3-3 クローディアとの闘い 1

 黒衣の剣士は、前に出していた足をゆっくり引くと、同時に右手も下げて体勢を戻す。ただし、足は前後に開いたままで構えを解いたわけではない。

退けません。私事で申し訳ないのですが、通していただきます」

 フィオリトゥーラが静かに、だが、力強く言い放つ。相手の性別がどうであろうと、彼女に動揺はなかった。

 左手に持った剣の先を石畳につけ、右手で革袋の封を解く。

 そのまま右手で革袋を押し下げようとした瞬間、向かい合う剣士の右腕が、わずかに予備動作に入るのが見えた。

 フィオリトゥーラの身体が、瞬時にそれに応じた。

 地を蹴り滑るように後方へ移動すると同時に、左から右へと両手剣を一閃する。

 その遠心力で革袋が放りだされると、カルダ=エルギムの美しい剣身が陽光を受け、冷たい光を放った。

 先に動きだしていたというのにレイピアを繰りだすことができず、剣士はただその様子を睨みつけていた。

もし構わず攻撃していたのなら、剣、あるいは右腕が、両手剣の餌食になっていただろう。

 フィオリトゥーラは、右に振った剣をゆっくり円を描くように戻すと、正面に構える。

 大きく後方に退がったため、後ろに下げた右足の踵が、背後にある廃墟の石壁に触れた。もうこれ以上後退することはできない。

 間に両手剣の間合いを空けたまま、二人は動けずにいた。

 黒衣の剣士が、わずかにその瞳を動かす。視線の先、少し離れた場所にはディルの姿があった。

「悪いな。また来ておいてなんだが、今日はそいつが相手だ」

 そう言うと、ディルは近くの建物の壁に背を預ける。腰のシミターの柄には手をかけず、闘う意思がないことを示した。

 剣士の視線が、フィオリトゥーラへと戻る。

「お名前を聞かせていただけますか?」

 フィオリトゥーラが、緊張した面持ちのまま訊ねた。

 わずかな間を空けた後、黒衣の剣士は小さな声で呟くように答えた。

「……クローディア・サンセット」

 その時、フィオリトゥーラはふと、違和感を感じた。その原因が何かもわからないまま、自身が構える両手剣の握りを強めると、それで意図せず剣先がかすかに動いた。

 そのわずかな動作に反応して、黒衣の剣士、クローディアが止まった。

 そう、止まった。

 つまり彼女は動いていたのだ。ディルに視線を移動させた時から今までの間に、信じられないほどゆっくりと、少しずつ。

 おそらく十センチにも満たない程度の距離だが、それだけ右足を前に滑らせていた。

 フィオリトゥーラは息をのむ。違和感に気づかなければ、いつの間にか相手側の間合いに近づいていたかもしれない。

 この剣士は、きっと様々な仕掛けを持っているのだろう。

 壁を背にしたこの場所で、ただ待てば不利なことは明白だった。とはいえ、未知の敵を相手にこちらから仕掛けてどうにかできるとも思えなかった。

 だが、そもそも彼女に用意された戦術などはない。ゆえに、覚悟を決めるまでに時間はかからなかった。

 斜めに向けた両手剣を引き寄せ、剣先を真っすぐ空へと向ける。それと同時に右足で地面を蹴り、トン、と一歩踏みだす。攻撃意思がない分、意外にも簡単に間合いを詰めることができていた。

 もっとも、到達したそこは、クローディアのレイピアの間合いなのだが。

 またかよ――!

 ディルは思わず身震いする。

 フィオリトゥーラは、両手剣を胸元に引き寄せ立てている。ラモンの時と同じだった。しかも、今度は自ら相手の間合いの中へと飛びこんだのだ。

 意表を突いた動きを前にしても、クローディアは躊躇しなかった。足を踏みださず膝だけを軽く落とすと、その場からレイピアの突きを放つ。

 フィオリトゥーラは、上体をひねり左肩を引いた。

 シュン!

 刺突剣の一撃は速い。視界の端で、肩があった場所をすでに突き終え戻ろうとする剣先が見えた。

 シュシュッ!

 引き戻された後、間髪入れず、さらに速度を増した次の攻撃が迫る。

 見えているのか見えていないのか、自分ですらよくわからないまま、フィオリトゥーラは首を左右に一度ずつ傾ける。

 左右続けて耳元で音が鳴った。レイピアの剣先が間近の空気を切り裂き、その感触が頬に触れた。構えた両手剣越しだというのに、その軌道は正確に顔面を捉えようとしていた。

 まだ? 来る?

 瞬きも呼吸もできぬまま、フィオリトゥーラはクローディアの右腕を凝視する。先の二突きよりも大きく肘を引く動作が見えた。

 咄嗟に左足に力を込める。それは、次の一撃をかわしながら右へと回るための予備動作だった。自ら間合いを詰めたとはいえ、後方に下がる場所は少なく、移動するならば横に回るのが理想的だった。

 だが、引き戻されたレイピアの剣先が突然向きを変える。

 右ッ⁉

 フィオリトゥーラは、反射的に身体に指令を送った。止まれッ、と。

 放たれるレイピアの一撃を前に、左足に込めた力を抜きながら、辛うじてその動きを抑えた。

 瞬間、右上腕のすぐ脇を、レイピアの剣先が通りすぎる。

 ひやりとしたものが背筋を走った。フィオリトゥーラ自身がイメージしていた動きの先を狙われたのだ。動いていれば、丁度胸の辺りを貫かれていただろう。

 攻撃の手はやまない。

 フィオリトゥーラは右肘をたたみながら、今度は右向きに上体をひねった。

 レイピアの剣先が再び右腕の脇をかすめた後、一瞬で引き戻される。

 限界が近い――。

 絶え間ない攻撃を避けながら、フィオリトゥーラは自身の状態を悟り、激しい危機感を覚える。もう、崩れかけた体勢を維持することだけで精一杯だった。このまま続けば、もはやそれすらも……。

 その時、目の前の動きに変化が起きた。

 レイピアの軌道が見慣れないものに変わる。これまで直線的に動いていたクローディアの手が、唐突に外側から弧を描いた。

「フッ!」

 鋭い呼気とともに斬撃が繰りだされる。

 下ッ⁉

 目で追う暇はなかった。フィオリトゥーラは、クローディアの動きからの予測だけで、前に出していた左足を持ち上げる。

 わずか数センチの隙間を空けて、レイピアの剣身がその下をくぐった。

 シュオンッ!

 刃が空を切る音を耳にしながら彼女は、クローディアもまた息を止めたまま攻撃を繰りだしていたのだと理解し、思考する。ならば、ここに間があるはずだと。

「ハッ!」

 自身も残りの息を一気に吐きだすと、上げた左足を叩きつけるように地面に落とし、同時に両手剣を左から右下へと、可能なかぎりコンパクトに振り下ろす。

 それは一瞬で、ほとんど直線的な軌道を短く描いた。

 先のフィオリトゥーラのように、今度はクローディアが慌てて後方へと跳び退る。その目が驚きに見開かれていた。

 目先を変えた足への斬撃は、次の連続攻撃に移るための繋ぎでこそあったものの、振りの大きい両手剣に割って入らせるつもりなど、毛頭なかったのだ。

 クローディアが後退したのを見て、フィオリトゥーラはゆっくりと構えなおす。

 先までと違い、右足を引いて身体を横向きに開くと、相手に左肩を向けた状態で、両手剣を右脇に構えた。その剣先は天を差し、真上より少しだけ前に傾いている。

 クローディアはその構えを見て、さらに数歩下がった。狭い路地の方へは戻らず、フィオリトゥーラから見て右側へと移動する。

 二人はほぼ同時に息を吸い、そしてゆっくりと吐きだした。

 相変わらず、ツーハンドの速さじゃねえな……。

 ディルは壁に背を預けたまま、ゆっくりと息を吐く。気がつけば、自身もまた呼吸を止めたまま、その攻防を見守っていた。

 二人は今、この通りの向きそのままに正対している。間の距離は、試合の開始位置と丁度同じぐらいだろうか。

 先に動いたのはクローディアだった。

 レイピアを斜め下に構え、フィオリトゥーラ同様に右肩を前に出した姿勢のまま、すすっと間合いを詰めようとする。

 だが、それをフィオリトゥーラが許さなかった。

 剣先がぴくりと動いたかと思うと、両手剣が一呼吸で右から左、今度はほとんど横薙ぎに近い軌道で、二人の間の空間を切り裂く。

 クローディアは前に出した右足で地面を蹴ると、すぐさま元の位置まで後退していた。

 剣を振り抜いたフィオリトゥーラは、勢いそのままに身体を一回転させると、また元の構えへとぴたりと戻る。隙のない流麗な動きだった。

 様子を見るためだったとはいえ、その剣撃の速度、そして自身のレイピアとは比較にならない圧力を前にして、今度は顔色こそ変えなかったものの、クローディアは密かにその背筋を震わせた。

 そして彼女同様に、ディルもまた戦慄を覚えていた。

 ほんと、速え……。

 内心で呟きながら、彼は同時にフィオリトゥーラの剣の扱いにも感心する。

 どれほど考えているのかわからないが、フィオリトゥーラは剣を縦に振っていない。ディルは自身の経験上、それを有効な手段として認識している。

 剣の自重を全て使える振り下ろしは、その威力、速度こそ十分だが、相対する相手は左右どちらへも回避が可能だ。そうなれば、振り終わりを狙われるリスクは高い。対して横や斜めの攻撃は、威力、速度こそ落ちるものの、相手に回避行動をさせた場合、ほぼ後退を余儀なくさせる。攻撃をしながら抱えるリスクの差は明白だ。

 特に、盾が使えない両手剣では、縦に振るというのは決定的な一打、あるいは何かの布石でなければありえないとさえディルは考えていた。

 クローディアの額から、一筋汗が流れた。

 眼前のフィオリトゥーラは、構えたまま微動だにしない。

 この距離から飛びこんだ場合、どれほど速く間合いを詰めようと、あの反応、あの速度の両手剣を前にして、まず先手はとれないだろう。そして斬撃を受ければ、その一撃で致命傷はまぬがれない。

 これまでにクローディアが相対したことのある両手剣使いとは、まるで別格だった。

 体格、そして腕の細さからは信じられないような剣の速度……。

 また、集中力も凄まじい。目の良さだけで、ああまでレイピアの連撃を回避できるものではない。

 静かな碧い瞳が、こちらを見つめている。

 闘いが始まった頃にうかがえた緊張した様子など微塵もなく、気負いも、怒りも、恐れも、何も感じることができない。

 すううう、とクローディアは長く細い息を吐く。

 レイピアを斜め下に構えたまま、トン、トトン、と彼女はその場で小さく跳ねる。その動きに合わせて、コートの裾が揺れた。

 そのまま、トン、ト、トトン、と、彼女は右に左に揺れ動く。規則的なようでいて不規則なステップだった。

 とにかく先手をとらなければ勝機はない。

 クローディアが間合いを少し詰めた。だが、先ほどフィオリトゥーラの剣先が描いた軌道の辺り一歩手前に近づくと、彼女はすぐにまた元の位置に戻ってしまう。

 フィオリトゥーラは思わず、柄を握るその手に、かすかだが力を込めていた。

 続いてクローディアは、トントンとステップを保ったまま、フィオリトゥーラから見て右側にするすると回りこんでいく。ただし、その距離は変えない。あくまで両手剣の間合いの外を行く。

 フィオリトゥーラは足を滑らせ、構えを崩さずに相手へと向きを合わせる。

 長いコートの裾がクローディアの脚の動きのいくつかを隠すため、先の予測が難しかった。

 右に回りこむかに思えたクローディアが、唐突に左に戻る。

 次の瞬間、レイピアを手にした右手の肘が引かれ、同時にクローディアが左足で地面を蹴った。

 ――来るッ!

 フィオリトゥーラは全身に力を込める。先と同様に剣を横に薙ぐため、剣先がぴくりと動いた。

 だが、クローディアはその場で大きく真上に跳ねただけだった。

 意表をつかれたフィオリトゥーラは、慌てて動きを止める。つられて剣を振ってしまえば、振り終わりを狙われてしまう。

 咄嗟にそう判断しての行動だったが、しかし、それが悪手だった。

 見た目上は構えを崩していないフィオリトゥーラだが、クローディアは着地すると同時に、そんな彼女を前に無造作に間合いを詰めていく。

 まだ距離はある。接近するクローディアの姿を目で捉えながらも、しかし、フィオリトゥーラは剣を動かすことができなかった。

 元よりその心積もりであれば、一度剣を止めた後、すぐさまコンパクトに振ることもできただろう。だが、彼女は一撃に集中して、そしてそれを全力で止めてしまった。構えが崩れずとも、それではもう剣は出ない――。

 クローディアの思惑どおりの展開だった。

 仮にもし勢い余って剣を振られてしまった場合、飛びこむことはできても、相手の咄嗟の判断で、回転してからの二撃目などが繰りだされるかもしれず、そこに巻きこまれてしまうことも考えられた。

 だが、彼女はフィオリトゥーラの反応の良さを逆手に取ったのだ。

 わずかな駆け引きの末、あっさりとクローディアは自らの距離を獲得した。

 再び、レイピアの間合いで攻撃が始まる。

 胸元に二回、続いて剣を持つ手を狙ってレイピアの突きが放たれるが、またしてもフィオリトゥーラは、後退するでもなく器用にそれを避けた。

 今度は、両手剣の攻撃を割りこませるわけにはいかない。

 クローディアは三度の突きを終えた後、意図的にわずかな間を置く。そして、フィオリトゥーラの動きを観察した。

 自身の攻撃を当てることよりも、反撃を許さないことを優先させる。その上で、攻撃の間隔をコントロールしながら、相手が動きだすまでのタイミングを計る。

 そう意識しながら、次の突きを放った。躱される。相手が動きだせるまでの隙。まだ、その間は把握できなかった。

 そこからは真に連続した突きは放たず、息も巧く継ぎながら、微妙に間の異なる一度ずつの攻撃に切り替えていく。ただし、一度ずつとはいえその間は短く、ある意味絶え間ない攻撃ともいえた。

 クローディアが一突きすると、フィオリトゥーラが躱す。その繰り返しが始まった。

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