第5話

 腕の中でじっとしているあなたは、とてもあたたかかった。私の脇にそっと添えられた手の熱が、コートごしに伝わってくる。こんなことをしていて、いいわけがない。前方に背後に、互いの家が建っている。それなのに私は、あなたを離すことができなかった。

「先生」

小さな声で囁かれ、はっとする。嫌がっているのだろうか。

「痛い、です」

気づけば、ありったけの力を込めて、あなたを抱きしめていた。私は少しずつ腕の力を抜いて、細い身体を解放する。

「ごめんなさい、つい」

「いえ、いいんです」

薄いピンクの傘が、足元に転がっている。誰かが通らないか、四つ角の向こうから人が来ないか、私はひやりとした。

「いいんです、本当に」

あなたは私の肩に白い顔を寄せてくる。力を入れすぎないように、気をつけて抱き寄せた。長い髪を静かに撫でると、小さな頭がぴくりと動いた。柔らかそうな頬に触れたい気持ちを、猛烈に我慢した。

 泣いているのか、それとも。私にはあなたの顔は見えなかった。ただ静かに降り積もる雪が、私たちを隠してくれているように感じる。


 全身が心臓になったみたいに、自らの耳に鼓動の音が聞こえてくるようだ。なにも言うことができない。女性を前に「言葉を失う」という、生まれて初めて体験することに、私は戸惑っている。自分にとっての「女性」は、目の前のあなたしか存在しない。妻はどこへ行ったのか、今そこの四つ角を曲がって妻が歩いてきたらどうするのか、そんなことはなにも考えられなかった。

 私はゆっくりと身体を離し、ほんの少しだけ仰向いたあなたの前髪に、そっと口づけをした。切りそろえた艶のある前髪の向こうに、額の感触が確かにあった。

「いきなりこんなことをして、申し訳ない」

首を横に振って、あなたは私をじっと見つめていた。

「誰かに見られてはいけない。さ、早く帰りなさい」

かがんでピンクの傘を拾い上げる。小さな手に握らせようとしても、また首を横に振る。

「いやです。先生と一緒にいたい」

「なにを言ってるんですか」

「今、抱きしめてキスしてくださったじゃないですか」

そのとおりだったから、返答できず困った。

「先生のことが、好きなんです」

「二回ほど話しただけでしょう」

「私は講義も聞きました」

「そんなことは」

「美しい講義でした。好きになってはいけませんか」

 うまく言葉を返すことができない。見つからない。だが、私のほうが遥かに大人なのだから、私自身が忍耐するべきなのだ。

「いや、あの、申し訳ないことを」

「どうして謝るのですか」

「ごめんなさい、ゆりさんを迷わせるようなことをしてしまった」

「私は迷っていません」

「だめですよ。さあ、帰りなさい」

 私は改めて傘を持ち、あなたの手に無理やり握らせた。

「先生」

「帰りなさい」

 泣きそうな表情で立ち尽くすあなたは、まるで迷子になった小さな子どものようで、私の胸は痛んだ。


 恋に惹かれあう人たちのことが、私にはわからなかった。わからなかったのに、わかるときは一瞬なのだ。頭で理解するものでもなく、分析するものでもなく、それは本能のようなものだった。

 薄く開かれたあなたの唇が柔らかそうで、頭の中では“早く帰りなさい”と叫んでいるのに、私の右手の指先は、あなたの頬に触れ、そのまま唇に触っていた。

 目を閉じたあなたのまつ毛は、濡れたように光っていた。


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