第8話
自宅まで送ってほしいと言われ、方角の同じ私は、もちろん一緒に夜道を歩いた。ふらつくあなたの手は、力なく私の腕に助けを求めている。露骨に腕を組むことはできないが、支えくらいにはなるだろう。
本当に、あなたの家族は不在なのか。その弱った、冷え切った身体を、誰が介抱してくれるのか。ひとりぼっちでベッドにもぐりこむのか。
佐竹家の前までは、ほんのわずかな時間でたどり着く。小さな門の前で、私は心配な気持ちを抱えつつ言った。
「なにもできませんが、どうかあたたかくしてお休みになってください」
あなたは長い髪に静かに触れ、顔を隠していた髪を指で耳にかけた。それだけで、少しだけ表情が明るく見える。
かちゃん、と音を立てて、門を開く。おやすみなさいと囁いて、私はあなたを見送ろうとした。その少しの隙をついて、手を取って引っ張られる。佐竹家の門を入り、塀や植木の影に導かれた。
「ゆりさん、ちょっと」
「来てください、少しだけだから」
誰にも見えない死角になった場所は暗く、あなたの表情もよく見えない。見えないのに、見える気がする。あなたの目は、私を見つめていた。冷たい指が伸びてきて、私の頬に触れる。ひんやりとして、むしろ心地よかった。
「今だけでいいんです。抱きしめて」
「こんなところで」
「家には誰もいませんから」
誰もいないあなたの家。だが普段はいるはずだ。罪悪感や背徳感の入り混じった心持ちで、それでも誘惑には太刀打ちすることすらできず、私は腕を伸ばしてあなたを抱きしめる。私の熱い体温が、冷え切ったあなたの肌をあたためられるようにと。
なぜ、あなたは私などを好いているのか。私はあなたに一目惚れしてしまった、それだけだ。ならば、あなたは。その理由が聞きたくて、なのに聞けなくて、けれども腕の中の柔らかな身体が愛しくて。言葉など意味がないことを知った。
「あなたが、好きだ」
そうだ、好きだ。あなたが。目の前の、私の胸の中のあなたが。ゆりさん、あなたが。とても、欲しい。
好きだと言ってしまって、後悔する。気持ちを伝えてどうなるというのか。行き着く先などすぐ目の前に。多くの人を傷つける結果しか、私には想像できない。
「好きです、先生。あの講義を聞いて、一目見て」
「そう、でしたか」
「忘れられないんです、あのときの美しい言葉と、美しい声が。お姿もお美しくて」
「恥ずかしいですよ」
「でも、止まらないんです、気持ちが」
八重桜の唇は、寒さで色を失っていた。誰もいない、誰も通らない安全地帯。私はどうしようもなく我慢ができなくて、あなたの唇を奪った。
無粋な口づけしかできず、テクニックなどわからない。それでもいい。あなたの唇が欲しかった。あなたの唇がゆるゆると濡れて色づいていくさまが、あまりに扇情的で、私は抱きしめる腕の力を強くした。
「先生、嬉しい」
「ゆりさん、あなたが欲しかった」
「もっと奪ってください」
「だめだ、もう、これ以上は」
ふんわりと柔らかな長い髪の毛を持ち、そっとキスをした。
いつまでも、いつまでも離れられない。あなたが愛おしくて、そしてなにより、心も身体も欲しくて。だが、流されてしまったら、すべてが壊れてしまう。もう壊れかけているのかもしれないのだけど。
最後に深く口づけて、私は逃げるように立ち去った。
自宅に帰るのは、とてもつらかった。言葉にならない妻への謝罪を心の中に積み重ねて、あなたの唇の熱さも柔さも忘れたくないと、記憶の中に刻みつけた。
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