第4話
仕事を終えて研究室のカーテンを閉めようと窓に近づいた。完成してから一度も修繕されていない建物は古く、かけられたカーテンも何十年使っているのかわからないほどに古びていた。埃っぽいカーテンに手をかけると、いつの間にか真っ暗になっていた外は、見事な白銀に変化している。ふわふわと空から降りてくる雪のかけらは、ゆったりと世界を閉じ込めようとしていた。
「雪になったか」
ぼそりとつぶやき、カーテンを静かに閉じる。朝早く自宅を出たときはいい天気だったのに、夜になってこんなに急激に悪化するとは思わなかった。
傘もなく、雪の中を少しずつ歩き、電車に乗り込んで家へ向かう。雪は、好きではない。むしろ嫌いだった。私の命を脅かすもののような気がしていた。憂鬱な気分になり、生きているのがいやになる。
地元の駅に到着しても、雪の様子はあまり変わらなかった。電車でたったの15分だから、当然なのだが。陰鬱な面持ちで自動改札を通り抜ける。カードを当てたときの電子音ですら耳に悪い刺激となって届く。とても疲れてしまって、駅の端の大きな柱に寄りかかって息をついた。
スマホを取り出して、着信がないかを確かめる。なにもないのでそのままポケットにしまった。黒い空からは相変わらず雪が落ちてきている。
憂鬱だ。とても。
柱に寄りかかりながら立ち続けていても仕方ないので、私は仕方なく身体をまっすぐに起こした。柱の影から一歩出た瞬間、薄いピンクの傘が目の前を横切る。
まさか。
私は慌ててその傘を追いかけた。ゆったりとしたスピードなので、すぐに追いつく。傘に隠された顔を確かめることもできず、私は小さな声で囁くようにつぶやいた。
「ゆりさん」
ピンクの傘はすっと静かにそこにとどまる。ピンクの色の上に、白い雪の華がするすると触れて落ちていった。
「まあ、愛甲先生」
「お久しぶりです、ゆりさん」
「お久しぶりでございます。あいにくのお天気で」
あなたに会えた。ようやく会えた。私の心は、また熱くたぎり始める。このマグマのように噴き出すものは、いったいなんなのだろう。あなたに会えたときだけ、私の身内に起こることなのだ。妻にだって、こんな気持ちは感じたことはなかった。
「先生、今日も傘をお忘れですか?」
薄く微笑んで、あなたはピンクの傘をさしかけてくれる。私は今度はためらうことなく、彼女の手から傘を取り上げた。
「失礼ながら、相合傘で帰りましょうか」
フランクに語りかけると、あなたは嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
「先生と相合傘とは、光栄です」
ほんの短い道のりは、私にとって至福の時間だった。なにげない、大したことのない、小さな話題を少しずつ交換する。町中の人々の目が気にならないかと言われれば、嘘になるかもしれない。いや、大丈夫だ。これはただのご近所さんの、偶然の帰り道。
「いつも雪の日に、お目にかかりますね」
感じたことを、そのまま口にする。
「こんな偶然があるなら、雪も悪くないな」
ふと失言だったかと怖くなったが、あなたはなにも気にしていない様子で、ふふ、と笑った。
「私も先生にお目にかかれて嬉しいです」
「それはありがたい。ありがとうございます」
「こちらこそです。お目にかかれない日は、寂しかったんですよ」
胸がどくんと波立つ。私の気持ちなど、あなたにはお見通しなのか。
「う、嬉しいですね。私もまた、ゆりさんとお目にかかれたらと思ってましたよ」
薄く淡いピンクの傘の下で、私たちは無口な会話を交わした。無口で雄弁ならばよかったのに、無口で不器用なままで。私は口下手で、うまいことなど言えない。言葉で女性を喜ばせたりすることなど、できはしないのだ。
ゆりさん。雪の精のようなあなた。今夜も雪の中に現れた。こんな恵みがあるのなら、陰鬱な雪もまた許したい。
佐竹家の前で傘を渡し、簡単におやすみの挨拶して一礼する。次にいつ会えるのか。あなたに背を向けて歩いて、やはり耐えられず振り向いてしまう。あなたはまだ、家の前にいて、私をじっと見送ってくれていた。
小さく手を上げて、再び家路へと向かう。あの四つ角を曲がれば、すぐに我が家だ。
静かな銀世界の中に、背後から駆けてくる足音が聞こえてきた。振り向く前に、腕を掴まれる。驚いて見ると、あなたは大きな目を見開いて、私を見つめていた。言葉が出ない。言葉は出ないが、私は考えるよりも前に、あなたを引き寄せ抱きしめていた。
ゆりさん。私の雪の精。鼻先にあなたの髪がある。甘いシャンプーの香りに、気が遠くなる。道端で恋に落ちるなんて、馬鹿げている。馬鹿げているはずなのに。
あなたを思う気持ちが、川の氾濫のように溢れかえっていた。愛おしい。どうしてくれよう。
どうしてくれよう。入口も出口もないこの暗く寒い洞窟に、二人きりでこもることができれば、どんなに嬉しいことか。
あなたの細い身体を、離せない。
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