3-2 十三番区

 屋敷を出ると、ディルを先頭に二人は環状路を使って北に移動していく。

 目的地は、第三環状街東部十三番区。

 十三番区は、東門から続く中央通りを中心に扇形に展開する第三環状街東部の中で、北西の端に位置する街だ。かつては東部四番区と呼ばれていたが、変更され、区画改変後の今は「旧街区」と呼ばれることが多い。

 十三番区と聞いても、フィオリトゥーラにはどの程度移動するのか想像がつかなかったが、ディルの話によれば、屋敷のある十番区からの距離は、先日訪れた商業地域のある一番区と比べればいくらか近いらしい。

 朝の陽光が照らす環状路を、二人は進んでいく。

 建物の影に覆われた通りの右端を選んで、ディルは歩いていた。そのペースは速く、ディルよりも歩幅が狭いフィオリトゥーラは、もはや小走りに近い状態でそのあとを追った。

 目的地までの三分の二ほどの距離は、移動のみに集中して時間を稼ぎ、残り三分の一の間で呼吸を整えながら、そこで事前の説明も行う。

 そんなディルからの指示を受けているため、フィオリトゥーラは、ただひたすら歩くことだけに全神経を集中していた。

 随分と進んだ。

 荒くなってくる呼吸。足に感じる疲労も次第に増していく。

 屋敷を出て、どのぐらい経っただろうか? まだ二の刻の鐘は鳴っていない。

 ふと顔を上げると、通りの先には、東部と北部とを隔てる城壁がいつの間にかその姿を現していた。

「一旦、関所前の広場まで出るぞ」

 先を行くディルが告げる。

 少し前に見た標識から、今は十五番区の中を歩いているのだとフィオリトゥーラも認識していた。十五番区は東部北端の地区で、そこには北部地域に通じる関所が存在する。

 やがてその場所に到着すると、ディルは足を止めた。

「少しだけ休憩にする」

 同様に足を止めたフィオリトゥーラは、呼吸を整えながら周囲を見渡す。

 環状路の途中がそのまま膨れて円形の広場になったこの空間は、広々としていて、第七教会のある広場にも似ていた。商業区とは比べるべくもないが、まばらというには少し多い人の往来があり、また、広場に面している建物の多くはなんらかの店のようでもあった。

 広場の向こうに続く環状路の先には、城塞がそびえ、目を凝らせばそこに大きな門が確認できる。

 壁の高さはおそらく十メートルほどはありそうだが、この第三環状街に初めて足を踏み入れた際に見上げた、都市の外壁となる城壁と比べれば、街を隔てるこの壁はその半分の高さにも満たないだろう。 

「ここから先はペースを落とす。おまえに合わせるから、呼吸を整えながら体力も温存しろよ」

 ディルは「少しだけ」と言ったが、休憩は本当にわずかな時間のみだった。

 もっとも、フィオリトゥーラにとってもその方がありがたかった。今、自分に与えられている時間に一切の余裕などないのだから。

 早々に広場をあとにすると、環状路と比べて随分と細くなった路地を、二人は先に見た城壁と平行に進んでいく。今まで歩いてきた道からは左に九十度曲がった形だ。

 路地に入った途端、人気は極端になくなり、少し奥に進んだだけで、もうすれ違う通行人の姿さえほとんど見なくなっていた。

「最初に言っておくが、ここから先では荒事が待ってる」

 ゆったりとした歩調で、ディルとフィオリトゥーラは並んで歩いている。すでに呼吸も整い、彼女は落ちついた様子でディルの言葉に耳を傾けていた。

「今から行く場所には、賢者様の門番みたいな奴がいてな。そいつの領域に踏みこんだら、問答無用で仕掛けてくる」

「つまり、依頼を達成するためには、その方と私が闘わなければならないのですね」

「ああ」

 ディルは答えた後、何かを考えるように一旦視線を逸らす。

「そうなると、鎧を身に着けてきた方がよかったのでしょうか?」

 フィオリトゥーラが、自身の胸の辺りに手を当てながら言った。彼女の服装は外出用のチュニックのままで、試合の時に使用した鎧や戦闘服は装備していない。

 ディルは、無言でフィオリトゥーラを見つめる。

 口にはしなかったが、彼はこの先で待つレイピア使いの剣士との闘いを、自分がすべきか彼女に任せるべきか悩んでいた。

 ディルとしては色々と闘いづらい相手だけに、どうすべきか決めかねていたのだが、そもそもフィオリトゥーラにとって、そんな選択肢はないようだった。 

「おまえ、一人で闘うつもりか?」

 ディルはあえて訊いた。

「お話を聞くかぎり、相手はお一人のようですので」

 そうか。こいつはそういう奴なんだな。

 本来ならば打算があってしかるべきと、ディルは考えてしまう。

 確実に遂行するためには、どちらが闘うべきか検討する余地はあるはずだし、そもそも二人で同時に闘うという手段もある。だが、フィオリトゥーラは、自身が一人で相手と対峙することを当然と考えていた。

 俺が無知なだけで、貴族のお嬢様ってのはこういうもんなのか? いや、そもそもお嬢様は闘わねえか……。

 ディルは、隣を歩くフィオリトゥーラの姿を眺める。両手剣を背負って動きやすい外出着を身につけているものの、彼女は相変わらずの可憐なお姫様だ。

 その姿を眺めながら、あの雨の日のことを思いだす。

 激しい雨音。薄闇の路地。鼻先をかすめる鋭い連撃。

 黒いコートをまとった華奢なシルエット。そして、あの眼……。

「どうされました?」

 こちらを見たまま言葉を発さないディルの様子を怪訝に思い、フィオリトゥーラが訊ねた。

「悪い、鎧の話だったな」

 ディルは話を戻しながら思う。丁度いい相手か、と。少なくとも、できれば自分は闘いたくはなかった。

「はい」

「相手は、レイピアを使う剣士だ。俺の見解で悪いが、鎧は邪魔になると判断してあえて言わなかった。レイピアはわかるか?」

「はい。片手で扱う刺突剣に刃がついたような細い剣ですよね?」

「ああ。レイピア相手じゃ、全身を鎧で固めるならともかく、一部だけ守ってもあちこち攻撃されちまうからな。むしろ動きが鈍る分、中途半端な装備ならしない方がいい」

 フィオリトゥーラが納得したようにうなずいた。

「ツーハンド(両手剣)と、レイピアか」

 ディルは呟き、その攻防を頭の中で軽く思い描いた。

 試合場のような広い場所ならまだしも、さほど広くないあの場所では両手剣の不利は間違いないだろう。

 もっともそれは、互いがセオリーどおりに闘った場合の話であって、少なくともラモンと闘った時のフィオリトゥーラの闘い方は、両手剣のセオリーからは程遠かった。

「正直役立つとも思えない程度だが、他にわかってることも話しておくか?」

 フィオリトゥーラは一瞬考えこむが、すぐに首を横に振る。

「大丈夫です。相手が使う武器がわかっただけで十分です」

 少し前であれば、必要以上の情報を得ようとしない彼女の姿勢は無謀ゆえと思えたかもしれない。だが、今はそれでいい。むしろ、ディルからしてもそれは正しい判断に思えた。

 あまりにも情報が少ない場合、事前に何かを考えたところで結局は想定外のことばかり起きてしまう。それならば、最低限の情報だけを元に、その場で柔軟に対応した方が無難というものだ。

 柔軟に対応しようと強く意識していても、何かしら事前に考えていると、意外にその落差を埋めることは容易ではない。意図せず対策が期待にすり替わってしまうことはよくある話だ。

 ディルは、ふと足を止める。

「ここから旧街区だ」

 フィオリトゥーラは、眼前に広がる十三番区の街並みを眺めた。この場所から先は少し傾斜して下っているために、その街全体の様子が一望できた。

 すり鉢状の地形の中、無数の石造りの建物たちが不規則にひしめきあっている。その石壁や路地は薄汚れ、まだ東側からの日差しを浴びているというのに、見る者にどこか薄暗い印象を与えた。

 続く街並みの果てには、こちらと第二環状街とを隔てる城塞と城壁がそびえている。

 この場所からならはっきりと見えるそれは、まだかなりの距離があるというのに、その巨大さがよくわかった。第三環状街を囲う都市の外壁でさえ、あれとは比較にならないだろう。

 この聖地の本当の城塞や城壁はあそこなのだと、フィオリトゥーラは今更ながら実感した。

 そして、そんな巨大な城壁を背にしているせいか、この十三番区の街並みは、囲われた場所に放りこまれ散らばった無数の瓦礫の山のようにも思えてしまった。

「貧民街ってほどじゃないが、ここも近いものはあるからな。目的地に着くまでも注意しろよ」

「承知しました」

 フィオリトゥーラが答えたその時、遠く城壁の向こうから、二の刻を報せる鐘の音が聞こえてきた。


 ここまで歩いてきた通りが途絶えると、そこからはより狭い路地を進んだ。

 これまでにフィオリトゥーラが見たアルスタルト内の道路は、そのほとんどが石畳で舗装されていたが、この十三番区では反対にそのほとんどが舗装されておらず、土や砂がむき出しの路地が続く。

 石造りの家々はそのほとんどが一階建ての背の低い建物ばかりだったが、路地は二人並んで歩くのがやっとといった狭さで、建物の密集度も高く、そのため一度入ってしまえばもう、今歩く道の前後以外で街の様子をうかがうことはできなかった。

 先に建物だけを好き勝手に並べて、その後にその隙間を路地としたのか、道は非常に複雑で、真っすぐに続くことは少ない。

 少し歩けばすぐに曲がり、ふと眺めた脇道の先は袋小路であったりと、この街はまるで迷路のようだった。

 そんな迷路のような道を、ディルは特に迷う様子もなく進んでいく。

「このようなところの道順を、よく覚えていられるものですね」

 感心して、フィオリトゥーラが言った。

「まあ二回目だしな」

 ディルはあっさりと答えるが、地図でもあるならともかく、前に一度来たからといって、この複雑な道を迷いなく進むのは容易ではないだろう。

「そういえば、ひとつ訊こうと思ってたんだ」

 ディルは振り向かずに、やや後方を歩くフィオリトゥーラに向かって言う。

「なんでしょうか?」

「今更でなんだが、おまえ、賢者の依頼の報酬、よく信じる気になったよな」

 唐突な問いに、フィオリトゥーラはすぐに答えられずにいた。

「俺は賢者、つまりは依頼主の存在自体にはかなり確信を持ってる。だが、報酬に関してはわからないってのが正直な感想だ。どこの誰かもわからない奴がやって来て、そいつの望む情報がどんなものかもわからないのに、それを与えられる。そんなのは普通に考えたらありえない話だろ?」

「そう、ですね。ただ、ここまでの道中で私なりに考えてもみました」

「どんなだ?」

 ディルはすかさず訊ねる。

「その報酬を可能とするためには、依頼主は、初めから膨大な知識や情報を有している、または、報酬を求められた後に、そのことについて情報収集をして答える自信がある。そういったことではないかと」

 フィオリトゥーラは、あまり自信はないといった様子を見せながらも、自身の考えを述べた。

「あるいは、そのどちらもか。まあ、俺の考えも大体似たようなもんだ。おそらく、賢者様を探してる俺みたいな奴のことも、向こうではすでに把握してるんじゃないかってな」

 右に左に路地を曲がりながら、ディルは話を続ける。

「思うに、この依頼はその賢者様の人材探しか何かなんだろう。達成後には新たな依頼があるかもしれない。そう考えれば、奇妙な話とはいえ納得がいく」

「そうかもしれませんね。ただ、私がここまで来た理由は、そういった推理に基づいたものではありません」

 そんな彼女の言葉を耳にして、ディルは足を止め振り向いた。

「賢者の話を聞いて、私は『貴方の案に賭ける』と言いましたが、あれは誤った言い方でした。正しくはディル、私は貴方自身に賭けたのです」

 そう言ったフィオリトゥーラは、真剣な眼差しをディルへと向ける。

 強い視線。しかし、その表情は硬いものではなく、むしろどこか微笑んでいるようにさえ見えた。

「あの時に私は、ディルがこの件について抱く期待のようなものを感じました」

「期待? 俺が?」

 身に覚えのないことを言われ、ディルはそのまま聞き返してしまう。

 確かに「手応えを感じている」とは口にした。だが、それは何かしらあるのだという感触を得たというだけの話で、期待している自覚などはなかった。

「そうです。私にはそのように映りました。もし仮に、貴方の案がこの賢者の話よりもっと途方もなく、まるで信じがたい話だったとしても、それでも、あの時と同じ眼をディルが見せたならば、私はやはりその案に乗ってしまうだろうと思います」

 今度はディルが答えられずにいた。

「私は、貴方が見ている先に何かがあると確信したのです」

 そう言いきると、彼女は微笑んでみせる。

 つまり彼女は、ディル自身さえ自覚していないようなディルの勘を頼りにしたというのだ。

「……おまえ、本当に滅茶苦茶だよな。他人の勘を、勘で信じるっていうのかよ」

「はい。そういうことになりますね」

 そんな明るい返事を耳にしながら、ディルはくるりと向きなおし、フィオリトゥーラに背を向ける。

「はッ、面白え。自分でも知らないうちに俺がそんな顔をしてたって言うなら、きっと、あの剣士を倒した後には何かがあるんだろうよ」

 ディルは、再び狭い路地を先へと歩きだす。

 不思議な話だが、そう言われたことで、急に期待のような感覚が自身の内に現れていた。やはりそれは、自分自身が知らずに抱いていたものなのかもしれない。

 そこからしばらくの間、二人は言葉を交わすことなく黙々と歩き続けた。

 気がつけば、正面と右手、十三番区に面した両方の城塞がさらに近くへと迫っていた。

 正面に見える第二環状街の外壁はその巨大さと堅牢さをさらに印象づけ、またそれより小さな城壁とはいえ、東部と北部を隔てる壁に至っては、すでにもう少し歩けばその場所に到達してしまいそうなほど、間近な距離感を見せていた。

 複雑な路地を通り抜けながら、いつの間にか二人は、二つの城壁が交わる街の隅にあたる地点へと近づいているようだった。

 迷路のような道を迷わず進むディルに感心していたが、彼の記憶力のよさもさることながら、目指す場所は、ある意味でわかりやすい方角にあったのだということを、フィオリトゥーラは理解する。

 実際、相変わらず判断は早いものの、少し前からディルは周囲の風景を確認し、そして慎重に道を選ぶようになっていた。目的地は近いのだろう。

 建物の隙間から見える巨大な崖のような城壁を、フィオリトゥーラは歩きながら、ぼんやりと眺める。

 ここまで近づいてみて、さらに実感できた。その高さは圧倒的で、やはりこの都市の外壁すら遥かに凌ぐことは間違いない。  

「こうして見ると、本当に巨大な城壁なのですね」

「ん? ああ。第二環状街か。向こうとこっちじゃ世界が違うからな。まあ、おまえみたいな上位申請の連中なら、あの壁の向こうで暮らすのも可能なんだろうけどな」

 ディルはあまり興味がないのか、どこかつまらなさそうに答える。

「ディルは、第二環状街に行かれたことはあるのですか?」

「ああ。上の闘技場で試合があるか、もしくは観戦目的でなら通行許可が下りる。ガーデンの試合を観る時ならさらに上、大教会のある聖地の中央区域までも入れるぜ。ただし、向こうを拠点とするとなると話は別だ。俺たちみたいな剣闘士が〝第二〟に居を構えるなんてのは、〝A〟にでも上がらないとまず無理な話だろうな」

 ディルの話を聞きながら、フィオリトゥーラはもう一度城壁を眺めた。

 自身が第二環状街で生活する権利があることも、ランズベルトから母国を出る前に説明を受けており、当然その選択も委ねられていた。だが、彼女はあえてそれを選ぶことはしなかった。

 しばらくは第三環状街で試合をしなければならないだろうことからの利便性の面もあったが、何より、そのような特権を得たとしても、結局のところ剣闘士としては最下層からスタートしなければならず、仮に第二環状街での暮らしを選択した場合、その落差が良い方向に働くとは思えなかったからだ。

 もっとも、その選択の先に今の状況が待っていたのだが……。

 それでも何が正解なのかはわからない。過去においてはもちろん、今この時点においてすらも。


「そろそろ着くぞ。準備しておけよ」

 ディルが告げると、フィオリトゥーラは急速に今置かれた状況へと引き戻されていく。自身の身体が緊張していくのがわかった。

 背負っていた両手剣を下ろすと、それを革袋に入れたまま左手に持つ。

 建物の間の細い路地の先に、左右に横切る少し広めの通りが姿を覗かせていた。そこは、これまでと違い石畳で舗装された道のようだった。

「抜かなくていいのか? もう近いぜ」

「もう少し様子を見させてください」

 ディルは、ゆっくりと通りへ足を踏み入れる。革袋に覆われた両手剣を手にしたままフィオリトゥーラもそれに続いた。

 二人は通りに出ると右に曲がり、そこからさらに少し歩を進めた。通りの道幅は、これまで来た路地の倍程度の広さだった。

 もしここで剣を振るうとなれば、方向によっては、振ること自体はできても両手剣の間合いを維持することは難しいかもしれない。

 路地を出てからそれほど歩くことなく、二人はこの通りの終点に辿り着いた。そこは、三方を石造りの建物に囲まれた袋小路となっていた。

 周囲の建物はところどころが朽ちていて、人の気配がまるで感じられない。十三番区の中でも、この一帯は人が住まない廃墟のようだった。

 ディルが、袋小路を囲む建物の一角を指差す。

 そこには隙間があり、人一人が通れる程度の幅の路地が存在していた。この袋小路から、ただひとつ先へと続く道……。

 フィオリトゥーラがその路地に気づいたことを確認すると、ディルは顎をくいと上げて、そこに「いる」のだと合図する。

 フィオリトゥーラはひとつうなずいた後、路地の入口には近づかないよう慎重に移動しながら、通りからその奥の様子をうかがった。

 すでに時刻は正午近く、陽光はほとんど真上から降りそそいでいるが、路地は狭いため、その中は建物の影で覆われている。

 それでも、そこに誰かがいるのがわかった。

 人影は、腕を組み、壁に背を預けて立っていた。こうして実際に目で確認するまでは、そこに人の気配は感じられなかった。

「――フィオリトゥーラ・ランズベルトと申します。賢者クヴァルシス様にお会いしたく、こちらまで参りました!」

 よく通る大きな声で告げたその瞬間、人影が壁から背を離し、こちらを向いた。路地の影の中、左腰に吊るした鞘から、するりと細身の剣が引きだされる。

 人影の右手の先で、その剣身が鈍く光を放った。しかし、フィオリトゥーラはまだ剣を抜かず、そのまま路地の入口へと近づいていく。

「ここを通していただけませんか?」

 そのまま彼女は、無造作に路地の中へと足を踏み入れる。

「おいッ!」

 慌ててディルが声をかけた。だが、路地の中で、人影はすでに動きだしていた。

 パンッ、とコートの裾が跳ね上がり、大した予備動作もなくレイピアの切っ先が消える。

 眉間の辺りに突然氷でも当てられたような感覚が走り、フィオリトゥーラは何かに弾きだされたように後方へと跳躍していた。

 一瞬遅れて、鋭い剣先が彼女の額があった空間を貫く。

 フィオリトゥーラが着地したのと同時に、目の前で剣先が揺れた。やがて、突きだされた細身の剣が、こちらを向いたままその動きを止めた。

 右足を大きく前に踏みだし、右腕を目一杯伸ばした突き終わりの姿勢のまま、レイピアを手にした剣士がフィオリトゥーラを静かに威嚇する。

 全身を覆う黒いコートの上からでもそれとわかるほど、その体躯は華奢だった。青い瞳が瞬きすらせず、レイピア越しにフィオリトゥーラを凝視している。

 フィオリトゥーラも同様に動かず、路地から姿を現した剣士の姿を見つめた。

 釣り気味の大きな目に、高く尖った鼻。猛禽類を思わせるような鋭い顔立ちだが荒々しさはなく、その顔に合った凛とした細い眉や固く結ばれた紅い唇が、むしろ独特な気品を感じさせる。

 髪は色の濃い金髪で、それなりの長さがありそうだが、邪魔にならないためにか、全てまとめあげられて後頭部に団子状に束ねてあった。

 体格は細身で、背丈はフィオリトゥーラよりも幾分低い。足首まで覆うほど長い裾を持つ黒色のコートをまとい、同色のグローブとブーツを身に着けている。

 頭の先からつま先まで全てが整然とした装いで、見る者を思わず緊張させるような隙のない印象を放っていた。

「……退け」

 低く抑えた声だが、その剣士の声は明らかに女のものだった。

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