第3話

「ジゼル! とっとと支度しないと遅れるよ!」


 マチルダの怒声が聞こえてきて、ハッとしたときには、絵の前でジゼルは無心になっていたことに気がついた。窓の外を見れば、とっくに日が傾き始めている。


「いっけない! 遅れちゃう!」


 ジゼルは慌てて道具を片付けると、どたばたと階段を駆け下りた。大慌てで離れの渡り廊下を抜けて母屋へ入る。仁王立ちしたマチルダが、まったくと言いたそうな顔をしていた。


「ごめんマチルダ、つい集中しちゃって……ってうわあ!」


 ポイっと放り投げられた服を受け取って、その重さにジゼルはすっころぶ。マチルダはどんくさいねと言いながら、困った顔をした。


「どうせ服の用意してなかっただろう? 見繕っておいたから、それを着てお行き」


 渡された服を見ると、しっかりとした上質な生地で作られた、男性の服だった。おまけに、髪の毛を隠すために、たいそうな羽飾りのついたバイコーンの帽子まであった。


「ありがとう、マチルダ!」


 ジゼルはそれらを持って自室へと引き下がり、たらいに入れた湯で身体を洗い、絵具を落としてから着替えることにした。ブラシで全身を擦って、汚れを落とす。作業着を着ていても、いつの間にかいろいろな所に絵具がくっついてしまうのだ。


 しっかりと洗い終わって、髪の毛を縛りなおす。上手くできなかったので、後でマチルダにやってもらおうと思い直して、まずはコルセットで身体を締めあげた。


「うっ……苦しい……」


 しかし、ジゼルはしっかりとコルセットを身体に巻き付ける。そうしなければいけない理由は、至極簡単。〈夢幻の若き巨匠〉ジェラルド・ピットーレ・リューグナーは、男性だからだ。


「うう、苦しい……でも仕方ない。リューグナーは男の子だもん。男の子じゃないと、アカデミーに作品を出せないんだから」


 ジゼルは巻き付けたコルセットのひもを締めて、一息ついた。女性的な体形を隠すため、コルセットは必須だった。それから服を次々に着ていき、きっちりとボタンをしめる。


 マチルダのところへ行って、バイコーンの帽子をかぶっても大丈夫な位置で、長い髪の毛をきれいにまとめてもらった。


「あら良かったねジゼル。誰も女の子には思ってくれないさ、その恰好じゃ」


「それはどうも。これを着て歩けば、男性だってみんな思うよね?」


「思うに決まってるさ、女性はみんな胸元あいたドレスなんだから。間違ってもその恰好にその帽子なんてかぶんないよ」


「なら良かった」


 ジゼルは心底ほっとして、鏡に映る自分の姿を見つめる。お化粧もしていないジゼルの顔は幼く、少年と言われれば少年に見えてしまう。くりっとした瞳が、さらに小年感を際立たせていた。


「まったく。こうまで大変な思いするなら、画家なんてやめちまえばいいのに」


「いやよ、私絵を描くのが好きなんだもん。これで生計を立てたいの」


「でもねえ、巷じゃ女流画家なんて認められないからね」


 マチルダの言葉に、ジゼルは諦めたように、苦笑いをした。

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