第3話

 鏡の前でひげを剃りながら、自分の老いを感じざるを得ない。肌はしわが増え、頬やあご、首筋のあたりはたるんでいる。昔はなかった小さなあざもあるし、うっかりひげ剃りで傷つけたりすると、その傷はなかなか治らない。かさぶたがすっかりきれいになるまでこんなにも時間がかかることを、若者は誰も知らないしわからないだろう。年というものは重ねてみないと、絶対に理解できないのだ。

「お父さん、夏子なつこが持ってきたお菓子、多すぎるから少し持っていかない?」

妻が鏡の向こうから話しかけてくる。小さく写る顔は、若い頃とはすっかり変わった。造作は変わらないが、年齢は隠せない。

「いや、いいよ。茶菓子なら学生たちが持ってくる」

「でもお父さんと私だけじゃ、食べきれないわよ」

「そうか」

有無をいわせず小さな缶が押しつけられた。

「ヨックモックか、新品なら事務室で女の子に渡そう」

「どっちでもいいけど。その缶だけ開けなかったから、もったいないでしょ」

「わかった、持っていくよ」


 玄関先で靴をはいて、黒いリュックを背負い「じゃあ、行ってきます」とつぶやく。「行ってらっしゃい」と返ってくる。妻の美智子みちこは若い頃から美しかった。なぜ私のような堅物と結婚する気になったのか、まったくわからない。恋人になりたい男は多く存在したようだったが。彼女はなぜだか知らないが、「愛甲さんと結婚できなかったらもう独身でいる」と、私に面と向かって言い切った。女性の心の機微などわからぬ私には、十分なプロポーズだった。


 駅に向かってゆっくりと歩く。佐竹家が近づいてくる。もしや、ゆりさんが玄関から出てはこないかと、毎日のように期待しているのだが、あれきり町の中で会ったことはなかった。雪の日の夕暮れどきのいたずらか、本当に二度と会うことはなかった。佐竹家の表札は変わらずあったし、引っ越しが行なわれた様子もないので、この家に住んでいることは間違いないのだろうが。


 どんなに遅い歩調で進んでも、物音ひとつしてこなかった。雪の日に出会ってから、もう二週間が経っていた。「もう」なのか「まだ」なのか、私には基準が判然としない。ただはっきりしているのは、私の頭の中は、ゆりさんでいっぱいになっているということだった。あの人のあの声で、私に話しかけてほしい。あのかわいらしい声で、笑ってほしい。雪の散歩道を、ともに歩きたい。雪の結晶を、ともに観察したい。私の知る美しいものを、見せてあげたい。


 これではまるで、恋ではないか。いい年をして。恥ずかしくて、情けなくなる。妻がいる身だというのに。長年にわたり私を支えてくれている妻に、申し訳が立たないではないか。

 私は力強く拳を握り込み、駅の自動改札を通り抜けた。


 会いたい。あなたに。ゆりさん。あなたの透明な美しさに、指先で触れたい。思えば思うほど、心が熱くなってくる。許されない気持ちなのに、それはひどく快い感覚だった。

 彼女のことを、あなたのことを思わない日は、一日として、ないのだ。


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