分岐点の先—逃れられない現実—

どこかのサトウ

 分岐点の先—逃れられない現実—

 朝のホームには大抵同じ顔ぶれが並ぶ。見かけないスーツ姿の男性や女性がいれば初顔だと分かるくらい平井恭介は同じ毎日を繰り返していた。

 電車がホームに到着し恭介は乗り込んだ。

『車内の奥へとお進み頂きますようよう、よろしくお願いします』

 停車するたびアナウンスが流れ、ぎゅうぎゅうと容赦無く人が押し込まれていく。

 朝の通勤ラッシュは地獄だ。だが我慢をすればそのうち目的地に着き、この苦行から解放される。そう思いながら吊り革を両手で握り恭介は揺れに身を任せていた。

『この電車は〜特急〜』

 また停車して人が乗り込んでくる。恭介の周囲には中年男性が陣取ったことで、今日はあの不安に苛まれずに済むと安堵した。これから特急区間に入り、電車は三十分ほど駅に止まらず走り続ける。

 彼は思った。こんな毎日がこれからも続いていくのだと——


 * * *


 今日の駅のホームには少し違う顔ぶれが並んでいた。特に目を引いたのは聖マーガレット女学院の生徒だった。品格と清純、そして知性を重んじる一貫校で、紺色のボレロ風の制服が特徴的なお嬢様学校だ。

 幼くも綺麗な顔立ちをしていて肩まで伸ばした艶やかな髪が似合っていた。男性の視線を奪うには十分なのだが、制服が発育の良さを隠し切れず拍車をかけていた。

 彼女はどうやら恭介と同じ車両に乗り込むようだ。

 電車が到着し乗り込もうとしたとき、さも自然な動きで恭介の後ろへとやってきた男がいた。

 初めてみる顔だな……

 平均的な成人男性の恭介より、ひとまわり大きな男だった。

 じろじろ見るのは失礼だと思い恭介は男から視線を外した。

 恭介は定位置である車両の奥に進むと吊り革を握った。空気の抜ける音がして電車が動き出す。ふと気づけば同年代の女性たちに囲まれていた。

 ——う、動けん!

 天国? 冤罪という言葉をご存知だろうか。痴漢の容疑がかかった時点で家族、関係者に多大な迷惑がかかり、無罪を証明するために会社を辞めなければならない。和解しても待遇の良い会社に転職できるほど恭介は優秀な人間ではない。逆に無実の罪を認めて逃げ出せば、当然会社にはいられず辞める羽目になる。社会からも弾き出されてバッドエンド。罪の十字架を背負い、社会を恨んで生きていくことになるのだ。

 恭介は意識しないように視線を遠くへやると、あの女の子がいた。青ざめた顔で不安そうにしている。ふと彼女の後ろに立っている男に違和感を覚えた。

 ——あれ、あの男って確か

 恭介の後ろに並んでいだ男だ。それが中央の扉付近にいた彼女の後ろに立っている。だが別段変わった様子もなく、いつもの満員電車の光景だった。

 ——なんかヤバイ気がするな。気のせいなら良いけど

 恭介は目を細める。彼女の表情は気になるが被害は受けていないようだ。周囲の反応も特に変わりなく、普段と同じだった。

 被害を受けたのなら声を上げるだろう。このとき、恭介は安易にそう考えていた。


 * * *


 次の日の朝、駅のホームには昨日と変わらぬ顔ぶれが並び、定刻通りにやってきた電車に乗り込むために恭介は左側の扉へと並んだ。だが扉が開いた瞬間、いつもと違う動きをした者がいた。

 あの女の子だ。中央の扉ではなく、わざわざ遠い恭介がいる方へやってきて、扉付近にある手すりを掴んだ。恭介はなんとなく彼女が乗り込むはずだった扉付近に目をやった。

 ——あれ、もしかして昨日の男か? えっ、ホームにいたっけ?

 距離があるため、顔までハッキリと分からないが、その立ち姿と雰囲気で恭介はそう判断した。

『出入り口の混雑を避けるため、車両の奥へとお進み下さい』

 人々が隙間なく押し込まれていく中、気が付いた恭介は鳥肌が立った。電車が止まるたび、男の距離が女の子に近づいていき、そして特急区間に入る頃には人一人隔てた場所まで迫っていたからだ。

 ——なんだあの男は!?

 あれは異質だと本能が告げる。電車が大きく揺れた次の瞬間、男がついに後ろへと辿り着いた。

『ご利用ありがとうございます。まもなく駅に到着します。お忘れ物のないようご注意ください』

 電車がスピードを落としていく。女の子の表情は安堵へと変化し、男は無表情のまま立ち尽くしていた。


 * * *


 今日もホームに到着すると、見知らぬ顔ぶれが数人いた。

 その一人であるスーツを着た女性は、ゆっくり歩いているスーツ姿の男性を目で追っていた。その男は膝上くらいのフレアスカートを履いた若い女性の後ろで立ち止まり携帯を取り出した。女性はそれを見て男の後ろにゆっくりと並んだ。

 恭介は視界の隅にあの男を捕らえた。壁に寄りかかりスマホを弄っている。だが男の視線はその女性を追いかけ、何やらぶつぶつと呟いている。

 ホームに人が増え始め到着のメロディーが流れると、スーツと私服姿の男が隣の車両へと移動していく。恭介はいつもと同じルーチンを熟す。

 扉が開き、一気に人が雪崩れ込む。涼介は吊り革を確保するため、いつもの定位置へ向かい、中央の扉から入った女の子の姿を追った。

 彼女は必死に周囲を見渡し安全な場所を探していた。扉付近、中央付近、車両の奥、そうしているうちに発車のメロディが流れる。男の姿はどこにもない。彼女がほっ胸を撫で下ろそうとした瞬間、彼女が乗り込んだ扉からゆっくりと、ゆっくりと確かな足取りで男が乗り込んできた。ギラギラとした目が彼女の身体を捉えていた。

 彼女は少しでも距離を取ろうと逃げるように人をかき分けて車両の奥へと進んでいく。男は大胆にその後を追いかける。

 ——おいおいおい、マジかよ!

 恭介の目の前に体を潜り込ませた女の子は、怯えた瞳で恭介を見上げた。

 そしてその視線を吊り革に向けると、彼女は恭介の目の前に陣取った。乱れた髪を振り、軽く手で身嗜みを整える。石鹸の香りが恭介の鼻腔をくすぐり、支えがないため電車が揺れるたびに恭介の胸に飛び込んできた。

 ——あぁ、これはまずい。いろんな意味で。

「す、すいません」

「あ、あぁ——」

 だが次の瞬間、邪な考えは一瞬で消し飛んだ。

 男が横に、恭介のすぐ隣に立っていたのだ。

 ——こいつ、いつの間に!?

 もはやホラーである。電車が動き出すとすぐに彼女の表情が変化した。悔しそうに何かに耐えていた。

 ついに始まったかと恭介は男を盗み見た。だが特段男に変化は見られない。だが現在進行形で犯罪が行われているのは間違いないはずだった。

 恭介は揺れに合わせるように、偶然を装ってその間に割り込んだ。

 はっと、女の子はこちらを見上げてくるが恭介は視線を合わせようとはせず、携帯を取り出し、左手で文字を打ち始めた。

 しばらくすると彼女はまた視線を落とした。何かに耐え始めたのを確認し、恭介は男の死角になるように携帯の画面を彼女に見せた。 

『助けはいるか』

 彼女は小さく頷いた。だがどうすれば良いのか。そうこうしている間にも、行為はエスカレートしているようだ。かなり巧妙でこれは相当な手練れと判断した恭介は素直に助けを求めることにした。

 周囲を見渡し、近くにいた男性の社員証を見て占めたと思った。

 すぐさま恭介は携帯に文字を打ち始めた。利き腕とは逆で上手く指が動かせずもどかしい思いをしながら、何とか文章を完成させる。

 電車はついに特急区間へと入った。ここから三十分ほど電車は止まらない。彼女は小さく首を横に振り始めたので恭介は動いた。

「あれ、中村さんじゃありませんか。お久しぶりです」

「えっ……?」

「KY商事の中村さんですよね! この前、お世話になった平井です」

「あっ……、あぁ〜平井さんですか。お久しぶりです」

 訝しげな表情で恭介のことを見ていたが、社名を出されたことで記憶を辿るように、中村という男は話を合わせてきた。

 話をするとなると体を動かさねばならない。恭介という支えを失った彼女が小さな声を出した。

「中村さん、これ見てくれませんかね」

 彼に携帯画面を見せた。

『女の子が痴漢されています。現場を確認したら手伝ってもらえませんか?』

「あ、あぁ〜なるほど。これは……凄いですね、なるほど……」

 そう言って、彼はちらりと彼女を盗み見て頷いた。

 恭介という壁がなくなり、大胆な行動に移った男は行為に夢中で周囲の警戒を怠っている。中村も恭介もしっかりと確認して頷き合った。

 携帯を操作し、悔し涙を流した彼女の視線に潜り込ませる。

『叫べ!』

「——この人、痴漢です!!」

 瞬時に恭介が男に掴みかかった。すかさず中村がそのフォローに入る。

「大人しくしろ!」

「な、なんだお前ら! 離せ!」

「——俺も確認したぞ! 間違いなく女の子を触っていた!」

「違う! 俺じゃない!」

 満員電車だったはずなのに、恭介達の周囲だけポッカリと空間ができた。

 大柄な男で二人で取り押さえることができず、周囲の人たちの協力でようやく身柄を取り押さえることができた。

 騒ぎを聞きつけた私服警官が隣の車両からやってきて、事情聴取のため次の停車駅で降りることになった。厄介ごとに巻き込んでしまった中村に恭介は何度も頭を下げ、連絡先を交換して別れたのだった。


 * * *


 男は性犯罪の常習犯だったようで、遺伝子鑑定から多くの余罪が確認された。

 警察は男の捜索に手を焼いていたそうで、犯人逮捕に貢献した二人に感謝状が贈られた。だが残念なことに恭介は会社を首になった。遅刻の言い訳があまりにも見苦しいと言われ、こんな会社こっちからやめてやらぁと辞表を叩きつけたのだ。

 中村とはこれも何かの縁と飲み友達になった。

「そういえば、被害者の子とそのご家族が君を探しているらしい。まだ会っていなかったのかい?」

「うん? ——そういえば会ってないな」

 思えばあれから電車通勤をしていないため、彼女と顔を合わせていない。元気にしているならそれで良いと恭介は思っていた。

 ふと窓の外を見た。一台の黒塗りの高級車が止まった。

「……すいません。ウーロン茶1つ」

 彼女とその家族が会いにきた。恭介はそんな気がした。


 〜 終わり 〜

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分岐点の先—逃れられない現実— どこかのサトウ @sahiri

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