2-3 嫌な予感
フィオリトゥーラは、降りそそぐ陽光に目を細めた。
西へ傾きかけながらも、太陽はまだまだ容赦なく街を照りつけている。ふと見た足元の路上には、自身が作りだす影が色濃く落ちていた。
四の刻の鐘の音を聞いてしばらく経った頃、二人は酒場「千の剣」をあとにした。
ディルは、初めて口にした微発泡の赤ワインがよほど珍しかったのか、褒めているのかけなしているのかわからないような感想を口にしながらも、結局ひと瓶を一人で空にしてしまった。
「どうする? 何か探したい物でもあれば付き合うぜ」
人混みの中、先を行くディルが少し歩調を緩めながら、背後のフィオリトゥーラへと問いかける。相変わらずの喧騒の中、二人は商業区の通りを来た時とは反対の帰路となる方向に下っていた。
フィオリトゥーラは、酒場に向かっていた時同様に辺りを見回すが、建ち並ぶ商店がこれだけ多彩でかつ混沌としていると、いざ何かを探そうと考えてみてもなかなか浮かぶものでもなかった。
「大丈夫です。このまま帰る道すがら、何か気になるものでもあれば声をおかけします」
フィオリトゥーラは少し歩幅を広げ、すれ違う人の間にすっと身体を入れると、先を行くディルの隣へと並んだ。
「あの、ひとつよろしいですか?」
そのまま歩きながら訊ねる。ディルは隣に並んだ彼女を見ると、先ほど緩めた歩調を変えずに進んだ。
「なんだよ」
「ディルが闘っている姿を見た時、私は貴方が三人とも斬ってしまわれるものだと思っていました」
相変わらず彼女は唐突な話の切りだし方をする。
「はッ。そんなに容赦なく見えたかよ」
ディルは、そう言って笑った。
「いえ、違うのです。あの時、三人全てを斬ってしまうのが、私にも正しい選択に思えたのです。だからこそ、意外でした」
「意外、か。まあ、全員斬る気だったしな」
フィオリトゥーラが不思議そうな顔をして、目を瞬かせる。
「それではなぜ?」
「なぜもねえよ。あいつが命乞いをしたのが、たまたま俺が止まるのに絶妙なタイミングだっただけだ」
フィオリトゥーラはそれを聞き、考えこむように一瞬だけ視線を宙に向けた。
「あの後、彼らを助けたことも偶然ゆえなのですか?」
彼女の「なぜ」にはその疑問も含まれていた。
ディルは一旦向かいから来た通行人を避けると、またフィオリトゥーラの隣へと並ぶ。
「別に人を斬ること自体が好きなわけじゃないからな。剣が止まったのはたまたまだったが、俺はあの時点で俺に対する脅威が消えたと判断した。で、そうなったらあの場所は、ただそこに怪我人が転がってるだけの状態だろ?」
だから、自分を襲った者を助けるような真似をした。そういうことらしかった。
ディルは当たり前のことのように話すが、それは十分に珍しい物の考え方ではないかとフィオリトゥーラは思う。
敵とはいえ最初から助けるつもりであれば、ああも容赦なく剣を振るうことはできないだろう。実際、一人の命は奪っている。
殺さずに済むならと加減をして剣を振るう者、反対に容赦せず剣を振るいその後にその敵がどうなろうと一切気に留めない者。あの時のディルは、そのどちらでもなかった。
フィオリトゥーラは、隣を歩くディルを覗きこむようにして見つめた。
「ディルは私を変わり者のように扱いますが、貴方もなかなかのものだと思います」
「なんでだよ。そんな変なことじゃねえだろ」
「いいえ、面白いです。私も貴方を見習いたいと思いました」
顔をほころばせ、楽しげにそんなことを口にするフィオリトゥーラに対し、ディルは明らかに不服そうに眉をひそめた。
「変わり者って言うなら、フィオ。おまえ、ザリが怖くないのかよ。あんな話を聞いて平然としてるのは、それこそ十分変わってるぜ」
フィオリトゥーラがディルの行動を不思議に思っていたように、ディルはディルで、ザリとの対戦が明らかになっておきながら、それについて特に何も語らない彼女が不思議でならなかった。
「普通に考えたら、かなりやばい相手だろうな」
ディルは前を向いて呟きながら、横目で彼女の表情をうかがう。
「そう、ですね。怖いです」
フィオリトゥーラの顔から笑みが消えていた。だが、真剣さを帯びたものの、その眼差しに怯えの色は見られなかった。
「怖いって言いながら、そうでもない感じだよな。自信があるのか?」
「いえ。お話をうかがったかぎりでは、私の道はここで途絶えてしまうかもしれませんね」
そう言った彼女は、おどけるように微笑んで見せた。それは少し憂いを含んだような、初めて見せる表情だった。
思わずどきりとして、ディルは発しかけた言葉をのみこんだ。
「ただ、それでも私の心は落ちついているのです」
フィオリトゥーラが唐突に足を止める。ディルは彼女より少し前に出たところで、同様に足を止め、彼女へと振り向いた。
「この地を目指すと決めた時から、どのような脅威が私の前に立ちはだかったとしても、例え私の力がそれに及ばないとしても、私はありのままの私をもってそれに対峙するだけだと、そう覚悟を決めてまいりました」
立ち止まった二人を避けながら、通りを行く人の波は変わらず流れていく。
「自信はありません。けれども、敵を怖いと感じる私の心に対して、それでよいと納得しているもう一人の自分があるのです」
フィオリトゥーラは自身の胸に手を当てた。
「――対峙する敵は決して人とはかぎらない。人智を越えた魔物であるかもしれない。だが、大事なことは、敵が何であるかではなく、我が全力をもってそれと相対する術と心を常に準備し、そして発揮すること」
誰かが誰かへと教え伝えるように、フィオリトゥーラが抑揚なく語った。
「私の中にあるひとつの教えです。もっとも、私が直接教えを受けたわけではなく、また到底それを違わず実践できるものでもないのですが。ただ、そうありたいと日々心がけています」
その思想が、この地で一人挑む彼女を支えているのだろうか。
「それ、誰の言葉なんだ?」
「私の兄が師から授かった言葉です。兄は、よく私に語ってくれました」
答えてから、フィオリトゥーラは寂しげに微笑んでみせる。
彼女の兄という存在。それは、ディルが初めて聞く彼女の身の上にまつわる話だった。
「おまえの兄貴も剣士なのか?」
「はい。あ、いえ……、違いますね。兄は剣士でしたが、私はそうではありません。私は、ただ剣を振るっているだけの者に過ぎませんから」
謙遜なのかそれとも剣士としての兄を立てるためなのか、よくわからない言いまわしだったが、最後の方は消え入るように言うと、フィオリトゥーラはそこで口を噤んだ。
ディルはさらなる質問を口にしなかった。
彼女の身の上などへの興味がないわけではなかったが、ここから先は気軽に踏み入ってはいけない領域なのかもしれないと、そんな考えがふと脳裏をよぎったからだ。
「まあ、まだ日はあるしな。ザリがどんな奴なのか、試合が近づけばもう少し情報も出てくるだろ」
「そうですね。私もこれからは必要な情報を耳に入れて、試合に役立てたいと思います」
明るく答えるフィオリトゥーラの顔には、ようやく見慣れてきたいつもの可憐な微笑みが戻っていた。
ディルは少し安堵した気分でそんな彼女の様子を眺めると、くるりと向きを変え、再び歩き始める。
そしてまた、先までと同様に滑らかに人混みの隙間へと滑りこんでいく。
それを見たフィオリトゥーラは、慌てて小走りで追いつくと、ディルの背後について同様に歩きだした。
だが、次の瞬間、唐突にディルが足を止めた――。
遅れて反応したフィオリトゥーラは、その背中にぶつかりそうになりながらも、なんとか寸前で停止する。
ディルが慌てて後方へと振り向く。その視線はフィオリトゥーラではなく、もっと遠く、人混みの中へと向けられていた。
「――おいッ、ソロン!」
何事かと声をかけようとしたフィオリトゥーラが口を開くより先に、ディルが大声でその名を叫んでいた。
フィオリトゥーラも慌てて振り向くが、この人混みの中、ほとんど顔を見たこともない者の姿を探すなど不可能なことだった。
「ここで待ってろ!」
ディルは人混みの中に飛びこんでいく。あっという間にその姿が消えた。
戸惑いながらも、フィオリトゥーラはディルが進んだ方の通りの様子をうかがう。
緩やかな上り坂になっているため、人混みの中を行くその姿は時折確認することができたが、それも最初のうちだけで、やがてディルは彼女の視界から完全に消えてしまった。
指示されるまでもなく、状況が把握できないフィオリトゥーラはその場で立ち尽くしていた。
ソロンの名を呼んだ声といい、足を止めた後のディルは明らかに切迫した様子を見せていた。それは、ただ知り合いを街中で目撃しただけというだけの反応では到底ありえない。
どうすることもできず、フィオリトゥーラはディルが消えた方角を眺めたまま待ち続ける。何もない場所に立ち止まっている彼女を、足早に移動する通行人が慌てて避けた。不服そうな舌打ちが聞こえた。
それからディルが戻ってくるまでに、それほどの時間はかからなかった。
「駄目だ、完全に見失っちまった。この中で探すのは流石に無理があるか」
少しだけ呼吸を乱したディルは、その呼吸を整えながら、今自分が戻ってきた方向を眺めている。
「ソロンさんを、見かけたのですか?」
「ああ。一瞬だったが、あれはソロンだった。相変わらず悲愴なツラして歩いてやがった」
答えるディルに、フィオリトゥーラはあらためて感心した。ソロンはともかく、仮にガルディア、あるいは自分がよく見知った人物がこの人混みの中ですれ違ったとしても、注意もせずそれに気がつけるかどうか。
「それにしても、どうされたというのですか?」
ソロンを見かけたことに何か問題でもあったのか。そういう意味でフィオリトゥーラはディルへと訊ねた。
彼女からすれば、屋敷の部屋にこもったままだったソロンが外に出たのなら、それはよいことなのではないかと、そんな風にも思えていた。
「嫌な予感がする」
ディルは、自身が行動した理由を簡潔に口にした。
「どういうことなのですか?」
楽観的な考えを浮かべていたフィオリトゥーラだったが、深刻そうなディルの様子につられその顔を少し曇らせる。
「あいつは登録を目一杯延ばしたから、試合まではまだ三週間以上ある。前回の試合は形勢不利と見て簡単に降参しちまったらしいから、負けたとはいえほぼ無傷だ」
「それならば、次の試合こそはと早めに準備を始めるべく、外出されたのではありませんか?」
「俺はソロンが何考えてるかなんてわからないが、違和感がありすぎる。身体に不調もなく時間の猶予もある奴が、あんな状態からこんなに早く切り替えられるとは思えねえ」
それは矛盾しているのではないかと、フィオリトゥーラは思った。
「ソロンさんの考えがわからないのであれば、どのような行動をされていたとしても、不思議ではないと思うのですが」
そんなフィオリトゥーラをディルが睨みつける。
「うまく説明はできねえよ。とにかく嫌な予感しかしねえ」
「それはつまり、〝勘〟ということですか?」
皮肉ではなく、素直に驚いてフィオリトゥーラが訊いた。
「ああ、ただの勘だ。だけど、俺はこんなことも頼りにして生き延びてきたからな」
ディルは真剣な表情で答える。理屈が通らないような考え方だが、フィオリトゥーラにそれを否定することはできなかった。
思えば、先の酒場であった出来事も、ディルは最初に感じた違和感を頼りに行動して切り抜けたのだ。
「馬車を使う。急いで屋敷に戻るぞ」
ディルはそう告げると反転し、再び人混みの中へと歩きだした。
商業区の通りを下りきった場所、中央通りと環状路が交わるその交差点の一角に、三台の馬車を前に待機させている臙脂色に塗られた木造の建物があった。
ディルは、建物の扉を開けて中へ声をかけると、慣れた様子で素早く手続きを済ませる。
二人が建物の前で待機していると、すぐに一台の馬車が手配された。馬車の御者台には、白いローブ姿のよく日焼けした初老の男が座っている。
「十番区だ。頑丈な荷物だと思ってくれていいから、目一杯飛ばしてくれ」
客室に乗りこみながら、ディルが御者へと伝えた。
フィオリトゥーラはというと、なぜか自身の前に停められた馬車を不思議そうに見つめている。
二頭立てで簡素な客室を持つ馬車だった。客室には二人掛けの席があり、日除け程度だが一応屋根もついている。それは、彼女が知る人を運ぶための馬車と比較すると、なんの装飾もなくあまりにも質素でかつ貧弱な造りをしていたが、彼女が不思議に思ったのはそういったことではない。
「何してんだ、早く乗れよ」
ディルに急かされると、フィオリトゥーラは背負った剣を下ろして、急ぎながらも優雅な仕種で馬車へと乗りこむ。
「依頼されて人を運ぶ馬車があるのですね」
客席に座るなり、彼女は隣のディルへと訊ねた。
「はあ? 〝
「はいよ!」
ディルが告げると、御者からの返事と同時に馬車が勢いよく走りだす。そこからは、話しかける余裕など一切なかった。
依頼を受けて客を目的地まで送り届ける「辻馬車」というものが彼女の母国には存在しないため、フィオリトゥーラは初めて見るその職業、仕組みに興味を持ったのだが、道中の馬車はまさにディルの指示どおりの走りを披露したため、そんなことはすぐに頭の中から吹き飛んでしまった。
速度もさることながら、その振動はひどいものだった。御者は客の要求に忠実で、まさしく二人は頑丈な荷物として扱われた。
油断すればあっという間に舌でも噛んでしまいそうなひどい揺れの中、フィオリトゥーラは、抱えた剣を取り落とさないよう、また自身が馬車から転げ落ちないよう必死に座席へとしがみつく。
隣のディルは、そんな彼女と比べれば随分と余裕があるようだったが、それでも話すほどの余裕はないのか、黙って馬車が進む先を見つめていた。
道行く人やすれ違う馬車などを右に左に避けながら環状路を猛然と走り続けると、二人を乗せた馬車はやがて、屋敷のある十番区へと到着する。
馬車は、ディルの指示で屋敷の門前に停車した。
陽は少し傾きかけた程度で、まだ五の刻の鐘も鳴っていない。往路に比べれば半分の時間も使っていないだろう。
「いい腕だな。助かったよ」
ディルは御者に十数枚の銀貨を手渡すと、素早く飛び降りる。その様子を見て、フィオリトゥーラも剣を抱えたまま、慌てて客車から降りた。
「どうも! あんたらもあれでよく落ちなかったな。大したもんだ。よかったらまた使ってくれ」
御者は笑顔でそう言うと、そのまますぐに屋敷の前で鮮やかに馬車を反転させ始める。
ディルは軽く手を上げて御者に挨拶すると、去り行く馬車の姿を見届けることなく、足早に屋敷の正面玄関へと向かった。フィオリトゥーラもそれに続いた。
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