第2話
あなたの長い髪はとても艶があり、特別な櫛でとかしたかのようだった。さっぱりと切りそろえた前髪が、小さな顔を幼く見せている。絵に描いてみたいと思わせる美しさで、目の前に立つと言葉を忘れた。
「あの、お加減は、大丈夫ですか」
歩み寄り、薄いピンクの傘をそっと私にさしかけてくれる。そういえば私は傘を持っていなかった。すぐにやむかと思われた雪は存外にも降り続き、ふと見ると私の肩の上は少し白くなっている。
「いや、申し訳ないことを。ありがとうございます、ご心配をおかけしました」
「お顔の色があまりよくないようですが」
「もう年ですからね。いつもこんな顔色なんですよ」
私の顔をじっとうかがい見るあなたはまるで小さな娘のようだ。よくよく観察すると、それなりに年を重ねた様子も見て取れる。先頃子どもが産まれた30歳の長女に比べたら、はるかに年上に感じられた。白髪やしわこそないが、女性の年齢はわからないものだ。意外と中年に近いのかもしれない。
うまく言葉が出てこない。ここで丁重に礼を言って立ち去れば、すべてはこの場限りで終わってしまう。喉の奥から、苦しく声がもれる。
「あの」
小首をかしげるあなたの瞳は深い焦げ茶色で、そのガラスに私の顔が写っているのがわかるほどだ。
「先ほどあなたの傘の後ろ姿を拝見しまして。
「あら、見られてましたか」
「その傘の色が印象的で。いや、失礼ながら、門を入るお姿が見えました。私もこの向こうに自宅があるものですから」
薄く微笑んだあなたの儚い美しさは、もうたとえようもなかった。私は思わず口元を拳で隠す。少しでも動いていないと、自分自身がなにをするかわからなかった。
「小山さんのおうちには、町内会の届けものをしただけです。私はまた別の家のものですよ」
「さようでしたか、それは失礼を」
「いえ、とんでもない。私はこの向こうが自宅です」
白く細い人差し指がさし示す方向は、私の家と同じだった。私の心は、驚くほどに高鳴っている。たまたま同じ方角だったというだけのことなのに。
相合傘は遠慮したが雪に濡れるのはよくないと、あなたは私に傘をさしかけることをやめようとはしなかった。申し訳なく感じたので、私はあなたから傘を取り上げてさした。私のほうが背が高いのだから。
「同じ町内でも、どんなかたがお住まいなのか、まったくわからないものですね」
名前をたずねるの気が引けて、私は無難な軽口を叩いた。
「ごめんなさい、私、先生がご近所だって存じ上げてました」
先生という響きに、どきりとする。
「え、私のことをご存知でしたか」
「はい。大学の公開講座に参加したことがあります」
「これはお恥ずかしい、私の講義をお聞きになりましたか」
「はい、去年の夏休みの公開講座に、一度だけ」
「参りましたね、こういうのを若者言葉で『身バレ』とでも言うのですかね」
「そうかもしれませんね。先生が駅前の本屋さんで立ち読みしてらっしゃるのを拝見して、ご近所かなって思ったんです」
「本屋の立ち読みだけで?」
「隣のスーパーの袋をさげてらっしゃったから。私も驚きました」
「悪いことはできないものだな」
苦笑するしか、なかった。同じ町どころか、私は以前からあなたの視界に入っていたなんて。あなたは鈴がコロコロと鳴るかのようなかわいらしい声で笑っている。私の心のうちの泡立ちなど、知らないくせに。
小ぶりな建売住宅の前で、立ち止まる。ここがあなたの家なのか。小さな小さな、かわいい家。私は無粋にも、屋根まで見上げて表札を見つめてしまう。
「
「はい、佐竹ゆりと申します」
「ゆりさんは漢字でどうお書きになるのですか」
「ひらがなで、ゆりです」
「かわいらしいお名前ですね。私は
「存じ上げております、もちろん、出席番号が必ず一番だったんですよね」
「そんなことまでご記憶でしたか」
出席番号のくだりは私が学生たちへの自己紹介で毎年使うので、公開講座でも使っていた。「あいこう」という苗字より前の出席番号は、いまだかつて出会ったことはないのだ。
「こちらにご主人様とお住まいで?」
「主人と主人の母と三人で」
「おや、お姑様と」
さぞや気苦労がたえないだろうと想像する。うつむいて少しだけ微笑んだあなたの透き通った白さを、私は忘れないだろう。
小さな家の小さな門の前で、私たちは別れた。玄関を入るよう促したが、あなたは私の後ろ姿を見送ってくれた。四つ角を曲がるときに一度だけ振り向いたら、小さく手をふってくれているのが見えた。
あなたは私の日常に、滑るように入り込んできた雪の精みたいな気がする。ゆり、さん。どんな人なのだろう。どんな暮らしなのだろう。あなたに、会いたい。今、さよならをしたばかりなのに。会いたい。
いい年をしてなにをしているのだ。私は歯を食いしばり、自宅の玄関のドアを開いた。
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