第40話 『異教の者』

 クラウスと飲み終えた帰り、復興が進む首都を見て回っていたジョイスは、悲鳴をあげて走る20歳くらいの若い娘に助けを求められた。

 給仕と思われる服装の彼女はジョイスを見かけて、軍服から兵士だと見ると彼の背中に隠れる。

 そしてすぐに、ガラの悪い酔っぱらいの男が3人、娘を追って現れた。

「どけよ、兵隊! 俺達は後ろの女に用があるんだ!」

 事情はよく分からないが、ここでどいてはいけない状況だとジョイスはすぐに理解した。

「悪いことは言わん。家に帰って頭を冷やせ」

 女性を庇うように、男達の前に仁王立つジョイス。

「構わねぇ、兵隊ごとやっちまえ!」

 街のチンピラと思しき男3人は粗雑な作りのナイフを抜き、ジョイスに襲いかかった。

 安物とは言え、刃物は刃物。

 斬りつけられてはただでは済まない――そんなものは、並の兵士相手の話だ。

 ジョイスの太腕が、3人分のナイフを一度に受け止める。

 瞬時に闘気を練って硬質化させた彼の腕は、鋼鉄の盾とほぼ同等の硬さを誇り、チンピラのナイフ程度では文字通りに歯が立たなかった。

「な、何だこいつ?! ただの兵隊じゃないのか?!」

 異常な手応えに酔いが覚めたのか、急に青ざめるチンピラ達。

 彼らに追われていた娘に背中から見守られる中、ジョイスは言い放つ。

「少し、痛い目を見てもらおうか」

 ジョイスの”仕置き”は至ってシンプルだった。

 一人ずつ、顔面に鉄拳を一発ずつ。

 一発で相手は鼻血を流しながら気絶したため、それ以上は不要だった。

 チンピラ3人が全てのびたのを確認すると、ジョイスは背に庇っていた娘に向き直る。

「さて、もう大丈夫ですぞ」

 あまりに呆気ない幕引きに、娘は驚きながらも礼を言った。

「ありがとうございます、兵隊さん」

 チンピラもそうだが、一般人に軍隊の階級章など見分けがつくはずもない。

 彼女も、ジョイスを将軍だとは知らずに話していた。

「私はカタリナと言います。近くの宿屋で給仕をしているんですが……うっかり、酔っ払ったお客さんに水をこぼしてしまって」

 そう言いながら、彼女は癖なのか不安そうに三編みにした金髪を手でいじっていた。

 体格は細身でやや小柄。男3人に追いかけられてはさぞ恐ろしかっただろう。

「それであそこまで激高したと? いけませんなぁ、そういう短気な輩は」

 アディンセルの治安も徐々に良くなっているとは言えど、まだこういったチンピラの類いは存在している。

 そして度々、騒ぎを起こすのだ。

 今回はたまたまジョイスが居合わせたので何事も無かったが、一歩間違えばカタリナと名乗る女性はチンピラに殺されていたかも知れない。

「とんだ災難でしたな、カタリナ嬢。よろしければ、家までお送りしましょうか? こんなことがあった後では、さぞ心細いでしょう」

「いいんですか? お、お願いします……。一人だと、家に帰るのさえ怖くって……」

 怯えきっていたカタリナは、ジョイスの言葉に甘えることにした。

「いえいえ、これも我々の仕事のうちですので」

 そう言いつつも、ジョイスはまだあどけなさを残す可愛らしい娘に、早速心惹かれていた。

 下心が全く無いわけではないが、少なくとも家まで送り届ける以上のことはしないつもりだ。

 その辺りはジョイスもわきまえている。

「そう言えば、兵隊さんのお名前は? 何てお呼びすればいいんでしょうか」

 歩きがてら、カタリナはそう尋ねた。

「ああ、これは失礼。名乗りそびれてしまいましたな。私はジョイスと申します」

「ジョイスさん、ですね。覚えましたよ」

 年相応に可愛らしい笑顔を返すカタリナに、ジョイスも思わず心を揺さぶられる。

 そうこうしているうちに、彼女の家の前までやってきた二人。

 カタリナの自宅は首都の中央からやや西に逸れた通りに面していた。

 こぢんまりとした小さな家で、この時間だと言うのに明かりは灯っていない。

「つかぬことをお聞きしますが、ご家族などはいらっしゃらないので?」

「はい。私は首都まで出稼ぎに来ている身で、一人暮らしです」

 何でも親の借金を返すために都会に出てきて、宿屋で働きながら仕送りを続けているのだと言う。

 この若さで慣れない土地に出稼ぎに来て一人暮らしとは、さぞ心細いだろうとジョイスは思っていた。

「あの、ジョイスさん。今日は本当に助かりました。命の恩人です! 何かお礼をしたいんですけど……時間のある日って、あるでしょうか?」

 平静を保ちつつも、ジョイスは心の中で叫んでいた。

(き、来たぁぁぁっ!! これは間違いない! お礼デートのお誘いだっ!!)

 しかしそんな様子は表には出さず、彼はいつも通りの落ち着いた様子で答える。

「そうですな……。二週間後、くらいでしたら休暇は取れそうですが」

「じゃあ、その日に一緒にお食事なんて、どうですか? この近くで美味しいお店を知ってるんです」

 表面上は動じないジョイスだが、内心ではガッツポーズで拳を頭上高く掲げ、脳内には祝福のファンファーレが鳴り響く。

(うおおおおお!! ついに私にも春が来たのかっ!! 来ている、これは来ているぞぉぉぉ!! だが慌てるな、ここでがっつくんじゃあない……!)

 ジョイスは舞い上がって逸る心を理性で抑え込んだ。

 ここで飛びついては相手を引かせてしまう。

「それは嬉しい申し出ですな。ぜひ、ご一緒させて頂きましょう」

 二週間後の休みに、愛らしい若い娘と食事の約束を取り付けたジョイス。

 心は歓喜で踊り狂っているが、ポーカーフェイスは崩さない。

 あくまで、紳士的に。

「よかった……! あの、せっかくですし、家でお茶でも飲んで行かれませんか?」

 魅力的な誘いではあるが、ここは理性で踏ん張った。

(いかんいかん、いかんぞぉ! 出会ってまだ一時間も経っていないうちに家に上がるのは早すぎる! ここは紳士的に断って、ポイントアップのチャンスだっ!!)

「この後も仕事がありまして、そこまでお言葉に甘えるわけには」

 カタリナの方も、治安を守る兵隊とは言えいきなり一人暮らしの娘の家に男を上げるのはまずかったと思ったのか、すぐに手を引いた。

「そ、そうですよね。ごめんなさい、お仕事の邪魔をするつもりはなかったんです。……じゃあ、二週間後に、ここで」

「分かりました。もしまたトラブルなどございましたら、我々軍隊にご相談ください。では、失礼」

 軍人として毅然とした態度を崩さず、カタリナの自宅から立ち去ったジョイス。

 だが彼女の目が届かなくなった辺りから、徐々に顔がにやけはじめる。

「ふふふ……! やったぞ、何たる幸運か! おお神よ……!」

 思いがけない巡り合わせにジョイスは普段祈る機会もない神に感謝しつつ、城へと帰っていった。


 一方、ヴェロニカとの対局で手応えを掴んだトマスは、部下の僧兵達と共にそれぞれの私室に戻ろうと廊下を歩いていた。

「先の試合、大僧正様もお見事でした。『盤上の魔術師』相手に物怖じもせず立ち向かう姿は、まさに我らの理想そのもの!」

 そう上官を称賛する僧兵は、別の対局で連合軍の武将が次々とヴェロニカの前に敗れ去る姿を見てきた。

 確かに負けはしたものの、トマスはかなり粘った方だった。

 そもそも、ヴェロニカを恐れて対局から逃げる将も居る中、真っ向から勝負を受けて立ったこと自体が素晴らしいと、彼は口にする。

「ははは、素直に褒め言葉と受け取ろう。私としても、学ぶことの多い対局だった」

 指揮官用の部屋と、兵卒用の部屋とはまた異なる。

 クラウスとナスターシャが待つ黒鉄騎士団の指揮官用私室の前まで来たトマスは、ここで部下と一旦お別れとなる。

「では、また明日にな」

 そう言うと、いつも外套の下に隠している聖印のネックレスを取り出し互いに握りしめると、今はほとんど使われていない古い言葉で別れの挨拶を交わすトマスと僧兵達。

 この時もまた、両手ではなく片手で相手を拝んだ。

 僧兵達が去っていった後、部屋に帰ろうとしたトマスだが、突然物陰から連合軍の武将が飛び出し、叫び声をあげる。

「その聖印と作法、教会のそれではないな?! 異教徒め、正体見たり!」

 凄まじい剣幕でトマスに食って掛かったのは、教会の敬虔な信者だった。

 教会は大陸中に大勢の信者を抱えており、連合軍の将でもそれは例外ではない。

「対局の時から見ていたぞ! 貴様、さては邪教の手先だな!」

 トマスは覚えていなかったが、彼はヴェロニカとのチェス試合の時からずっとトマスに不信感を抱いて見張っていたのだ。

 トマス達が時折見せる独特の作法、そして首から下げている変わった形の聖印、古い言語による祈りの言葉、どれも教会由来の物ではない。

 文字通りに掴みかかるような勢いで迫る教会信者に、トマスは冷静になるよう求める。

「待て、こちらに争う気はない。どうか落ち着いてくれ」

 一方的にトマスを糾弾しようとするその怒鳴り声を聞きつけ、ちょうどカタリナを送り届けた帰りに私室へと戻ろうとしていたジョイスが、両者の間に割って入った。

「何事です? この騒ぎは」

 浮かれて帰ってきたジョイスだったが、その場のただならぬ気配を感じて、ニヤけた顔を引き締めてスイッチを切り替える。

 トマスは事情を説明しようとするが、それを遮って信者の武将はまくし立てた。

「将軍閣下、この男は邪神を崇拝する異教徒です! このまま軍に置いておいては神罰が下りましょう! すぐにでも火刑に処すべきです!」

「まあお待ちを。トマス殿からも言い分を聞いてから……」

 ジョイスはその武将を落ち着けようとするが、興奮した相手は上官の言葉すら聞かずに叫ぶ。

「異教徒の言葉など耳を貸してはいけません! 将軍閣下、やはり西方の者など信用できません。この異教徒、絶対に裏切りを企んでいるに違いありません!!」

「まずは落ち着くように! そのように叫ばれては、他の将兵達の迷惑にもなりますぞ!」

 喚き散らした武将も、ジョイスの鶴の一声で思わず黙った。

 普段味方にはまず向けないが、猛将として知られた彼の威圧感は、信者を黙らせるには十分過ぎた。

「異教徒だからと、必ずしも謀反を起こすとは限りませんぞ。何より証明として、かつて帝国軍残党に議長閣下が襲われた際、主将のクラウス殿と力を合わせ救出に尽力してくださったではありませんか」

「し、しかし……!」

 なおも食い下がる信者に対し、ジョイスは毅然とした態度で接した。

「ひとまず、この一件は私の方で預かりましょう。これ以上は軍規にも触れます。それでよろしいですな、お二方?」

 この場は、喧嘩両成敗といった形で取り持った。

 トマスは素直に頷いたものの、教会信者の武将は渋々といった様子で了承する。

「……将軍閣下の、正しいご判断を信じています。では」

 将軍ともあろう上官にあのように言われては、流石の信者もこれ以上トマスに噛み付くことはできなかった。

 彼は振り返ってトマスを睨みつけながら、その場を立ち去る。

 信者の姿が見えなくなったのを確認すると、眉をしかめていたジョイスは表情を軟化させ、改めてトマスに向き直った。

「先程は場を治めるためああ言うしかありませんでしたが、事情をうかがっても?」

 ジョイスはあくまで冷静で、ちゃんと話を聞こうという姿勢を見せている。

 トマスはそれを見て、自分達が異教徒であることを打ち明けた。

「確かに、私と私の部下の僧兵達は、教会から見れば異教徒です。元々は西方で古代から信仰されてきた宗派なのですが、教会から弾圧を受けて、ここ数十年はどんどん信徒を減らしています」

 トマスの一派のように、古い土着信仰は大陸の歴史の中でいくつも存在する。

 それら全てを否定し、自分達の教義こそが絶対正義として、異教徒狩りを行ってきたのが今の教会である。

 今や大陸のほとんどが教会の勢力圏となり、西方諸国も例外ではなくなった。

 トマス達は何度も行き場を無くし、国々を放浪した。

 はっきりとジョイスに打ち明けたのも、彼にとっては賭けだった。

 もしジョイスも異教徒の存在を良しとしないなら、残念ながら連合軍を脱退するしかない。

「なるほど。よくぞ話してくださいました。本音を言うと、私はどんな宗派を信仰するかは各個人の自由と考えておりましてな。ハルトマン議長も同じお考えです」

 ジョイスがこう言い切れるのも、長くカイザーの右腕として腹心の部下を務めてきたからである。

 そんな彼の言葉に、トマスはほっと胸を撫で下ろす。

「まこと、かたじけなく存じます」

「もしまた今回のようなトラブルに見舞われましたら、部下を通してでもいいので私にご相談ください」

 改めてトマスは、ジョイス・カーパーという人物が如何に面倒見が良いかを理解した。

「お心遣い、痛み入ります。この問題ばかりは、将軍閣下のお言葉に甘えさせて頂きたく」

 教会と『異教徒』と断じられる別の宗派との溝は深い。

 トマス一人では問題を解決できるわけもなく、かと言って主であるクラウスを巻き込むのは彼にとって不本意な事態である。

 だからこそ、ジョイスの申し出は嬉しいものだった。

 もう夜も遅くなってきたので、最後に互いに短い挨拶を交わして別れる二人。

 ジョイスは通路の更に先にある自分の私室へ、トマスもすぐ目の前の自分達の部屋へと入っていった。


 トマスが部屋に戻ると、中ではクラウスとナスターシャが葡萄酒を飲み交わしている最中だった。

「おお、トマスよ、戻ったか。何やら叫び声が聞こえたが、何かあったか?」

 トマスは包み隠さず、ついさっき起こった出来事をクラウスに話した。

 その間に彼も席に着き、クラウスが酒場から買って帰ったと言う美味い葡萄酒に口をつける。

「そうか……将軍閣下が、そのように」

 クラウスはそのジョイスと、少し前まで城下町の酒場で一緒に飲んでいたところだ。

「はい。正直なところ、安心しました。最初はまた居場所を失うのではないかと……」

 異教徒だからと言う理由だけで忌み嫌われ、国を追われたことなど数え切れない。

 そんな弾圧に耐えながら、トマスと彼の率いる宗派の僧侶達は西方を渡り歩いてきた。

「思い出すな、私とそなたが初めて出会った日のことを」

 不意にクラウスがそう呟く。

 それにトマスもうなずいて答えた。

「私も、同じことを思っておりました。クラウス様も、やはり将軍殿のように異教徒の我々を偏見の目で見ずに評価してくださった」

 両者の邂逅は、クラウスがナスターシャを軍師に引き入れた後、領主になって間もなくまで遡る。

 当時、他の国から追い出されたトマス一派は、クラウスが統治するようになったラスカ領へと足を踏み入れた。

 最初は侵略かと思い、軍を率いてクラウスとナスターシャは戦った。

 しかし相手は身を守るために応戦するばかりで、明確な敵意がないことをクラウスはすぐに見抜いた。

 同時に、どの兵も痩せ細ってやつれていることにも。

 それでいて、異教徒の集団はよく統率されていた。

 他でもない、陣頭で指揮を執る指揮官の采配によるものだ。

 僧兵達の背後には戦えない非戦闘員の信者達がおり、彼らを庇いながらの不利な戦いだった。

 更に度重なる迫害で戦える僧兵もかなり疲弊しており、士気はかなり低いはずだ。

 それを最前線に立つ指揮官は纏め上げて鼓舞し、防戦とは言えクラウスの黒鉄騎士団と互角の戦いを見せていた。

 クラウスは一度軍に停戦を命じ、自ら陣頭に姿を現すと、その指揮官に事情を尋ねた。

 相手は半信半疑ながら、名を名乗り居場所を失った異教徒であることを正直に話す。

「私はトマス・ファン・ダイク。我々は、国を追われた異教の徒。古くより信仰されてきた、土着神を崇める一派だ。あなた方の国を侵略したいわけではない。ただ、少しの間だけ羽を休める時間を頂きたい!」

 事情を飲み込んだクラウスはひとつうなずき、ナスターシャを除く自軍の兵を下げさせた。

「皆の者、矛を収めよ。さて、土着信仰の主殿よ、ここからは座って話さぬか」

 そう言うとクラウスは、何と得物である十文字槍を置き、そのまま自分も地面に座った。

 ナスターシャも斜め後ろでそれに倣い、腰を下ろす。

 トマスは最初、彼が何を考えているのか分からなかった。

 武器を手放し、無防備に地面に座ってしまっては、もしトマスの側に害意があった場合に抵抗もできない。

「……分かった」

 困惑しながらもトマスも僧兵を下げ、やはりハルバードを置いて地べたに腰を下ろした。

 両軍のトップが、衝突していた最前線で座って対話するという、異例の状況がここに誕生する。

「まず、そなたらの事情は概ね把握した。侵略のつもりがないのならば、こちらとて悪いようにはせん」

 クラウスは最初にこれ以上争う気がないことを示した。

 その上で、彼はこう続ける。

「それはそうとして、背後に非戦闘員を庇いながら戦うその手腕、かなりの統率力と見た。本気で争う気があれば、我軍も大きな損害を被っていよう」

 矢面に立って戦っていたのは、指導者であるトマスとその部下である僧兵達。

 だがその後ろには、戦えない他の信徒を庇いながらの防戦だった。

 もし全員が僧兵で、最初から黒鉄騎士団を潰すつもりでかかって来ていたなら、勝てはするだろうが甚大な被害を出していただろう。

「そこで相談なのだが……我が軍門に降らぬか?」

 トマスの腕を見込んでの提案だった。

「もちろん、ただで部下になれとは言わぬ。条件として、このラスカでは土着神を信仰することを許すと約束しよう。悪い話ではあるまい?」

 これを正直に信じていいものか、トマスも悩んだ。

 教会の影響力は既に西方諸国にも及んでおり、下手をすれば邪教徒を匿っていると因縁をつけられて周囲の敵国に同盟を組まれる恐れもある。

 いくらクラウスが領主で、ラスカでの信仰を許す権限を持っていたとしても、国が孤立すればそのままラスカごと焦土にされてしまうだろう。

「我々が争いの火種になるかも知れない。それでも、受け入れてくれると言うのか?」

 トマスの問いに、クラウスは大きくうなずいた。

「うむ、二言はない。我々が手を組めば侵略者のひとつやふたつ、軽く蹴散らしてくれようぞ。そうではないか、トマス・ファン・ダイクよ!」

「…………!」

 思わずトマスは目を見開き、クラウスを見つめた。

 名を呼ぶということはすなわち、相手を一人の人間として認めているということに他ならない。

 今まで、まず自分から名乗り事情を説明しようとしても『異教徒』と呼ばれるばかりで取り合ってもらえなかった中、クラウスだけが認めてくれた。

 彼は他の領主とは違う。

 異教徒だからと偏見を持たず、きちんと人間として尊重し、共に戦おうと提案してくれているのだ。

「承知した。約束が守られる限り、あなたの矛となって戦い続けよう。クラウス・リチャードソン殿」

 立ち上がった両者は固く握手を交わすと、肩を並べてラスカ領の城へと戻っていく。

「よくぞ決心してくれた、トマスよ。他の信徒達もさあ、城へ入るがよい。まずは食事と寝床だな、それに湯汲みもいるか? 他に必要なものがあれば言うといい」

 こうしてクラウスは、小汚くやつれた信徒達を領民の一員として迎え入れた。

 この時結ばれた約束は今に至るまで守られ続け、トマスの一派は僧兵から非戦闘員の信徒に至るまで、ようやく安息の地を手に入れたのだった。

 トマスはその日以来、クラウスに重用され副将として黒鉄騎士団に仕える身となり、ラスカの勝利と平和に貢献してきた。

「……思えば、長いものです」

「そうだな、トマスよ。幸い、このアルバトロスにもそなたらの居場所はあるようだ。喜ばしいことではないか」

 連合に加盟する上での心配事のひとつが、カイザー達がトマスを異教徒と知った時受け入れてくれるかどうかだったのだが、今日のジョイスの一言で杞憂だったと分かった。

 当初、トマスはもしその時が来たら自分だけ連合軍から外れることにして、クラウスやラスカには迷惑はかけないと言っていたが、そんな心配は必要なかった。

 トマスを問い詰めた信者のように、軍内部にも異教徒を排斥しようという動きはあるが、総司令官であるカイザーとその腹心の将軍ジョイスが『良い』と言ってくれたのだ。

 いくら信者と言えども、これには逆らえないだろう。

「ハルトマン議長も、カーパー将軍も、まこと心の広い御仁よな。改めて、アルバトロス連合に加盟したのは正しかったと思う」

 トマスとナスターシャも、クラウスのその言葉にうなずいた。

「私も同じ思いです。この時が来るのを内心恐れていましたが、心配のし過ぎだったようです」

 トマスに続き、静かに話を聞いていたナスターシャも口を開く。

「加盟を決意なさった主様のご判断に、間違いはございませんでした。そのことが証明された、いい機会だったと思います」

 グラスに残った葡萄酒を味わいながら飲み干すと、クラウスは今後の楽しみとして酒瓶に蓋をして棚に戻す。

「良い酒、良い仲間、良い上官……ここは本当に良いところだ。さて、明日もあることだ、そろそろ休むとしよう」

 いつまでも狭い西方の僻地に籠もってばかりでは、このように世界が広がることはなかっただろう。

 この縁に感謝しつつ、クラウスはもう遅いのでこの日は寝ることにした。

 このまま、人としての温もりすら感じるカイザーやジョイス達と共に、平和な日々が続いてくれれば。

 そんな風に思っていたクラウス達だったが、翌日に事態は一変する。

 連合領東側の国境警備隊から、東に国境を隣接するロイース王国軍に動きあり、と知らせが入ったのだ。


To be continued

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る