第6話

 研究室に、キーボードを叩く音が響く。いくらか訪れていた学生たちの波が引いていき、ひとりぼっちになると、あなたのことを思い出す。あの雪の夜から、数日が経った。瞬間的に、触れ合った体温がよみがえる。私は思わず自分の唇を押さえた。

「なんということを」

 なんということをしてしまったのだろうか。妻子があり孫までいる初老の男が、まだ若い人妻と夜道で抱き合ってキスをすることは、普通のことだろうか。これは日常か。いや、そんなはずはない。私のしたことは、れっきとした不貞行為である。

 パソコンの前で、私は頭を抱えた。私には長年連れ添った妻がいる。娘も二人いて、上の子のところに孫が産まれたばかり。世に言う「おじいちゃん」だ。まだ還暦を少し過ぎただけではあるが、立派なおじいさんだ。美しい人妻との不倫を楽しむような遊び人ではない。不器用で、融通がきかず、得意技は本を読むのが速いことだけ。


 なぜ、恋など、してしまったのだろう。いや、そもそもこれは、恋なのか。

「恋、なのか」

 ひとりごとをつぶやいて、頭を抱えたまま百周めぐって考えても、恋だとしか思えない。

 きっと、あの美しい横顔を、この目で見てしまったから。透明な光をたたえたような瞳のガラス玉を、発見してしまったから。八重桜の花びらみたいに柔らかく甘美な唇に触れて、その花びらがゆっくりと濡れていくのを味わってしまったから。

「なんということだ」

少し大きな声が出てしまった。誰かに聞かれていないかと、顔を上げて周囲を見ても、この部屋には私ひとりしかいない。ほっと胸をなで下ろす。


 あなたに、会いたかった。今すぐ抱きしめたい。そんなことを考えながら出た教授会はつまらなく、なにも頭に入ってはこなかった。どうしてこのような意味のない会議を毎月繰り返すのか。腹立たしくなってくる。

 あなたに、会いたい。どうすれば会えるのかもわからない。とても近くに住んでいるのに、連絡の取りようがない。手紙は送れないし、メールアドレスも知らない。携帯の番号ですら、交換してしない。私自身が拒否したからだ。連絡先など交わすべきではないと。今さらながら後悔しているのは、他ならぬ私だ。腹立たしいのは教授会ではなく、自分自身に対してだった。

 地元の駅に降り立つと、駅前に、帰路に、あなたを探してしまう。それが私の日課になった。天気の悪い日は、薄いピンクの傘がないか見渡した。よく似た傘を見かけると、思わず追いかけたくなった。


 その夜は、仕事が立て込んで、帰りがかなり遅くなった。時計を確認すると、23時に近づいている。ため息交じりで電車を降りて、ホームをゆっくり歩いていると、少し離れたベンチにあなたが座っていた。もう、見間違えることもなくなってしまった。たった二度、会っただけなのに。遠目で見ても、あなただとわかってしまう。

 立ち止まっている存在に気づいたあなたは、私のほうに顔を向けた。青白く、不安げな表情が気になる。自然に足が速くなる。ベンチにたどり着くまで、私の内部は躍るような心と暗くなっていく心とが戦っていた。

 リュックを下ろし、あなたの隣に腰かける。私は黙っていた。あなたの言葉を、待っていた。


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