『甲州街道の胡麻』

ほてー。

帰路



遅めのランチを済ませて、幸せのパンケーキに立ち寄って、それからどちらかが提案するでもなく、ただ自然と映画を観る流れになって、淡いラブロマンスの洗練を受けて、新宿バルト9から駅へ向かうまでのほんの数百メートルで、僕は告白の決意を胸に刻んだ。

ビルの合間を縫って吹きつける12月の寒風の乾いた香りが、僕の鼻についた。


「寒いね。2℃って書いてたよ」


「本当に寒いね。私ね、背中にカイロを4枚も貼ってるんだ」


「それじゃあ、おばあちゃんだよ」


「おばあちゃんじゃないよお」


ふふっ、と微笑む僕と彼女は、真白なミストを吐き出した。本当に、真っ白なミストである。それに、彼女のミストには、どこか高貴で上品な雰囲気がある。僕のように、どっと吐き出すのではなくて、華奢で小さな唇の合間から、か弱くもはっきりと、真っ白なミストが現れる。僕の吐き出すミストの場合は、ゴジラの音楽を連想してしまうのだけれど、彼女の場合には、真っ白な衣を身に纏った女神が、樹海の泉に現れるような、神秘的で柔和のあるミストを吐き出すのである。


「ほら見てよ、月が綺麗だよ」


変に意気込んでも硬くなってしまうので、本当に自然に、むしろ切り出されるべくして切り出された話題のような口調で、僕は言い放った。

冬の澄んだ空に浮かぶ黄金色の月は、明る過ぎることはなく、新宿の人工的な電灯達を静かに見守って___否、自身の存在感を薄めて、ひっそりと身を隠しているように思えた。だからわざわざ見上げなければその月光には気が付かないし、仮に何かの拍子でそれが目に入ったとしても、特に違和感なくその存在を認識できる。


「確かに、綺麗だね。お空に雲ひとつないから尚更……」


「……夏目漱石が」


乾いた喉にひとつ、唾を呑んだ。そのタイミングが不自然だったために、彼女は奇怪な眼差しを僕に寄越す。僕はもうひとつ、唾を呑まざるを得なかった。

夜の新宿は、高層ビルに迫られているようで、厭に狭く感じてしまう。その居心地の悪さに加えて、彼女が話の続きを催促しているような気がして、押し潰されそうな逼迫感に、目眩がした。

この沈黙が、どうやら永遠であるような感覚を抱いた。彼女の方は分からない。しかし少なくとも、僕の中では、時が止まっている。歩を止めてしまい、脳の活動も停止し、心臓も鼓動を打つのを中断している。地を感じず、浮いているような感覚、死んでいるような錯覚。夜の新宿でこの現象に陥っているのは、僕だけ。僕と、月だけ。


「夏目漱石が……?」


完全なる無意識の、無気力の、もはや無重力の世界で、僕の心は何光年も離れた星からの遠隔操作で決定されているかのような、そんな奇妙な体感である。


「夏目漱石が、”i love you” を ”月が綺麗ですね” と訳したのは、別に英語を日本語へ変換したわけではなくて」


目を丸めて、なにか珍しそうなものを見るような彼女の面持ちを確認して、僕は続けた。


「恋人同士なら、何を言ってもそれは愛情表現になり得ることを彼の生徒に示したかっただけ、って言われてる」


国道20号線沿いのJR新宿駅の灯りが見えた。広い車道の向こう側には、ストリートミュージシャンを囲んだ人集りがある。喧騒の中で、青年の薄ら高くて、柔らかい歌声が目立っている。桑田佳祐の白い恋人達を熱唱していた。


「それを現代風に、使い方を改めて、そうだな、例えば愛の告白、付き合いの申し出として代用してみるのはどうかな。ロマンチックだと思わない?」


「仮にそうしたとして、どうお返事すればいいのかな」


「有名なのは、二葉亭四迷の ”死んでもいいわ” じゃあないかな。夏目漱石とセットで使われることが多いよ」


「どうして ”死んでもいいわ” なの」


「二葉亭四迷は、海外の小説で男性がアプローチをして、女性が ”yours” つまり、”あなたに委ねます” と応えたシーンを ”死んでもいいわ” と訳したんだ」


合点がいったように、彼女は大きく頷いた。

僕は彼女から目を逸らしながら、空を眺めた。


「ねえ、見て、月が綺麗だよ」


身の丈に合わない気障な台詞に、自分でも頬と耳が熱くなるのを感じた。身体の芯から震え上がりそうな衝動を、歯を食いしばってなんとか抑制した。



「__私、




さて、この予期せぬ返答、あるいは告白に、天変地異の衝撃を真っ先に受けたのは、青年ではなく、真暗闇で堂々と光を照らす、あの黄金色の月であった。

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『甲州街道の胡麻』 ほてー。 @hote-

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