第10話

 私たちは、勤め先を使って文通を始めた。あなたの字は達筆で、手紙を開くのが楽しみだった。いや、宛名に私の名前を書いてくれるだけで、私は嬉しかった。古風なふみのやり取りは心がときめく。互いにあまり多くの手紙を交わすと勤め先の誰かに訝しく思われるので、控えめに、とても控えめに文通をした。

 あなたの文字で綴られる愛の言葉は、私の目と脳をこの上なく喜ばせてくれる。読み返しては、胸が高鳴るのを感じていた。あまりにどきどきするので、心臓に疾患があるのかと呆れる。

 その反面、私の恋文はつまらなく、あなたが満足してくれているのか、まったく見当もつかなかった。それでもあなたは返事に「嬉しい」と書いてくれて、野暮な男に気を使わせて申し訳ないと思うのだ。

 恥ずかしながら、初恋だった。

 恋もよくわからずに妻と結婚したけれど、すぐに家族となってしまったので、胸のときめきや疼き、痛みを感じることなどなかった。今は毎日がその繰り返しだ。妻への申し訳なさも、いつの間にか忘れつつある。そのくせ家にいる間は、妻をそれなりにかわいく愛おしく思うこともある。我ながら、わけがわからない。


 その夜は、とても冷えた。また雪が降ってきそうだった。真冬の一番暗い時期だ。私は少し長い時間、いつもの電車に乗っていた。車窓の様子は陰鬱で、まだ夕方と言ってもいい時刻なのに暗闇だった。大学から地元の駅を通り過ぎ、あなたの会社があるはずの駅も乗り越して、さらに10分ほどで終着駅にたどり着く。ほとんど訪れたことのない駅の改札を抜けて、駅前の小さな商店街を歩いた。あなたが指定した喫茶店を探すのには、少しだけ苦心した。

 雑居ビルの古びた階段を上がると、『琥珀こはく』と書かれたドアがある。多少の力を込めてゆっくりと開いてみたら、カランと懐かしいベルの音が鳴った。ヴァイオリンの音色が小さく流れていて、店内を見渡すほんのわずかな時間のうちに、それがバッハの無伴奏ソナタであることに気づく。

 あなたは、店の最も奥の席に座っていた。窓のない、ベージュの壁に囲まれた、店の隅っこの席でうつむいている。そっと近づくと、文庫本を読んでいるらしい。長い髪に隠された色白の顔は、以前に会ったときよりも健康そうに見えた。仕事を始めていい方向へむかっているのだろうかと、ぼんやりと思う。

「ゆりさん」

小さく声をかけると、あなたは顔を上げた。頬は血色がよく、唇もほんのりと赤かった。

「先生、ありがとうございます、ここまで」

「お元気そうだ、お顔の色もいい」

「きっと化粧のせいです」

照れたように首をかしげるあなたの顔を少し観察すると、確かに以前とは表情や色合いが変わった気がする。仕事に行くには、化粧も変えねばならないのか。女性は大変だなと思いながら、私は「おきれいですよ」とつぶやいた。

「そんなこと」

「本心です」

「嬉しい」

 あなたは微笑んで、文庫本をバッグにしまった。育ちのよさそうな若いウェイターがやってきたので、私はこだわりなくコーヒーを注文する。あなたの目の前には、レモンティーが置いてあった。


 薄暗く、しかし清潔感のある上品な店で、私たちは小さな声で語り合った。なにを語ったのか。考えてみれば、語ってはいない。ただ互いを見つめて、ときおり手に触れたりした。

 あなたは美しい。あなたの、なにもかもが。私にとってあなたは天使のようだなと、そんなことを思うばかりだった。


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