俺にとっての大切にすることだと思うから。
「ねえ、優愛」
呼びかけると、彼女はゆっくりと足を止めた。
そこは一番大きな桜の下。
花びらの雨が絶え間なく彼女に降り注いでいる。
その背中に俺は伝えた。
「ありがとう。君のこと、好きだった。本当に……好きだった」
あの肩は今も震えているだろうか。
離れてしまって、ここからではもうわからない。
「……わたしもよ。あなたのこと、世界で一番好きだった」
俺たちは理解している。
この気持ちがいつか風化し、やがては錆びついてしまうことを。
永遠なんてない。
恋人のまま遠距離で関係を続けようとしても、きっといつか互いの心はすれ違ってしまう。
だから別れる。
この気持ちを思い出にし、永遠の輝きとして残すために。
それが俺たちの選択だった。
――だけど。
「優愛!」
気づいたら俺は叫んでいた。
花びらの雨が降っている。
彼女を覆い隠す、残酷な天幕のように。
それを振り払うことは俺にはもうできない。
だからせめて、声の限りに想いを叫ぶ。
「もしまた会えたら……っ。いつかどこかでそんな奇跡が起きたら……!」
彼女が「……っ」と振り向く。
宝石のような瞳が涙で濡れていた。
別れることが俺たちの選択だ。
だけど、それだけじゃあまりに淋しい。
だから――。
「何年後でも、何十年後でも、もしまた俺たちが出会うことができたら、その時は――俺と結婚して下さい!!」
「……っ!」
宝石が朝露のような雫を落とした。
優愛の瞳から大粒の涙がこぼれる。
「真広……っ」
彼女はポロポロとこぼれる涙を両手で必死にぬぐう。
そして花びらの舞うなか、満開の花が咲くような笑顔をくれた。
「はい!」
どうしようもなく嬉しそうに頷いて。
「何年先でも、何十年先でも、もしまた会えたら……わたしをお嫁さんにして下さいっ!」
桜の雨が降っていた。
涙の雨も降っていた。
優愛も俺も泣いていた。
だって、ちゃんと分かっていたから。
これは叶うことのない約束だって。
きっと俺たちが出会うことは二度とない。たとえ何万分の一の奇跡が起きたって、その頃の二人はそれぞれの人生を歩み、今とは違う人間になっている。
だからこれは叶うことのない約束だ。
だけど、それでよかった。
景色は降り止まない花びらの薄化粧に彩られて。
卒業式の喧騒はもうはるか遠く。
叶わない約束をお互いの心に刻んだ――この一瞬こそが永遠なのだと、そう思えたから。
「ありがとう、真広」
「元気で、優愛」
こうして。
俺たちは別れた。
もう彼女は振り向かず、未来の躍進を想像させる凛々しさで颯爽と去っていった。
一つの日々が終わりを告げて。
俺の胸には埋まることのない大きな穴が開いた。
この胸の痛みと共に生きていこう。
何年でも、何十年でも。
癒えなくていい。
この痛みがある限り、俺は彼女を忘れずにいられるのだから。
そんなことを思って青空を仰ぎ、今日、俺は中学校を卒業した――。
………………。
…………。
……。
というわけで。
全力の前傾姿勢で優愛と別れた俺なのだけど。
この時はまだ知る由もなかった。
一週間後に、その……どんな気まずいバッタリが待っているかを。
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