第7話

 先生にお会いしたくて、気が狂いそうでした。


 これがあなたの最初の囁きだった。両手で顔を覆いながら、小声で歌うように言う。その囁きは私の耳にはあまりにも甘くて、気が遠くなりそうで、目を閉じて細くため息をついた。私も、あなたに会いたかった。気が狂いそうだった。そう言いたくなるのを抑えて、私はぐっと黙った。

「すみません、先生。本当に好きなんです」

うつむいたままで、あなたは歌うように囁き続ける。

「どうしてこんなに好きなのか、わからないんです」

 言葉はすべて、私への愛の告白で。隣にいるあなたと触れ合った身体の半分があたたかい。ふいに北風が吹き抜けた。私はあなたを風から守るために、急いで抱き寄せた。抱き寄せてしまってから、しまったと思う。一度触れてしまうと、離れられなくなってしまうから。


 夜も更けてきている。このような時刻に外にいてはいけない。私はいつまでもベンチにいたい気持ちを押し殺して言った。

「帰りましょう、ご家族が心配なさいますよ」

「大丈夫です」

「大丈夫ではないでしょう」

「主人は出張です。主人の母は旅行に行ってます」

調子よく信じていい情報なのかはわからない。恐らくだが、恋をすれば人間は無謀になるのだろう。現に今、私は、あなたを連れてここから逃げてしまいたいと思っている。自宅で待つ妻のことなど捨て置いて。


 抱き寄せていた腕を離す。あなたはまだ、うつむいている。

「ゆりさん、お顔を見せてください」

ゆっくりと顔を上げて、私をじっと見つめてくれるあなたは、ひどくやつれていると思われた。

「ちゃんと、食事をしてますか」

「ええ、してる、つもりです」

「お疲れのようだ」

ほんの少しだけ、微笑みを浮かべる。薄暗いホームの照明に照らされて、あなたの顔色はあまりにも青白い。

「大丈夫です、ご心配をおかけしてごめんなさい」

「心配くらいさせてください。なにか食べに行きますか」

あなたは目を閉じて、首を横に振る。

「ここで先生と一緒にいられれば、それでいいんです」

どことなく違和感を覚え、声を低める。

「私が帰るのを待っていたんですか」

「はい、ごめんなさい」

思わず彼女の手を握ってみたら、びっくりするほど冷たかった。なんということだ。風邪をひいてしまう。

「だめだ、帰ろう」

「いやです」

「いいや、いけません。私のせいだ」

ベンチから立ち上がりリュックを背負って、あなたの両肩を強く持って立たせる。相変わらず顔色はよくなく、身体の力強さもまったくない。立ち上がったまま、あなたの身体はふらりと私の胸に落ちてきた。

「ゆりさん」

「ごめんなさい、ちょっとふらついて」

「ゆりさん、大丈夫ですか。いつからここに」

「しばらく、このままで、お願い」

「でも」

「お願いです」

 明るい光が遠くから迫り来て、あっという間にホームに滑り込む。がら空きの電車からは、誰も降りてはこなかった。

 私は言われるままに、あなたの身体を強く抱きしめた。冷え切った身体がかわいそうで、愛おしくて。髪を撫でて、頬に触れる。頬に頬を寄せて、あたためる。風が強く冷たい。冷えた頬に口づけて、両手で小さな顔を包んだ。

「あったかい、です」

目を閉じて薄く微笑むあなたは、まるでこの世から消えてしまいそうで、私はひどく不安になった。


 どうすればいいのか。こんなにもあなたに焦がれている。あなたもまた、私を求めている。それがわかるから、どうすればいいのかわからない。

 このまま、あなたを連れ去りたい。誰も知らない、遠くまで。


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