3-6 賢者からの報酬
螺旋階段は、唐突に終わりを迎えた。
ここまで窓ひとつなく、ディルは自分がどのぐらいの高さまで上ったのか、もはや把握することを諦めていた。それでも今立っている場所が、そこらの教会の尖塔などを遥かに越えたかなりの高所であることは容易に想像できた。
先頭のクローディアが、階段の終着点となる両開きの扉の前で立ち止まる。
白色に塗られ細やかな金色の装飾が全体に施されたその扉は、まるでそれ自体が高価な芸術品のようだった。
クローディアは中央にあるノックハンドルを使い、コンコンコン、と扉を叩いた。
「客を連れてきた。入るぞ」
返事を待つことなく片側の扉を押し開くと、クローディアは一歩踏み入り、それから二人を招き入れるように脇へ避けて、部屋への入口を空けた。
室内の光景が視界に入ると、空気が一変した。
ディルは、先のアーケードを見た時同様に息をのむ。
眩い光が一斉に溢れだした。そんな印象だった。実際、階段の側よりも室内の方が明るいのだが、そういうことではなく、その華やかさが、ただただディルを圧倒した。
扉同様に白を基調とした部屋は、さほど広くもないのだが、所狭しと設えられた沢山の調度品や飾られたいくつかの芸術品など、それらが見事に調和し、何かの絵画でしか見たことのないような浮世離れした世界がそこに演出されていた。
ディルはひとつため息をつき、自らを落ちつかせようとするが、それでもまだ気圧されたままで、簡単に足を踏みだす気にはならなかった。
「失礼いたします」
フィオリトゥーラは一言告げると、やや緊張した様子を見せながらも臆することなく部屋の中へと進んでいく。
こいつ、流石だな……。
ディルは感心し、今更な話だが、やはり自分とは住む世界が違う人間なのだと、そんなことを再認識する。
だが、そんな彼女のおかげで、呪縛が解けたように気が楽になっていた。そうしてディルも、続いて部屋へと入っていく。
「――ようこそ、いらっしゃいませ」
奥から声が発せられた。そのソプラノの声はよく通り、たった一言でも、何か力を感じさせる強さを持っていた。
ディルとフィオリトゥーラは、二人揃って声のした方へと視線を移動させる。
部屋の奥、右側の壁には、見たこともないような大きな一枚板のガラスがはめこまれた窓があり、そこから入る太陽の光がこの部屋の中を照らしている。
そして、その窓の近くにそれを見つけた。
豪華な調度品たちの中に埋もれるようにして、人形のようなその姿があった。
「お待ちしていました。フィオリトゥーラに、ディルエンドね。初めまして。歓迎します」
鮮やかな群青色のドレスが、まず目に飛びこんでくる。瞬間、彼女の存在がこの部屋の中で突然浮き彫りになったような気がした。
それをきっかけに、白を基調としていたかに思えた室内の要所要所に、ドレスと同じ青色が配色されているのだと気づかされ、部屋全体の印象ががらりと変わる。
部屋の主は、小柄な少女だった。
椅子に座っているが、その背丈はフィオリトゥーラはもちろん、クローディアよりもさらに低いことが見てとれる。
真っすぐ垂れた長い黒髪は濡れたように艶やかで、花を模したドレスと、同色の大きく鮮やかな髪飾りが可愛らしく印象的だ。
だが、その顔を見た瞬間、単純に少女とは呼べない雰囲気がそこにあった。
冷たささえ感じさせる恐ろしく白い肌、それこそ人形のように整った顔立ち。常に見開いたような大きな目の中で、赤を帯びた深い色の瞳が、時を止めたようにこちらを見つめている。
幼い少女の可憐さを見せながらも、それと同時に見る者を緊張させる高貴さと、そして得体の知れない怖さがあった。
「クヴァルシス様とお見受けします。初めまして、フィオリトゥーラ・ランズベルトと申します」
名乗り、フィオリトゥーラが一礼する。ディルもそれに続いた。
「俺は、ディルエンド。ディルって呼んでくれればいい。つーか、やっぱもうこっちの名前とか知ってるんだな」
ディルは髪を掻きむしり苦笑する。それを見て、少女もくすりと笑った。
「そうですね。そのぐらいは、ここで座っているだけでも耳に入ってくるものよ」
少女は表情こそ変えたものの、それ以外は微動だにしない。
「私は、プレシャス=クヴァルシス。依頼を受けていただいて感謝します。よかったら、お二人とももう少し近くに寄ってもらえるかしら?」
フィオリトゥーラが先に進み、椅子に座る少女の近くへと歩み寄る。
ディルも、脇に立つクローディアや背後のヴァレルの様子をうかがいながら、同様に部屋の奥へと進み、フィオリトゥーラの隣へと並んだ。
「少し不自由な身体でして、このままで失礼させてもらうわね」
青いドレスの少女、プレシャスが二人の姿を見上げる。顔を少し上げるだけのわずかな動作でさえ、ひどく緩慢だった。
「はい、お構いなく」
答えるフィオリトゥーラの横で、ディルは、あらためてこの少女の姿を見つめた。
不自由。それは脚が動かないということなのだろうか?
座ったままということにかぎらず、全体的に彼女の動きに不自然な感じがあるのは確かだった。
脚だけではない。ここまで、彼女はその手さえまるで動かしていない。会話をするだけならば必要ないといえばそうではあるが、思えば瞬きすらほとんどしていないかもしれない。
「それにしても、アレだな。賢者なんて名乗るからには、隠居した爺さんでも待ってるかと思ってたんだが、〝賢者クヴァルシス〟があんたみたいのだったとはな」
再びプレシャスが笑う。
「期待外れだったかしら? 〝賢者〟だなんて、我ながらおこがましいとは思うけれど、一言でそれらしく印象づけるにはなかなか適した言葉だと思えたの」
ディルはそんな彼女の言葉を聞いた後、視線を大きな窓へと移す。そして、ガラス越しに見えるその風景を目にして、やはり、と思った。
「ここは城塞の中なのか?」
窓の外、その眼下には自分たちが先までいた旧街区とおぼしき風景が広がっていた。
くすんだ石造りの建物たちが、ここからだと随分と小さく見える。街の左側には、北部とを隔てる城壁が、どこまでも真っすぐに続いていた。
「ディル、それは依頼の報酬としての質問かしら?」
ディルはハッとし、慌てて口を噤む。
「ふふ。大丈夫、冗談です。そうね。貴方の言うとおり、ここは第二環状街を囲む城塞の中。私のような者が隠れ住むには、なかなか都合が良い場所なの」
ディルは再び髪を掻きむしっていた。プレシャスを前にして妙な緊張がどうしても拭えなかった。
「そういや、あんたのことはなんて呼べばいいんだ? クヴァルシス様とでも呼べばいいのかよ?」
「プレシャスで結構よ。〝クヴァルシス〟は、依頼主としてその名を使ってはいるけれど、実はあまり好きな名ではないの」
笑みを絶やさないプレシャスだが、一瞬だけその眼に鋭さを帯びたような気がした。まさか皮肉に反応したわけでもないだろうから、口にしたとおり、その名自体に思うところがあるのかもしれない。
「わかった。それじゃあプレシャス。早速で悪いが、本題に入らせてもらいたい」
そう、時間はないのだ。ここに来てからなんとなく浮き足立っていたディルだったが、先の彼女が口にした「報酬」の一言で、本来の目的へと急速に引き戻されていた。
「フィオ」
ディルは、くいと顎を上げ、隣のフィオリトゥーラへとうながす。
「プレシャス様。私たちは、貴女の依頼を達成したと考えてよろしいでしょうか?」
「ええ。間違いなく」
「それでは、慌ただしく申し訳ありませんが、早速報酬の権利を行使させていただきたいと思います」
フィオリトゥーラはそこまで言うと、一息ついてあらためて姿勢を正す。そして、彼女が口を開きかけたその瞬間だった。
「――盗まれた剣を探しているのですね?」
プレシャスが平然と言った。
動揺を隠せず、フィオリトゥーラは目に見えて狼狽し始める。
「ちょっと待った。あんた、人の心でも読めるっていうのかよ」
言葉を失ったフィオリトゥーラに代わり、ディルが言った。
心の中を読む――。そんなことがありえないとわかっていながらも、そう口にせずにはいられなかった。それこそ、今会ったばかりのプレシャスが剣が盗まれたことについて知っている、それ自体がありえないことなのだから。
こちらの名前程度であれば、事前に知る手段などいくらでもあるだろうが、それとは話が違う。昨日の出来事で教会や剣律にさえ届けていない案件なのだ。普通に考えれば、盗まれた側と盗んだ側にしか知り得る者はいない。
「ごめんなさい。別に驚かせるつもりはないの。急いでいるだろうと思って、私もつい先走ってしまいました」
プレシャスが申し訳なさそうに言う。
ディルは、あまりのことに何を言うべきかと逡巡するが、ふと見たフィオリトゥーラの様子に変化があった。
いつの間にかその顔から動揺が消え去り、視線は真っすぐにプレシャスへと向けられていた。そんな彼女の碧い瞳には、期待と希望の光が宿っている。
「すでに、ご存じなのですね……」
ディルは納得した。
唐突なプレシャスの言葉はこちらを驚かせ、ともすれば何かしらの疑念すら湧かせてしまう得体の知れないものだったが、しかしそれは同時に、自分たちが選んだ道筋が間違いではなかったと証明する言葉でもあったのだから。
「やはり、そのことで間違いないようですね。それでは、手短に済ませるためにも、まずは私から話をさせてもらいたいのだけど、こちらの二人にも聞かせて大丈夫かしら?」
プレシャスの視線が、フィオリトゥーラとディルの間を抜けて、扉の方へと向かう。
フィオリトゥーラが振り向き、ディルも背後へと視線をやった。クローディアとヴァレルは二人並んで扉の前に立っている。こうして見るとその身長差が激しい。
「私としては二人にも聞いてもらった方が都合が良いのだけど、この二人が信頼に足るかどうかを私から論じるわけにもいかないので、その選択は委ねます」
「心遣い感謝いたします。プレシャス様がそう言われるのであれば、こちらに何も問題はありません。どうぞこのままでお話しください」
フィオリトゥーラは迷わず即答した。ディルは、それを少し意外に感じた。
「わかりました。まあ、貴女とディルの関係もよくわかっていないし、具体的な名は出さずに話すので安心して。それにしても、〝様〟をつけて呼ばれるのは気恥ずかしいものね。フィオリトゥーラ。貴女もどうか、私のことはプレシャスとお呼びください」
言われてフィオリトゥーラはわずかな戸惑いを見せたものの、さほど間を置かずに答える。
「それでは、プレシャスさんと呼ばせていただきます」
「ありがとう。それで結構です。それでは、話に入ろうかしら」
フィオリトゥーラとディルは、二人揃って小さくうなずいた。
「一月半ほど前のこと――。私のもとに東からある情報が届きました。それによれば、さる御方が、剣術を習ったことも、それどころかまともに剣を握ったことすらないというのに、剣闘士として闘うべく聖地に向けて旅立たれたとのこと。また、さらに聞けば、それにともない〝ある物〟を自国から非公式に持ちだしたらしいとも……」
ディルは、ちらりと隣の様子をうかがう。プレシャスは他人事のように話すが、それは明らかにフィオリトゥーラのことだった。
「この話、私には直接関わりないことだろうと思いつつも、正直不安の種でもあるとも感じたわ。その人物、そしてその方が持ちだしたという物、この二つはアルスタルト、あるいは周辺に何かを起こすための因子としては、十分な要素と思えたから。それゆえに、以降一応気にかけてはいたのだけど、数日前、遂にそれらしき方が到着されたとの報告を受けました。もっともその時点でも、これについては私はただ心に留めておけばよいと、その程度で考えていたのだけど……」
話をする中でなんとなくさまよっていた赤い瞳が、フィオリトゥーラに焦点を定めた。
「その報告を受けたのは今朝のことでした。〝
プレシャスは、くすりと笑う。
「ここからはただの推測です。その〝ある物〟は、私の知るかぎりではこの聖地に二つしか存在していない。そして本来、それが所有者以外の手に渡ることなど考えられず、そうなれば、安易な思考ではあるけれど、あとから持ちこまれた方の所在に不安が残る。何せ、持ちこまれてからたった数日の話ではね。流石に失くすことはないにしても、奪われたか。それとも、盗まれたか……」
フィオリトゥーラは思わず唇を噛みしめる。
「私が口にすべきことではないかもしれないけれど、少し迂闊でしたね。フィオリトゥーラ」
「……はい。弁解の余地もありません」
目を伏せるフィオリトゥーラを見て、プレシャスが微笑む。それは、これまでにも増してひどく大人びた表情だった。
「いえ。私のような者に貴女を責める資格などありません。それに、これもひとつの勉強なのだと考えればよいのではないかしら。きっと貴女がそうすると決めたように、今は未来だけを見ることにしましょう」
「ありがとうございます。何もかもご存じなのですね……」
「まさか。興味を持った事柄が、たまたま貴女たちのことだっただけ。それに、私が知っているのは所詮ここまでです」
プレシャスはゆったりとした動作で首をかしげ、おどけた仕種を見せる。
事情に詳しいとはいえ、つまりは彼女も、その組織がフィオリトゥーラの盗まれた剣を入手しただろうことまでを把握しているに過ぎないようだった。
「――それで、お二人の知りたいことは、何かしら?」
あらためてそう訊かれ、フィオリトゥーラは考えてしまう。プレシャスがすでに知り得ていることの、何に対して質問すべきか。
だが、ディルはその質問を耳にした瞬間、唐突にプレシャスの意図を理解した。
「はは、そうだよな。俺たちは、あんたの『知ってること』を聞きに来たわけじゃない。俺たちが『知りたいこと』を訊きに来たんだよな」
「ええ、まさにそのとおりね」
「なら、望む情報なんて最初から決まってる。盗まれた剣の在処を教えてくれ」
ディルが言った。先のフィオリトゥーラがそうだったように、その眼が自然と輝いていた。
「そうね。現時点で私が把握しているかぎりでは、アレはまだ聖地から出ていない。ところで、今ある場所がわかったとして、あなたたちは自らの手でそれを取り戻すつもりかしら?」
「ああ」
「はい」
二人は同時に答える。
「ならば、少し時間を頂戴。アレが持ちだされるより前に、私からあなたたちのもとに情報を送ります。こちらとしても、このまま捨て置ける問題ではないと思っていたところ。取り戻すための最適な機会を提供することを約束するわ」
プレシャスは簡単に言ってみせたが、彼女が発したその言葉は、まさに「希望」そのものだった。
二人は顔を見合わせる。信じられないといった互いの表情を鏡でも見るように確認した後、ディルは笑みを浮かべ、フィオリトゥーラは泣きだしそうに瞳を潤ませながら、その顔をほころばせた。
「……さて、それでは私がそれを実行するにあたって、あなたたちにお願いしたいことがあります」
「なんなりとおっしゃってください」
プレシャスの言葉に、フィオリトゥーラが大きくうなずく。
「ここから戻った後、あなたたちは盗まれた剣の捜索を中断すること。そしてその後は、私からの連絡があるまで、どれだけ時間が経とうとも余計な動きはせず、ただひたすら待ち続けること」
フィオリトゥーラは一瞬考えこむが、ディルは彼女の言うことはもっともだと納得していた。
「不確定要素を減らしたいってことだろ?」
「ええ。私の方で情報収集をするにあたって、〝拝黒〟の者たちに余計なプレッシャーを与えてほしくないの。彼らが自分たちを探る誰かの存在を気にかけて動けば、それはそれだけ、私が剣の在処を把握することが困難になるものだと考えて」
「だよな。そうなると、ちょっと失敗したかもな……」
「誰か他にお仲間が捜索中かしら?」
「ああ。一人、別で動いてる奴がいるんだ」
「それならば、その方にも同様のことを伝えてもらえるかしら?」
「わかった。ただまあ、そいつはそういうのが得意な奴だからな。露骨に探れば向こうからも探られるってのは理解して動いてるはずだ。おそらく、今日だけの捜索でそっちの邪魔をするようなことにはなってないと思う」
「信頼できる方なのね」
プレシャスがくすりと笑う。
「まあな。もっとも俺たちは、これからあんたのことを、より信頼しなきゃならないんだけどな」
「そうね。こんな得体の知れない者からの連絡だけを頼りに待つのは不安でしょうけれど、そこは我慢して」
楽しそうに言うプレシャスを前に、ディルはやれやれと苦笑するが、フィオリトゥーラは違った。
「大丈夫です。私たちはプレシャスさんを信頼いたします。剣の捜索を中断すること、承知いたしました」
フィオリトゥーラがプレシャスを見つめ、はっきりとした口調で告げた。そんな彼女の表情からは、心なしかプレシャスに向けた親しみのようなものさえ感じられた。
今の彼女にとって、プレシャスが絶対的に必要な存在であるのは確かだろうが、それでもそれは、打算やすがっているからゆえ発せられた言葉ではないようだった。
「ふふ、ありがたい言葉ね。それにしても、フィオリトゥーラ。貴女の聖教音は見事なものね。ここでの生活が長い私よりも流暢ではないかしら。きっと貴女の前では、剣教の神官たちも慌てて身を正すことでしょうね。いずれ、それが有利に働くこともあるわ」
そんなプレシャスが使う聖教音も、ディルからすれば聖剣教の神官たちと遜色ないものとして聞こえる。
「そう言っていただき、光栄です」
『――ところで、
プレシャスは普通に会話を続けるように自然と口にしたが、それはディルがこれまで耳にしたことのない異国の言葉だった。
フィオリトゥーラは一瞬困惑するが、すぐに表情を戻し答えた。
『あまり得意ではありませんが、少しであれば……』
彼女もまた、明らかにこれまでと違う言語を使った。
ディルは、平然と外部の言語が発せられたことに思わずどきりとしてしまう。規則などに縛られることを比較的好まない彼だが、それでもすでに二年以上このアルスタルトで過ごした身として、それは当然の感覚だった。
『素晴らしいわ。それでは、貴女からいただいた信頼への感謝の意を込めてお話しします。すでにお気づきかもしれませんが、私は帝国縁の流れ者です。貴女様がそうであるように、私も色々と事情があってここにいます。それこそ、ラーシアル様が望めば〝クヴァルシス〟の名を知ることは容易でしょう。ただ、どうかしばらくは、このことをお忘れいただければ幸いです』
途中、「クヴァルシス」という単語だけはディルの耳にもそれとして届いたが、耳慣れない言語を前にして、何かを理解しようとする意識は到底働かなかった。
フィオリトゥーラは動きを止め、プレシャスを見つめる。
きっと、この人は本当に何もかも知っているのだろう。そう自分に言い聞かせれば、動揺はなかった。
「承知いたしました。ご心配は無用です」
フィオリトゥーラが答える。耳慣れたいつもの聖教音に戻っていた。
プレシャスはにこりと微笑むと、ディルへと視線を移す。
「ごめんなさい、ディル。今のは内緒話です。でも、いずれ貴方にもお話ししなければならない時が来ると、私にはそんな予感がしているの。だから、今はどうかお気になさらずに」
ディルは腹立たしさを感じなかった。隠し事をされたというよりは、まるで自分に関係のないどこか遠い国の話でも聞かされたような気分だった。
ディルは、ふと窓の外を眺める。
自分が今いる場所を再確認したいような気分からなんとなくそうしたのだが、そこであることに気がついた。
それは、太陽からの光の方向だった――。この部屋を照らしている陽光は、直接部屋に差しこんでいるわけではなかった。眼下の風景から察するに、この窓は北東を向いている。太陽の位置はおおよそ想像できた。
「まずいな……」
思わず呟いたディルに、プレシャスが視線を向ける。
「どうかしましたか?」
「ひとつ訊きたい。正午の鐘ってもう鳴ってるよな?」
時間の感覚を頭の中から消したつもりはなかったが、実際にはアーケードを目の当たりにしたあたりから、ほとんど意識できていなかったのも事実だ。
「そうね。あなたたちがこの部屋に現れるほんの少し前ぐらいだったかしら?」
「だよな。結構な時間、壁の中を歩いてただろうからな」
それを聞いてフィオリトゥーラも思いだす。ガルディアと屋敷に集合する時刻を決めていたことを。
「四の刻までに戻る約束でしたね」
「ああ。今となっちゃ別に急ぐ必要もないんだが、無駄に心配かけるのもなんだしな」
「あら、お急ぎかしら?」
早口で話すディルとは対照的に、プレシャスがのんびりした口調で訊ねる。
「だな。悪いが、早々に退散させてもらう。どうせあんたは、俺たちが住んでる屋敷についても把握してるんだろう? 戻ったら、大人しく連絡を待ってるから安心してくれ」
「そうですね。それでは、クローディア、ヴァレル」
彼女は、唐突に二人の名を呼ぶ。すでに振り向きかけていたディルは、それで動きを止めた。
「〝
プレシャスの指示を受け、クローディアが口元に笑みを浮かべる。
「了解。確かにあいつも少しは働かせないとな。フィオリトゥーラを連れていけば、きっと喜んで馬車を走らせるだろうしね」
隣のヴァレルは、あまり気の進まなさそうな顔を見せていた。
「馬車か。助かる」
ディルはそう言うと今度は振り向き、クローディアとヴァレルが並ぶ扉の方へと歩きだす。
「そういえば、ディル。貴方の報酬の方をまだうかがっていないけれど?」
「ん? ああ。いいよ。自分の力でここに来たわけじゃないしな。それに、俺の探し物は大したものじゃないんだ。そのぐらい自分でなんとかする」
「そう。それでは、報酬は預かりということにしておきましょう。気が向いたらいつでもどうぞ」
ディルは返事をせず、感謝の意で右手を軽く上げてみせた。
「プレシャスさん。それでは、連絡をお待ちしています。貴女にお会いできた幸運に感謝します」
フィオリトゥーラはプレシャスへと一礼する。
「私もよ。二人とも、これからは気軽にいらしてね。いつでも歓迎します」
赤い瞳が、二人を嬉しそうに見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます