第23話 『霧の森』
リカルドは教皇領へ向かう近道を知っていると、キラ達を案内した。
だがそこは、『赤布のギャング団』と呼ばれる極めて危険な無法者集団の縄張りだった。
五人組が何を思って一行をそこへ誘い込んだのか真意は不明だが、今キラ達は足である馬車を潰され、無数の賊に取り囲まれている。
敵の照準は、戦えないキラに合わせてあった。
事実上、キラを人質に取られたような状況で、更に追い打ちをかけるかのようにギャングのボスは言い放つ。
『ユーリ一人だけは見逃してやる』
その提案に対し、ユーリは弓を引いたまま静かに答えた。
「……俺は今、新しい仕事をしている」
淡々とした口調でそう言いつつ、ユーリはフード越しにルークへと目配せする。
(裏切るつもりはない? いや、それよりも……)
ユーリには窮地において味方を見殺しにしたという噂が立っていた。
ルークは、彼がボスの要求を飲んで自分達を置き去りにし、一人だけ逃げるのではと危惧していた。
だが、当のユーリにそのつもりはない様子だった。
それよりも冷静になって彼の視線の先を追ってみると、霧の中で霞んでいるがキラに狙いを絞っている弓兵数人を確認できた。
今はまだ一行を包囲する敵との距離は空いており、反撃に転じた際にキラにとって驚異となるのはその弓兵だ。
初動で弓兵を何とかすれば、敵を近付けさせないように立ち回ってキラを守り切れるかも知れない。
ルークは冷静に、おぼろげに見える弓兵の位置をマークする。
(ユーリさんはそれを伝えようと? 彼の弓の腕なら、確かに可能かも知れない……)
ソフィアが護衛として雇ったというユーリは、確かに旅の仲間の中でも不明な点が多く、疑惑もある。
人間的な言動も少なく、人となりについてもよく分からない。
だが、今この状況では彼を信じる他ないと、ルークはユーリと視線を交わし小さく頷いた。
「お前こそ退け。バッシュと同じ運命を辿りたくなければな」
ルークの無言の返答を受け、彼は明確に自分の選択を口にする。
「オイオイ、お前さんならもう少し話が分かると思ったんだがなぁ。見逃すわけねぇだろ、俺達にもメンツってもんが……」
ボスが攻撃指示を出すその直前、ユーリは言い終わらせないままに最初の一矢を放った。
矢は正面の弓兵を貫き、ユーリは間髪入れぬ早業で次の矢を射る。
エレンとの訓練の際にも見せなかった本気の早撃ちをユーリは見せ、敵が動き出す前に驚異となる弓兵を次々と処理していく。
「キラさん、伏せてください!」
それを合図に、ルークはキラを庇って突き飛ばしながら地面に伏せさせる。
これで処理しきれなかった弓兵の矢も狙いを外す。
何とか初動はしのぎ切った。
これからどう動くかで、キラの運命も決まる。
「ギルバートさん、メイさん、彼女をお願いします!」
「分かった!」
「キラ、私から離れないで!」
とにかくキラの安全確保が最優先と、ルークはギルバートとメイの二人に指示を出す。
自分もキラの盾となりたいルークだが、取り囲まれたこの状況で完全に守勢に回ってしまってはジリ貧になる。
敵陣を突破し、退路を切り開く者が必要不可欠だった。
「やりやがったな! 構わねぇ、全員始末しろ!」
憤慨したボスは、部下に怒鳴ると安全な後方へと下がり、そこから狩りを高みの見物と洒落込んだ。
一方のルークは来た道を戻るルートを突破すべく、ディックやエリックと共に立ち塞がる賊に切り込んでいた。
濃霧で視界が効かない中での、かなり不利な戦いになる。
ユーリが『黒蜘蛛の十倍は危険』と言っていただけあり、敵の練度はかなりのものだった。
敵をキラに近付けないよう注意を払いつつ、包囲を突破して退路を確保するのは、革命戦を生き抜いたルークでも苦戦を強いられた。
敵はこの霧に包まれた森をテリトリーとするだけあり、完全に霧を味方につけていた。
危なくなるとすぐに濃霧の中に身を隠し、ルーク達が姿を見失ったのを確認すると霧の中から死角に回り込み反撃する。
ギルバートとメイがぴったりと護衛についているとは言っても、戦えないキラとカルロ、そして接近戦に向かないソフィアを守り切るのは非常に困難だった。
この状況でキラに配慮して手加減することはままならず、やむなくルークは殺す気で剣を振るった。
「こん畜生! ナメんなよ!!」
一向に減らない敵の数に焦ったディックは、そう叫ぶと敵が潜む濃霧の中へと突進していく。
「ディックさん、危険です!」
ルークが制止するのも聞かず、彼は闇雲に霧の中で槍を振り回した。
しかし次の瞬間。
「ぐわぁっ?!」
斧を持った敵の痛烈な反撃を受け、ディックはルークのすぐ隣に弾き返される。
おまけに彼の愛用する槍は、柄が真っ二つにへし折られてしまっていた。
咄嗟に槍で防御したおかげで彼自身の傷は浅いようだったが、折れた槍でこの状況を戦い抜ける程、ディックは熟練した戦士ではない。
ルークはすかさず左手で刻印を刻み、風の刃を放ってディックを追撃しようとする賊を牽制した。
だが霧の中で狙いが正確に定まらず、あくまで牽制するのみに留まる。
やり辛いのはソフィアも同じで、目の前で浮遊させた杖で魔力を制御しつつ魔導書の呪文を次々に唱えて攻撃するが、霧に潜む敵を狙うのは雲をつかむような話だ。
魔法の矢は照準が定まらず、ならばと味方に当たらないように大火力の炎の玉を射出するも、爆破範囲に既に敵影はない。
援護に回っているエレンも、矢をどこに放っていいか分からず混乱していた。
唯一、この濃霧の中で敵が見えているのは、ユーリ一人だけだった。
ギャング達と交戦する前も、やはり何らかの手段で敵の正確な位置と数を把握していた。
「そろそろヤバいんじゃねぇか、リカルド?!」
ルーク達とは反対方向で敵を食い止めていたフランツが、焦りながら口にする。
このままでは確実に負けると、彼も分かっていたのだ。
エドガーも大盾を構えて仲間を守るも、霧の中から死角を突く攻撃に翻弄される。
リカルドはルークの方を振り向きながら叫ぶ。
「ルーク、何やってんだ! あの大魔法をぶっ放せ!!」
ファゴットの街での決戦の際、強敵であるセレーナとの戦いの切り札となった、強力な大魔法を今使えと言うのだ。
「しかし……」
「やらなきゃやられるぞ! 早く撃て!」
この状況を打開するには、何か決定打が必要だ。
ルークは仕方なく、一度敵から距離を置くと右手の剣の切先で空中に印を刻み、詠唱を始める。
それに合わせて彼の魔力は見る見る増大し、魔術師であるソフィアは元より、魔法など門外漢のリカルド達ですら肌を刺すような膨大なエネルギーを感じる程だった。
「危険です! 離れてください!」
そう味方に警告しつつ、ルークは左手を頭上へと掲げる。
その上には、どす黒い魔力の塊が膨れ上がり、周囲に稲妻を撒き散らす。
魔力の放電は術者であるルーク自身の身体を引き裂き、血を流させた。
意を決し、ルークは増大した魔力の球体を賊の集団目掛けて叩きつける。
次の瞬間、爆ぜる閃光と爆音。
圧縮された魔力の爆発により、衝撃波で地面が抉れ、周囲の木々がなぎ倒される。
激しい爆風により多くの敵が巻き添えになって吹き飛ばされ、ギャング団は大打撃を被った。
「よし、いいぞ! ルーク、もう一発かましてやれ! それでケリがつく!」
リカルド達は歓声を上げるが、期待していた二発目は放たれなかった。
自分の術の反動によって全身傷だらけになったルークは肩で息をしており、剣を杖代わりにやっと立っていられるような状態だった。
大魔法の二発目はおろか、これ以上の戦闘継続が不可能なレベルである。
リカルド達はルークの放つ大魔法を、単に便利で高威力の呪文だと考えていたが、実際は術者に激しい反動をもたらす諸刃の刃だった。
ルーク本人でもこの術は完全に制御し切れておらず、一撃放てばそのまま戦闘不能に陥ってしまう大きなリスクを抱えていた。
「やってくれたな、この野郎!」
動けなくなったルークに、賊の凶刃が迫る。
仲間は各自精一杯でルークのフォローまで手が回らず、ルーク自身はろくに動けない程の傷を負っていた。
誰もが間に合わないと思った、その時。
「うおおおーっ!!」
雄叫びを上げながら、捨て身で割って入る影があった。
敵の剣はルークではなく、その人影――ディンゴを突き刺した。
「デ、ディンゴさん……?! 何故……こんな……」
思わずそう口にするルークの目の前で、血を流し崩れ落ちるディンゴ。
彼は最期に笑みを浮かべ、こう言い残した。
「へっ……借りは返したぞ、ルーク……」
そうして、ディンゴは動かなくなった。
「う、嘘だろ?! ディンゴ、お前、何やって……!」
期待していたルークはもう動けず、仲間の一人であるディンゴはそんな彼を庇って命を落とした。
これにはリカルドも焦りを禁じ得ない。
同じく動揺するフランツは、キラとエリックに檄を飛ばす。
「こりゃいよいよまずいぜ! 嬢ちゃん、エリック! 不思議パワーで何とかしてくれ!!」
「無茶言わないでくれ!」
エリックはディンゴに続いてルークに駆け寄り、彼を守りながら戦っていた。
何度も傷を受けるが、異能力ですぐに治癒する。
しかし痛みまでは消せず、徐々に敵に圧倒されていく。
更にキラはと言うと、この場で流されたおびただしい量の血を目にしてすっかりパニックに陥っており、涙を流しながら震えてとても動けない状態だった。
「ま、マジかよ?! うおっ!」
ルークの大魔法で一度は打撃を与えた一行だが、ディックは武器を失い、ルークは戦闘不能、ディンゴも戦死したことで戦力不足となり、再び追い込まれつつあった。
「分かっていたはずだぞ、リカルド! これからどうする?!」
最初からリカルドの案に懐疑的だったエドガーは、そう叫んで打開策をリーダーに求める。
「くそっ、こんなはずじゃ……!」
こうなってはもはや、リカルドもノープランだった。
必死に前線で槍を振るうも、フランツ共々押し込まれつつある。
エリックが盾でルークを庇いながら後退するが、これ以上退けばもうキラを守ることもできないところまで、彼らは追い詰められた。
(タイミングを……誤ったか……。このままではキラさんが……。駄目だ、身体が動かない……!)
術の反動を受けたルークは、朦朧とした意識を繋ぎ止めるのに精一杯で、敵に応戦するどころではなかった。
仲間が傷つき、キラに危険が迫る中、何もできない自分をルークは内心で呪った。
万事休すかと思われた時、ユーリが叫ぶ。
「全員、バラバラに散れ!」
その次の瞬間、ユーリはポケットから煙幕を取り出し、ギャング達目掛けて投げつけた。
爆発音と共にもうもうと煙が立ち上り、うっかりそれを吸い込んだ敵は咳き込んで動けなくなる。
その隙を突き、ユーリの言葉通りその場に居た仲間達は、先の見えない霧の中をそれぞれバラバラの方角へと走った。
一斉に同じ方向へ逃げないのは、追手を混乱させるためである。
手負いの今のパーティで、霧の中を普通に逃げてギャング団を振り切れるとは考えにくいからだ。
煙幕で姿をくらます方法はユーリも最初から考えていたが、煙幕の有効範囲まで敵が近付いて来てくれなければ意味がない。
闇雲に煙幕を投げつけても、せっかくの切り札を無駄に浪費するだけだった。
ユーリは更に逃げる際、右手で左腕のガントレットの表面をなぞる。
すると赤く魔術文字の刻印が浮かび上がり、左手の手のひらに火がつく。
それを使って、煙幕とは別の小型爆弾数個の導火線に着火すると、別々の方向に放り投げた。
爆弾の中には鋭く尖った鉄片が入っており、爆発によって鉄片は周囲に撒き散らされる。
近くに居た敵は何人かその鉄片が突き刺さって負傷するも、殺傷するまでは至らなかった。
「何やってんだお前ら! さっさと奴らを追え! 逃がすんじゃねぇぞ!!」
ボスに怒鳴られた賊達はすぐにバラバラに逃げたキラ達を追跡しようとするが、一歩踏み出した途端、あちこちから悲鳴が上がった。
見れば地面には先程の小型爆弾に詰まっていた鉄片が撒き散らされており、うっかりそれを踏んだ者の足をブーツ越しに貫いていたのだ。
所謂、まきびしの類である。
手で撒かずに爆弾に仕込んだのは、爆風の勢いで広範囲にまんべんなくまきびしを散布するためで、爆弾そのものの殺傷力には期待していない。
地面を踏まずに歩ける人間など存在せず、そして足を靴底から突き刺される激痛は致命傷でなくとも耐え難いものだった。
まきびしを除去するまで、ギャング団は足止めを食らってしまう。
「『一匹狼』の野郎……!」
腕利きの傭兵だと聞いて黒蜘蛛の頭目バッシュの暗殺を依頼したはいいが、敵に回すとこれ程厄介だとはボスも考えていなかった。
一行の予想以上の抵抗に、当初の余裕はなくなり激怒の表情を浮かべるボスは、手こずる部下達に怒号を飛ばし、地の果てまで彼らを追えと命じるのだった。
パニックに陥ってうずくまっていたキラは、リカルドに手を引かれて森の中を逃げ惑っていた。
リカルドは同時に深手を負って動けないルークも担いでおり、これ以上スピードを出すのは現界だった。
「はぁっ……はぁっ……! まだ、追手は居ないらしいな……」
道なき道の途中、体力の限界に達したリカルドはルークを地面に下ろし、自らも力なくへたり込んだ。
濃い霧は方向感覚だけでなく距離感も狂わせており、今どの辺りまで逃げてきたのかさえ分からない状態だった。
別々に逃げてきたため、他の仲間とは離れ離れになっている。
偶然合流などという奇跡にはもう期待できない。
バラバラに逃げたおかげで敵の追手は今の所やって来ていないが、それも時間の問題だろう。
早く逃げなければいけないが、キラとルークを引っ張りながら霧の森から脱出する体力はもうない。
「……して」
泣きながら呆然としていたキラが、絞り出すように、小さな声で呟く。
「どうして、こんなことに……?」
その声に、リカルドは後悔のあまり苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、懺悔した。
「……俺のせいだ。俺が、お前さん達をここへ連れて来ようって言い出したんだ」
「な、何で……?」
ぐったりと地面に横たわるルークも、言葉は出ないながらもキラと共に非難の視線をリカルドに送る。
「赤布のギャング団の頭目には、莫大な賞金がかかってるんだ。革命の英雄に、異能者二人に、『一匹狼』……これだけの戦力がありゃ、勝てると思った。旅のついでにひと稼ぎさせてもらおうってよ、そう甘く考えてた……」
ここに来てようやく、リカルドの真意を知った二人。
彼は自分の欲から、キラ達を危険な場所に案内し、この状況を作り出したのだった。
四人組は最初からそのつもりで、キラの旅に同行すると言い出したのだろう。
そこまで考えてルークはふと、ディンゴの死に際の言葉が引っかかった。
(借りを返す……? 一体、何のことを……)
ふとルークは、ファゴットの街での決戦の際、セレーナの攻撃からディンゴを庇ったことを思い出した。
確かにあの時、ルークが割って入らなければディンゴは死んでいたかも知れない。
(そうか……ディンゴさんは、そのために……)
三人は賞金目的でついてきたのだろうが、ディンゴは違った。
ルークから受けた命の恩を返すべく、その時が来れば死ぬ覚悟の上で共に歩んできたのだ。
「やっぱ駄目だな、欲をかくと……。俺達はいつもこんなだ」
そう言ってため息をつくと、リカルドはゆっくりと立ち上がり、後ろを振り返って槍を構える。
「リカルドさん? 何を……」
「なぁに、手前のケツは手前で拭くさ。お前さん達はこのまま逃げな。俺は、あいつらを足止めする」
あの数の敵を相手に、リカルド一人で立ち向かえば確実に死ぬことは、素人のキラでも分かった。
「やめてください、死んじゃいますよ! 一緒に逃げましょう!」
必死に腕を引っ張るキラを振りほどき、リカルドは自嘲するかのような笑みを浮かべた。
「こんなことになって、まだ俺を心配してくれるのか……。ほんと、俺ぁ何やってんだろうな。こんないい子に地獄を見せておいてよ……」
そうしている間にも、森の向こうからはキラ達を追ってきた賊の声が聞こえる。
もう、すぐそこまで追手が迫ってきているのだ。
「時間がねぇぞ、お嬢ちゃん! ルークを担いで、早くここから逃げるんだ! 行け、行けぇぇぇーっ!!」
渾身の叫びと共に、駆け出すリカルド。彼はもう振り返らなかった。
霧の中に消えていく背中に手を伸ばすも、キラにはどうすることもできなかった。
彼女は泣きながら、ルークに肩を貸して山の斜面を下側へと走り出す。
「ごめんなさい、リカルドさん……! ごめんなさい……!」
置いていくしかなかったリカルドに謝罪の言葉を口にしながら、ボロボロのルークと共にキラは必死に逃げ続けた。
同じ頃、散り散りに逃げた後で合流したギルバート、ディック、メイ、ソフィア、ユーリの5人も、一緒になったフランツとエドガーからこの惨状に至る事情を聞いていた。
「くそっ! まんまとハメやがったなこの野郎!」
話を聞いて激高したディックは感情のままにフランツに掴みかかるが、ギルバートとソフィアは冷静にそれを止めた。
「待て。ここで仲間割れをしても得はない。今はとにかく逃げることじゃ」
「彼の言う通りよ。彼らの責任については、逃げ切った後で問いましょう」
二人の言葉に、メイとユーリも黙って頷く。
こうなっては、ディックも怒りの拳を下ろすしかなかった。
「すまねぇ……! こんなことになるなんて、思っても見なかったんだ」
そう言いながらうなだれるフランツを、おののきながら見つめる8人目の影。
四人組に同行していながら、何も知らされていなかったカルロである。
途中でルークに尋ねられた時に嘘はなく、本当にカルロはリカルド達の目的を知らなかった。
あれよあれよと言う間に事態は最悪の方向へと転がり、彼自身が目の前の出来事についていけていない。
元から空気のような存在だったカルロは、放心して何も口に出せないでいた。
「罰は後で受ける。早くここを離れなければ、全滅するだけだ」
エドガーはあくまで冷静だった。
責任の追及も、生き残った仲間の捜索も、全ては無事にこの霧の森を脱出してからの話だ。
「そうだな、どんな罰だって受ける! それとは別に、俺らの責任ってことで、あんたらは無事に逃さないといけねぇ」
ここはまだ敵中、完全に逃げ切ってはいない。
フランツは先頭に立って先を急ごうとするが、ソフィアが待ったをかける。
「待って。キラとエリックがまだ見つかっていないわ。あの子達を置いては行けない」
ソフィアにとっては、最優先すべき要人も同然である。
まだ二人と合流できていないことに、彼女は内心焦っていた。
全く別方向へ逃げている最中ならばまだいいが、もし敵に捕まっていたりなどしたら取り返しのつかないことになる。
「気持ちは分かるが、今は我々だけでも逃げねばならん。我々が無事なら後で救出するチャンスが出来るはずじゃ」
「……っ」
ギルバートの言うことは正論だ。
そのことを理性の部分で重々承知しているソフィアは、唇を噛み締めながらもこのまま逃走することを了承する。
「早く! モタモタしてっと追い付かれちまう!」
ユーリが煙幕とまきびしで稼いだ時間も、今この瞬間にも縮まり敵が迫ってきている。
そのことを分かっているフランツは、急ぎ足で霧に包まれた道なき道を突き進む。
「また俺達をハメようって気じゃないだろうな?」
「今更そんな考えはねぇよ」
まだ疑いを捨てきれないディックだったが、この状況で更に敵のいる側へ誘導するメリットはもうフランツにはない。
勝てないと分かった以上、後はひたすら逃げるしか道はないのだ。
「これ以上騙したところで無意味だ。今は一人でも多く生き残ることを考えろ」
フランツとは逆にしんがりとして最後尾で盾を構えるエドガーは、この状況で全員無事に山から出られるとは考えていなかった。
どれだけ足掻こうと無駄だと思いつつも、少しでも仲間を生還させようと後方を警戒する。
そのままある程度進んだ一行だが、逃げることに夢中で焦ったことが災いし、先頭を走るフランツは足をトラバサミにかけられてしまう。
「があああ!! くそっ、こんなとこにまで罠が……!」
丈夫な鉄製のトラバサミは、甲冑を着込んだフランツの右足にガッチリと食い込んでいた。
更に悪いことに、トラバサミの罠は鳴子へと縄で繋がっており、カラカラと乾いた音が森の中にこだまする。
元々は外側から来る侵入者への警戒として仕掛けられたものだろうが、これで足止めを食っただけでなく、自分達の大まかな居場所も敵の知るところとなってしまった。
「今外してやる」
ユーリが急ぎトラバサミの解除を試みようとするが、フランツはそれを跳ね除けた。
「俺のことはもういい! あんたらだけで逃げろ!」
「見殺しにしろって言うのか?!」
思わずディックが声を上げる。
確かにフランツはキラ達を危険地帯のど真ん中に誘い込んだ五人組の一人だが、それでもまだ仲間だと彼は思っていた。
「駄目。一緒に逃げよう」
静かにそう言ったメイも、ユーリと一緒に罠を外そうとしゃがみ込む。
だがトラバサミは頑丈にできており、簡単には解除できない代物だった。
罠に時間を取られているうちに、場所を特定したギャング達は無慈悲に迫ってくる。
「奴らはこの辺りだ! 絶対に逃がすんじゃねぇぞ!」
声が聞こえる範囲まで距離を詰められた。もうこれ以上時間の猶予はない。
「行ってくれ。俺は残って罠を解除する」
最後尾で敵の接近に気付いたエドガーは、覚悟を決めてそう言う。
「俺らなんぞに構ってる余裕はねぇだろ? 行けよ」
フランツも、片足をトラバサミに挟まれたまま戦鎚を構えた。
敵が到着するまで後僅か、その間にエドガーがトラバサミを解除できるかどうかは分からない。
仮にトラバサミが外れたとして、残るのは手負いの傭兵二人のみ。
エドガーは大盾、フランツは甲冑で重装備しているとは言え、数で圧されればただのマトでしかない。
「あなた達、本気なの? 死ぬわよ?」
「へっ、一揆を起こした時から死ぬ覚悟なんてのは決まってたさ。だがあんたらは、こんなところじゃ死ねねぇんだろ? 早く行け!」
フランツの言う通り、キラの周りに集まった旅の仲間達にはやるべきことがある。
彼には、そんな目標のようなものは特に無かった。
たまたま一揆で落とし損ねた命を、日々何となく繋いできただけだ。
「俺達の心配などしても無意味だ。自分の安全を考えろ」
死ぬ覚悟をしているのは、エドガーも同じだった。
かつて祖国を失った兵隊崩れ、その命はあの時亡くしたも同然のものだからだ。
そうしている間にも、敵の気配が近付いてくる。
もう別れを惜しむ猶予も残されていない。
「すまん」
フランツとエドガーの二人と仲間の命を天秤にかけたギルバートは、一言そう言って下山する道へ足を踏み出す。
「謝るのは俺らの方だ。嬢ちゃんと無事合流できたら、悪かったと伝えてくれ」
それが、フランツと交わした最後の言葉だった。
うろたえるカルロを連れてギルバート達5人は罠を警戒しつつ、逃走を続ける。
しかしここは敵の拠点の中。地の利はギャングの側にある。
いくら急いで逃げたところで、霧に包まれた山林を走り慣れている敵を引き離せるはずもなかった。
「まずいな。距離が詰まってきた」
エドガーに代わるしんがりとして最後尾を走るユーリは、後ろを振り向いてそう呟いた。
敵の姿は濃霧で見えないが、ユーリには確かに見えているようだった。
フランツとエドガーがいくら奮戦しようと、たった二人では大した時間稼ぎにもならなかっただろう。
このままでは、やがて追い付かれる。
「ディック、折れた槍をくれ」
「ど、どうするつもりなんだよ?」
逃げる途中で足を止めたユーリ。
ディックはもう使い物にならない槍を譲りつつも、怪訝そうに尋ねた。
「なるべく時間を稼ぐ。山の麓で待て」
「何を言っているのユーリ?! まさか、あなたまで……!」
止めようとするソフィアだが、ユーリはそれを無視して即席の仕掛けを作り始める。
「30分経って俺が合流しなければ、そのまま近くの街まで走れ」
それはつまり、失敗したら自分は死んだものと思って残ったメンバーだけで逃げろということだった。
「ユーリ……。分かった、死ぬでないぞ!」
言い合っている猶予はないと判断したギルバートは、なおもユーリを制止しようとするソフィアを引っ張りながら、残りの仲間を連れて先を急いだ。
それからしばらくして、ユーリが残ると決めた場所にギャング団の下っ端達が追いつく。
だがそこには、既に人影はなかった。
「連中はこの先だな。足跡が続いてる」
「近いな。よし、このまま追い詰めて八つ裂きに……」
一人が足を踏み出した瞬間、地面に張られたワイヤーに引っかかり、ぷつりと音を立ててワイヤーが切れた。
「しまった!」
彼らはこの手口について、あまりにもよく知っている。
下っ端ギャングの予想通り、茂みの中から折れた槍が飛び出し、運悪くワイヤーを切った男の胸を貫いた。
「罠か?! あいつら、逃げながら罠を仕掛けやがったんだ!」
自分達が今まで散々、獲物に対して行ってきた戦法である。
まさかここに来て、狩る側と狩られる側が逆転するとは夢にも思わず、ギャング達に動揺が走る。
「くそ、注意して進むぞ!」
だがそう口にした男もまた、草むらに巧妙に隠されていたワイヤーを引っ掛ける。
今度は数本の矢が飛来し、不用意に足を踏み出したギャングを射殺した。
これで犠牲者は二人。
否が応でも警戒心の強まった敵は、足元を注視する。
すると、ワイヤートラップと思しき細い縄は、あちらこちらに張られていた。
中には見え透いたものもあるが、それはその罠を避けて進むと茂みや石の影に隠された別のワイヤーに引っ掛かるという、二重のトラップだった。
「な、何だよこれ……?! そこら中が罠だらけじゃねぇか?!」
「こっちの茂みは行けるか?」
「いや待て! こっちの角度からだと先にワイヤーが見える!」
更に悪いことに、一度戻って別の道から迂回しようとした敵は、後ろ側にも張り巡らされていた罠にかかって、やはり矢で命を落とす。
この辺り一帯がトラップだらけとなっており、進むも戻るもできない袋小路に彼らは誘い込まれていたのだ。
「……なんてこった。まるで毒蜘蛛だ。俺達は蜘蛛の巣にかかっちまったんだ!」
疑心暗鬼に陥ったギャング達は、完全にその場で立ち往生となった。
八方が罠に囲まれ、突破はおろか脱出することすらままならない。
下手に動けばワイヤーを切り、次の瞬間には茂みの影から仕掛けられた矢が飛んでくる。
ろくに身動きもできなくなったギャング達の元へ、彼らをまとめる若頭と思しき男が歩いてきた。
若頭は動揺して追跡を止めてしまった部下を見て、怒号を飛ばす。
「お前ら、あの程度の獲物に何遊んでやがるんだ! さっさと追いかけて殺せ!」
「で、でも兄貴! そこら中罠だらけで、もう何人も死んでて……!」
それを聞いた若頭は、胡散臭そうに足元のワイヤーに目をやる。
「罠だぁ? お前ら寝言は寝て言え!」
そう怒鳴りつつ、若頭は乱暴に罠に繋がる縄を引き千切った。
「ひぃぃーっ!」
怯えるギャング達だったが、驚くことに何も起こらなかった。
折れた槍も、矢も飛んで来ず、ただ霧の森が風になびく音だけが静かに響く。
白かった霧はかすかに夕焼けの色に染まりつつある。
「あのなぁ、必死こいて逃げる途中の獲物が、そんな大量の罠を仕掛ける時間なんてありゃしねぇんだよ! 無い頭使ってよく考えろ!」
若頭の言葉を裏付けるように、彼がいくらワイヤーを引っ張ろうが、千切ろうが、罠は作動しない。
「え? でも、さっきは本当に……!」
「いいからさっさと奴らを追え! 始末するまで戻って来るんじゃねぇぞ!」
若頭の一声で、怯えていたギャング達は恐る恐る追跡を再開した。
一方、その罠を仕掛けた張本人であるユーリは、全速力で山を下っている最中だった。
その足は異常なまでに俊敏で、馬ほど早くはないが、かと言って人間が出せるスピードを超えていた。
魔力で脚力を強化し、常人の限界を超えたスピードで走っているのだ。
彼が仕込んだ罠の正体、それはワイヤートラップではなく、心理戦だった。
ロープはただそれらしく張ってあるだけで、罠に繋がっているわけではない。
ワイヤーを引っ掛けたギャングを殺した槍や矢は、実は茂みに隠れていたユーリが人力で飛ばしたものだった。
ただ普通に矢で射殺せば、ギャング達はすぐに敵が潜んでいると気付いて応戦する。
だが例え無意味にでもワイヤーが張ってあったことで、ギャング達はワイヤーと飛んできた矢を勝手に因果関係で結びつけて考え、無人の罠だと勘違いしたのだ。
なまじ日頃から罠を扱ってきただけに、ワイヤーに敏感に反応してしまったことが逆に仇となった。
無神経な者ならば、霧の中のワイヤーに気付かず、普通に敵が居ると気付いただろう。
罠に詳しく慎重なその心理を逆手に取られ、まんまとユーリの戦法にはめられたのだ。
罠を演じるためギリギリまであの場所に残っていたユーリは、敵が疑心暗鬼に陥ったことを確認すると素早く移動していた。
30分以内に、麓で待つ味方と合流するためである。
追手を心理的な罠にかけるまでの時間を考慮して、時間の猶予は多くても15分程度。
とても山を降りきれる時間ではないが、彼は脚力強化の術を使い、強引に下山を強行する。
何とか麓に到着し、背後に追手がいないことを確認したユーリは、息切れを起こしながらも懐から懐中時計を取り出し、時間を確認する。
(28分経過……間に合ったな)
時計を仕舞うと、今度は右腰のポケットから注射器を取り出す。
フォレス共和国の工房でソフィアから買っていた、青白い謎の薬の入ったあの注射器である。
彼はその注射針をガントレットの隙間から左手首に突き刺し、一気に中の薬を注入する。
「……っ! ぐっ……!」
歯を食いしばり苦痛のうめき声をあげるユーリ。
だがすぐに、激しい息切れは治まり、呼吸は安定する。
空になった注射器を今度は左側のポケットに仕舞い込むと、ユーリはいつも通りの何食わぬ顔で、彼の帰りを待つ仲間と合流するのだった。
バラバラになりながらも、何とかギャング団から逃げ切ったキラ達。
だが、中には運悪く逃げ切れなかった者もいた。
「いたぞー! こっちだ!」
ギャングの追手に追い付かれ、必死に逃げるのはエリックとエレンの二人。
二人はユーリが煙幕を投げた直後、同時に同じ方向へと逃げてきた。
しかし素人に毛が生えた程度の二人が、霧の森を走り慣れた賊を振り切れるはずもなく、徐々に距離を詰められ、追い込まれていた。
「エリック、先に逃げなさい! ここはあたしが何とかする!」
逃げ切れないと判断したエレンは、立ち止まって弓矢を構えた。
「な、何言ってるんだエレン! お前を置いていけない!」
「あんたがいると足手まといなの! いいから、さっさと逃げる! ほら!」
エレンに突き飛ばされ、前のめりに倒れかけるエリック。
彼は剣と盾しか持っておらず、エレンのように飛び道具を使えない。
この状況では、本当にただの足手まといだ。
「ルークさん達を連れて戻ってくるからな! それまで死ぬなよ!」
ベテラン揃いの仲間達なら、何とかしてくれるかも知れない。
藁にもすがる思いでそう考えたエリックは、逃げるというよりも散り散りになった仲間を探すためにその場から駆け出した。
エリックが離れたことを確認したエレンは、緊張で震えながらも深呼吸で息を整え、矢をつがえる。
(師匠に教わったこと……”生き残る方法”、それを思い出すんだよ、エレン!)
まずはでたらめでいいので数本の矢を放ち、追手を牽制する。
こちらが飛び道具を持って反撃する意図があることを知ると、ギャング達も足を止めた。
目には目を、矢には矢を。
エレンが弓で攻撃してくると分かると、敵も同じく弓を持ち出す。
エレンはすかさず、近くの岩陰に身を隠した。
(遮蔽物に隠れて、そこから撃ち返す。やれる、あたしならやれる!)
ユーリに教わった通り、近くの岩や木の影を遮蔽物として敵の矢を防ぎながら、攻撃の合間に上半身だけを出して矢を放ち、反撃する。
この濃霧の中のため、敵の姿はほとんど見えない状態での射撃となる。
命中はまず期待できないが、足止めにはなる。
(同じ場所にじっとしない! タイミングを見て移動する!)
敵に回り込まれないよう、敵が矢を射る合間を見て遮蔽物を移動するエレン。
だが多勢に無勢の状態でたった一人で出来ることは限られ、移動中に足元に矢を撃ち込まれて彼女は思わず足を止めてしまう。
(遮蔽物がない時は、伏せ撃ち!)
咄嗟にエレンは地面に腹這いになり、被弾面積を最小限に抑えた状態で矢を撃ち返す。
闇雲に放った矢でも何本かは当たっているようだが、致命打は与えられていない。
敵は傷を負いながらも数は減っておらず、両翼から囲い込むようにしてエレンとの距離を詰めていく。
元は狩人だったエレンは、この時初めて狩られる獲物の側の心境を理解した。
ジワジワと逃げ道を塞がれ、ハンターの手が自分の喉元へと迫る緊張感、恐怖心。
まるで白い霧そのものが敵となって迫ってくるような圧迫感を覚えた。
(はは……。やっぱり、カッコつけるんじゃなかったなぁ。エリック、ちゃんと逃げられたかな……?)
自分の最期が差し迫る中、エレンは先に逃したエリックの身を案じていた。
その頃、エリックはバラバラになった仲間を探して、闇雲に霧が立ち込める森の中を走り続けていた。
「ルークさーん! ギルバートさーん! リカルドさーん! 誰か、誰かいないのかーっ?!」
敵に聞こえる危険も考えず、声を張り上げるエリック。
彼にはもう、仲間しかすがるものがなかった。
自分の身の安全よりも、一人残ったエレンを助けに戻らねばという思いが、彼を突き動かしていた。
この時エリックは知らなかったが、二人が逃げた方向はキラ達とも、ギルバート達とも正反対の方角だった。
そのままいくら走ったところで、仲間と合流できるはずもない。
それを知らず、必死に仲間を探し求めるエリック。
方向感覚を失ったまま、右へ左へと遭難したかのように駆け回り、その場にいるはずのない味方をがむしゃらに探し続ける。
やがてエリックは、霧の向こうに人影を見つける。
敵かも知れない、などという注意は今はしている余裕もなかった。
藁にもすがる思いで人影に駆け寄るエリックだったが、その正体は彼の期待を裏切り、ギャング団の追手だった。
「し、しまった!」
気付けば周囲を囲まれている。
大声で助けを呼びながら、しかも右往左往していたエリックは、知らぬ間に同じ場所をぐるぐると回っていたのだ。
それを見逃す敵ではない。
エリックは破れかぶれで剣を構えるが、対するギャング達はニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている。
「一人で寂しかっただろぉ? ガールフレンドに会わせてやるよ!」
そう言って一人が合図すると、他の賊が傷だらけになって捕獲されたエレンを連れてきた。
「エレンッ!!」
彼女の姿を見たエリックが、既に枯れた声を上げる。
奮闘も虚しくギャングに捕まったエレンは、殴る蹴るの暴行で痛めつけられ、満身創痍の状態だった。
「いいねぇ、その顔! この娘と合わせて二度楽しめるぜ。こういうの、何て言うんだっけか? ひとつの石でネズミを……いや、鹿だっけか?」
「バーカ、そりゃ鳥だ鳥!」
勝ち誇ったように笑い出すギャング達。
その時、もう抵抗する力も残されていないかと思われたエレンが、最後の力を振り絞って自分の腕を掴むギャングに飛びかかった。
「この女っ! 暴れんじゃねぇ!」
武器を全て取り上げられたエレンだが、敵の腕に噛みつき、手の爪で顔を引っ掻いてまるで動物のように決死の抵抗を見せる。
「エリック、逃げて!」
全てはエリックが逃げる隙を作るためだった。
だがそんな彼女の考えに気付かないエリックは、幼馴染を救出しようと剣を構えて敵に突進する。
だがいくらルークに剣術を教わっていたとは言え、素人の付け焼き刃でギャングに対抗できるはずもない。
軽くいなされ、バランスを崩して転倒するエリック。
「ナメてんじゃねぇぞ、このアマッ!!」
エレンに引っ掻かれて血だらけになった賊は激高し、地に伏したエリックの目の前で彼女の胸にナイフを突き立てた。
血を吹き出しながら、力なく崩れ落ちるように倒れるエレン。
「あっ、この野郎何やってんだ! 殺したら売り物にならねぇだろうが!」
「そうは言ってもよぉ、この女爪で引っ掻いて来やがって……」
そんなやり取りをするギャング達などエリックの眼中にはなく、何とか身を起こした彼はナイフで刺されたエレンの下へ駆け寄る。
「エレン、しっかりしろ、エレン! 目を開けろ!」
気付けば、ファゴットの街とは逆の立場になっていた。
エリックが初めて異能力に目覚めたあの時は、刺されたのはエリックで、エレンが必死に彼に呼びかけていた。
その時エリックは再生能力のおかげで一命を取り留めた。
だがエレンには、そんな便利な力は備わっていなかった。
彼女はあくまで、普通の人間だったのだ。
「エレン……嘘だろ……?」
ぴくりとも動かず、見る見る冷たくなっていくエレンを前に、エリックは残酷な現実と向き合うことを強いられた。
子供の頃からよく知る娘、エレン。
家が近所でよく一緒に遊んで育ち、悪徳領主から疑いを向けられた時もやはり二人一緒だった。
今までもこれからも、ずっとそうやって二人で生きていくものとばかり考えてきた。
(けどエレンは死んだ! 俺が、俺が無力だったせいで……!)
打ちひしがれ、涙を流すエリックを他所に、ギャング達は話を続ける。
「あーあ、久々に女を捕まえたと思ったのによぉ。死体は売れねぇぞ」
「残りの男の方はどうする?」
「とりあえず、捕まえてボスのところへ連れて行こうぜ。サンドバッグくらいにゃなるだろ」
そんな中、エリックはゆっくりと立ち上がった。
右手には剣を握りしめたまま盾を捨て、その目に憎悪の炎を宿して。
「懲りねぇなぁ坊主も。そんなに死にてぇか?!」
相手は素人と侮ってかかった賊だが、エリックの踏み込みはベテランの剣士でも驚く程の速さだった。
一瞬で間合いを詰め、剣の射程に敵を収める。
「なっ……?! こいつ、動きが!」
そのまま剣で敵の短剣を弾き飛ばし、返す一太刀で袈裟斬りに胴を切り裂く。
エリックは獣のような雄叫びを上げると、次の敵へ向けて恐るべきスピードで斬り掛かって行ったのだった。
「はぁ……はぁ……っ。ルークさん、もうちょっとですから……!」
キラは息を切らしながらも、動けない程重傷のルークを肩に担いで、奇跡的に霧の森から脱出していた。
既に日は暮れており、月明かりがかすかに二人を照らす。
体力はとっくに現界を超え、走ることもままならず足元の木の根や小石に足を取られながら、緩慢な動きでも前に進んでいる。
当面の危機は脱したが、ルークは術の反動で全身に傷を負っており、今すぐにでも治療が必要な状態だった。
だが街までは遠く、キラ一人で連れて行ける距離ではない。
(このままじゃ、ルークさんが手遅れになっちゃう……! お願い、動いて私の身体……っ!!)
何とか山を降りられたものの、霧が晴れた先は見覚えのない細道だった。
この先に何があるか分からなかったが、村なり何なりに続いていると信じてキラは道沿いにあるき続ける。
これ以上は無理だ、と悲鳴をあげる四肢に鞭打ち、おぼつかない足取りで今にも倒れそうになりながら、ルークを案じる精神力だけで彼女は一歩一歩を踏み出していた。
(前にも、こんなことあったような……。あの時は私一人で逃げて……誰から? どこで?)
今の状況に奇妙な既視感を覚えたキラだが、次の瞬間激しい頭痛に襲われる。
朦朧としていた意識はついにそこで途絶え、ルークと共に崩れ落ちるように地面に倒れ伏すキラ。
それからどれほど時間が経ったか、夜が明けて朝になった頃、三人の人影が近くを通りかかった。
「いやぁ、付き合わせてすみません。この辺りには貴重な薬草が生えてるんですよ」
他二人にそう言いつつ先頭を歩く少年にも見える若者は、眼鏡越しに地面に目を凝らしながら歩き続ける。
その先で、行き倒れになったキラとルークを目にして、彼は素っ頓狂な声をあげた。
「ひゃあっ?! し、ししし、死体だぁー!!」
重傷を負ったルークは元より、それを支えてここまで歩いてきたキラも血まみれになっており、一見すると惨殺死体のように見えた。
若者は臆病なのか、倒れている二人を見た途端に飛び上がって同行者にしがみつく。
「まあまあ、いったん落ち着きなさい。まだ息があるかも知れない。診てみよう」
二人の同行者のうち、年配の男はそう言って青年を落ち着かせると、ぴくりとも動かないキラ達に歩み寄り、まず手首から脈を取る。
「よかった、まだ二人共生きている。修道院へ運んで手当しましょう。ヤン、君も手を貸してください」
それを聞いてほっと胸を撫で下ろした青年は、三人で力を合わせて意識不明のキラとルークを運んでいくのだった。
To be continued
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