第9話

 仕事をしているときは、つとめて考えないようにしていた。学生たちと接していれば、気が紛れる。講義やゼミの間は一切あなたを思い出さないし、集中して本を読む時間には私自身しかこの世に存在しない。

 それなのに、ふと気持ちが切れる瞬間というものはあって困った。研究室の中でカタリと物音がする。たったそれだけのことで集中力が途切れると、脳内にあなたの長い髪と白い顔が浮かび上がる。その髪が純白のシーツの表面に広がっていくのは、どんなに美しい光景だろうか。まぶたを閉じて、うっすらと唇を開いて、細い腕を伸ばして、私を受け入れてくれたら、どんなにか。

 私は分厚い本を乱暴に閉じ、背表紙で自分の頭を叩いた。ごん、と鈍い音がして、額の上に痛みを感じる。目を覚ませ。自分よりもずっと若い女性にうつつを抜かして。いい年をして。いくつだと思っているのか。1957年にこの世に出てきた私は、すでに数年前に還暦を過ぎた。まったくもって、いい年だ。恋をするような年齢ではない。いや、恋はしても構わない。構わないが、倫理的に問題がありはしないか。

 そういえば、あなたの歳はいくつなのだろうか。女性に年齢をたずねることが失礼だと言われて育った私には、もちろんそんなことを聞くことはできなかった。長女の夏子よりも年上であろうことは想像できたが、女の歳はわからない。もしかしたら同じくらいかもしれない。だとしたら、実の娘くらいの女性にうつつを抜かしている私が、ひどく滑稽で哀しく感じた。


 事務室に用を済ませに行ったついでに、自分のメールボックスを覗く。デジタルな時代になっても、なにかと郵便は届く。どうでもいいダイレクトメールや学会関連の郵便物に混じって、淡い桜色の封筒が存在した。誰かと首をかしげながら裏返してみると、「佐竹ゆり」と記されている。

 私は慌てた。一瞬、廊下に立ち尽くしたまま慌てたが、考えてみればあなたは私の勤務先を以前から知っているのだ。このような連絡手段があったかと、息をついて感心した。

 急いで研究室に戻り、ペーパーナイフで丁寧に封を切る。手が震えた。心が、震えた。カサカサと音を立てて開いてみた。封筒と同じ桜色の便箋に渋い紺色のインクで、とてもきれいで几帳面な文字が綴られている。



前略 ごめんくださいませ。


先生にお目にかかれない日々が続きます。毎日がむなしく、切なく、我慢できず、手前勝手に筆を取ってしまいましたこと、深くお詫び申し上げます。愛甲先生のお仕事のご迷惑も考えず、恥ずかしく反省しております。

私ごとではございますが、この度、知人の紹介により新しく職に就くことになりました。先生の大学とは反対方向の××駅からほど近い小さな会社の事務員です。仕事をするのは独身時代以来ですので、約十年ぶりとなります。不安なことばかりです。私には子どももおりませんし、少しずつ自立していきたいと考えておりますので、がんばって働きたいと思います。

このような近況報告を申し上げたいのではなく、もっと書きたいことは沢山あるのです。先生にお目にかかりたいのです。毎日でも、毎晩でも、先生にひとめお目にかかり、先生のぬくもりを感じたくて、心を乱すばかりでございます。

お慕い申し上げております。先生を、心からお慕い申し上げております。お目にかかりたいです。なんとかお時間を頂戴できればと祈っております。

会社の住所をお伝え申し上げますので、お気が向かれましたらお手紙をお送りくださいませ。

お慕い申し上げます。


かしこ


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