雪の華
鹿島 茜
第1話
薄いピンクの傘をかたむけて灰色の空を見上げると、ひらひらと雪の結晶が舞い降りてきていた。大きな目でその雪を見て、小さな手をそっと差し出した。雪の粒はちらりと光って、その指先に落ちて溶ける。落ちては溶け、溶けては降りてくる。すうっと高い鼻筋の横顔は、なにも言わずに雪の出どころである灰色の雲を見つめていた。
私はそんなあなたの姿を、離れた場所から見つめている。通りすがりの誰だかわからないあなたは、再び傘を持ち直して歩き始める。あとを追いたくなるほどに美しい人だった。昔のフォークソングに、雪の夜あなたのあとをついていきたかった、という歌があった。頭の中を、懐かしい、今の人は知らない旋律が巡っていく。道端で恋に落ちるなんて、馬鹿げている。家に帰れば20年以上連れそう妻がいて、週末には娘が産まれたばかりの孫とともにやってくる。
結婚していたら恋をしてはいけないとか、浮気がどうのとか、不倫がなんだとか、ゴシップはなにかと取り沙汰される。私は恋に疎い男だった。妻がいてくれれば、それで満足だった。妻がどう感じているのかわからないが、私にはもったいない妻だ。愛しているし、感謝している。願わくば、妻もそう思っていてくれればと考えてばかりいる。
気づけば私は、ピンクの傘のあとを追って、少し距離を置いて歩いていた。あなたはどこに住んでいるのだろう。どんな人と暮らしているのだろう。このまま追い続けたら、怪しい人物として捕まってしまう。怪しまれる恐怖と戦いながら、それでも私の足は止まらなかった。
あなたはあっけなく立ち止まり、ピンクの傘をおろして閉じた。そして大きな家の門をくぐっていく。とても広い家で、門から玄関まで何メートルもある大邸宅だ。この町の中で有名な地主の自宅だった。私は玄関ドアへ向かうあなたを横目に、ゆっくりとその家を通り過ぎる。立ち止まるわけにはいかない。門の前に貼られたSECOMのシールがおっかない。このままさらに町の奥まで歩けば、我が家がある。なにごともなかったかのように、私は歩いた。
雪は降り続いている。積もるほどの雪ではないだろう。雪が降らない土地に生まれ育った私には、雪は美しくもあり怖くもある。静かで、そして死の恐怖に包まれる。病で死にかけたときの静けさと酷似しているのだ。雪は、死の世界につながる。
あなたはあの家の主の妻だろうか。それとも、娘だろうか。それとも、客か。それとも。考えてもどうにもならないことなのに、曇天を仰ぎ見たきれいな横顔が忘れられない。今まで会ったこともないような、清らかで純真な横顔だった。薄いピンクの傘が、天女の羽衣みたいで、まぼろしを見たかのごとく、私の心はしばし目眩を起こした。
立ち止まり、思わずしゃがみ込む。年のせいか。急にくらくらとする。病院からの帰り道に倒れるとは、なんとも情けない。
「大丈夫ですか?」
若い女性の声が降ってくる。恥ずかしいと思い、静かに立ち上がる。「ご無理なさらないほうが」とおずおずとした声がかかる。私は目を開いて、彼女のほうを向いた。
そこには、あなたがいた。薄いピンクの傘をさして。不安そうに、私を見つめている。くっきりとした目鼻立ちの、思ったより童顔の、とてもかわいらしい女性だった。ふわりとした長い髪が、柔らかく胸を隠している。雪かと思うほどの白く透き通った肌をしていた。
私は、自分の年齢を忘れた。まだ若かった頃の熱い気持ちが湧き上がる。だからといって、なにをどうすればいいのかもわからない。簡単に礼を述べてその場から歩き始めること以外に。
もう一度、あなたに会えるだろうか。抑えきることのできそうもないこの気持ちを、伝えることなどできないのに。
立ち止まる。振り返る。そこにピンクの傘をさしたあなたがいる。私は。
わたし、は。
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