第二章

酒場「千の剣」~事件

2-1 千の剣

 真っすぐに続く大きな通りの遥か先には、いくらか霞んではいるものの、第二環状街を囲む巨大な城壁の姿がはっきりと見てとれる。

 城壁の向こうでは、聖地の頂へと続く街並みの遠景と、ここからでもまだまだ小さくうっすらとしか見えない大教会の尖塔が、屋敷から見るよりも幾分大きなその姿を覗かせていた。そしてその背後には、広大な深い群青色の空がどこまでも続いている。

 わずかに傾斜して上っていくこの通りは、信じられないほどの数の人の姿で埋め尽くされていた。また、それらが生みだす喧騒が辺り一面を隙間なく覆っている。

 広々とした環状路とほぼ同等の道幅を持つこの中央通りだが、あまりの人の多さに、ただ普通に歩くだけでも、すれ違う人とぶつからないよう右へ左へと移動しなければならない。また、人だけではなく、時には荷馬車が人混みを押しのけるようにして通りの中央を割って進んでいくこともあった。

 そんな人々が賑わうさまは、先日の九番区闘技場の光景にも少し似ていたが、それがここでは、一キロメートル近く続くこの商業地区の通り全てに渡って続いているのだ。

「……凄い」

 思わず足を止め、フィオリトゥーラが呟きをもらした。

 緩やかに傾斜しているだけに、少し見上げればどこまでも続く人の波が一望でき、その光景は彼女を圧倒した。

 ガルディアが「商業地区は人の数が凄い」と話していたが、実際のそれは彼女の想像を遥かに超えていた。

 事前にそう聞いていなければ、何かしらの祭りか催事の最中かと思えてしまうほどで、彼女の母国の首都でさえ、何事もない日常でひとつの通りにここまでの人が集まることなどなかった。

「おい。そんなところで止まってんなよ。置いてくぞ」

 前を行くディルが振り向く。彼は丈の短いブラウンのチュニックに下はゆったりとした濃いグレーのブレーという出で立ちで、腰には例のシミターを下げている。ブレーは騎馬民族発祥の服で、動きやすくホーズより着脱も簡単なために、剣闘士の間ではこれを好んで履く者も多い。

「あ、はい」

 フィオリトゥーラは再び歩きだした。

 そんな彼女の服装は外出用の臙脂色のチュニックで、革袋に納められたカルダ=エルギムの両手剣を背負っている。服装にはこだわりがあるのか、昨日と異なり今日は細かい刺繍の入った水色のアンダーチュニックを中に着こんでいた。 

 第三環状街東部一番区。

 東部最大の商業区域を有するこの地区では、東西を横断する中央通り沿いに無数の商店が立ち並び、日常から大勢の市民が集まり賑わっている。

 ディルは慣れた足取りで、人混みの中を縫うように進んでいく。

「そういえば、今日は、ガルディアさんは一緒ではないのですね」

 ディルのすぐ右後方からフィオリトゥーラが尋ねた。彼女ははぐれないようにと歩幅を広げて、必死に彼のあとを追っている。

「ん? ああ、あいつは今日は試合だからな」

 ディルはあっさりと答えた。

「今日? 試合なのですか?」

 フィオリトゥーラはその返答に驚き、思わず聞き返してしまう。

「もうとっくに終わってる。二の刻に開始って話だったからな」

 二の刻を報せる鐘は、二人が屋敷を出てしばらく後に鳴っていた。ちなみに、この東部一番区に着くまでの間に、鐘は二の刻、正午の刻と二回鳴っている。途中で教会も経由しつつ、二人はかなりの距離を歩いてきたのだ。

「ディルは、ガルディアさんの試合に、同行されないのですか?」

「見に行ってどうすんだよ? まあ、あいつが次の対戦相手だっていうんなら話は別だけどな」

 フィオリトゥーラにとって、それは意外な答えだった。二人の仲の良さからして、互いの試合の際には必ず同行して観戦するものだと思っていたからだ。

 不思議そうな顔を見せる彼女を見て、ディルは察して付け加える。

「おまえの時は、俺とあいつの興味の対象が重なっただけだ。まあ、あの場合は当然っちゃ当然だけどな」

「そういう、ものなのですね」

「まあ深く考えるな。俺らは気まぐれだからな。昨日やったことを今日もやらなきゃならないって決まりはないだろ?」

 ディルの言うことは確かにそのとおりなのだが、これまでとは逆に、フィオリトゥーラの感覚からすれば、それはやはり不思議でならなかった。

 目的とする場所が決まっているのか、ディルは脇目も振らずに歩き続ける。

 そんな彼のあとを追いながらも、フィオリトゥーラの視線は通りすぎる左右の店々へと自然に吸い寄せられてしまう。 

 通りに並ぶ商店の種類は多彩だった。

 大声で価格の安さや品質などを宣伝しながら肉や野菜などを売る店があれば、すぐ隣の店先には様々な武具が並べられ、その向かいでは衣類を扱う店が、店先にまで溢れるほどの様々な服を並べて販売している。

 かと思えば、少し進むと店の様相は変化し、今度は店先に商品を並べていない小綺麗で上品な店構えの店舗が増えてくる。それらは、扉の上部に掲げられた看板が扱っている商品を示しており、皆何かしらの専門店のようだった。

 また反対に、両開きの扉が開け放たれ店内の様子が見えるにもかかわらず、あまりに雑多に様々な物品が詰めこまれていて、もはや何を売る店なのか判別がつかないような店すらもあった。

 そして、そんな多種多様な店のほとんどには、誰かしら客の姿があり、時には人だかりで様子がわからないほどの賑わいを見せている場所もある。

 フィオリトゥーラはそんな街の様子に、ただただ目を見張った。

 やがて、周囲に並ぶ他の店の敷地三つ分ほどはある、大きな白い石造りの箱のような建物の前まで来ると、ディルがそこで足を止めた。

「ここだ。入るぞ」

 一旦立ち止まった後、ディルは店の扉を開けて中に入っていく。

 店の外に掲げられた大きな吊り看板には、ジョッキと剣をモチーフにした絵が描かれている。察するにそこは酒場のようだった。

 看板を縁取る装飾文字を読むと、それがこの酒場の名らしく、「千のつるぎ」と書かれてあった。


 店に入ると、中はかなり広々としている。

 店内には所狭しと沢山のテーブルが並べられ、それらのほとんどを男たちが囲み、そして彼らは思い思いに、ジョッキやコップ片手に何事か声高らかに話したり喚いたりしている。

 外よりも一段増した喧騒のせいなのか、それとも漂う酒や料理の香り、あるいは客たちが放つ匂いゆえか、店内の空間はなんとも不思議な熱気に満ちていた。

 通りの人混みを見た時もそれを連想したが、こちらはその雰囲気までもが、闘技場の光景をより強く思いださせた。

 ディルは立ち止まらず、奥のカウンターに向かって歩いていく。

 フィオリトゥーラは店内に充満する熱気に気圧され、思わず足を止めていた。

 店内を見渡せば、客たちはそのほとんどが何かしら剣や武器らしきものを携帯し、または傍らに置いていた。

 表の看板に剣が描かれていることといい、ここはそういう酒場なのだろう。

 フィオリトゥーラは、慌ててディル同様に奥のカウンターへと向かう。店の中だが、外の通り同様に人にぶつからないよう避けながら進む必要があった。

 客たちの中には、店内を歩く彼女の姿に気がつくと露骨に視線を注ぐ者もいた。

 カウンターの左端、壁際の席にさも当然といった風にディルが座っていた。

 隣が空いているので、フィオリトゥーラはきょろきょろと周囲を見回しながら、おそるおそる席につく。背負っていた両手剣は下ろして傍らに立てかけた。

「よお!」

 唐突に野太い男の声がしたかと思うと、カウンターの向こうにいた大柄な男がこちらへと歩み寄ってくる。

「そろそろ来る頃と思ってたぜ、ディル」

「休養期間も終わったからね。いい加減準備を始めないと」

 近くに来ると男の巨大さがよくわかった。その身長は百九十センチ近くあり、体格もそれに見合ってがっしりとしている。無精髭を生やした髪の短い男で、初老というにはまだ少し若い。

「休養期間、か。相変わらず自分のルールを守ってやってるんだな」

 男はそう言って笑う。穏やかな表情をしているがなかなかの強面だ。もっとも、その印象は荒くれ者といった風ではなく、どちらかといえば規律の中にある軍人のそれを思わせる。

「まあね。一応これで勝ってんだから笑わないでくれよ」

「確かにそうだな。ところで、隣のお嬢さんはおまえの連れか?」

 男は一度視線をフィオリトゥーラへと移した後、またディルを見て言った。

「ああ、こいつは剣闘士デビューしたばっかの新米だよ。俺らと同じでスラクストンのところに部屋を持ってる」

「なるほどな。剣を背負ってなきゃ、おまえが何かやばい商売にでも手を出しはじめたかと勘違いしてたな」

「なんだよ。詐欺師とか?」

 ディルが無邪気に笑ってみせると、男も再び笑う。ディルのそんな表情をフィオリトゥーラは初めて見た。

「この人はここのマスターのライマー。俺がここに来てから色々と世話になってるおっさんだ」

 ディルの言葉を受けて男、ライマーがあらためてフィオリトゥーラへと視線を向ける。

「ライマーだ。ウチに来る客で、あんたみたいのは滅多にいない。大歓迎だ」

「フィオリトゥーラ・ランズベルトです」

 フィオリトゥーラが名乗り会釈をすると、ライマーの表情が笑顔から軽い驚きへと変わった。

「そうか。あんたがフィオリトゥーラか。昨日の試合、凄かったらしいな。ここまで話が届いてるぜ。確かに噂どおりの美人さんだ。話半分と思って聞いてたんだがな」

 ライマーはそう言って、再び笑顔を見せる。フィオリトゥーラは少し困ったように微笑み返した。

「マジか。昨日の今日でもうここまで話が来てんのかよ。〝D〟の試合だぜ?」

「ウチの若いのがえらく興奮してたからな。たぶん、あちこちで同じように騒いでる奴がいるんじゃないか。広まるのもあっという間だろう」 

 フィオリトゥーラが勝利した初戦の話題性は、どうやらディルの想像を超えているようだった。

 ディルの視線が、自然とフィオリトゥーラの横顔に向かう。この聖地では、割合として少ないとはいえ、女の剣闘士自体それなりに見かけることもあるが、彼女のように気品漂わせ、かつ見目麗しい女性剣士ともなると、確かにこれまで話に聞いたことさえなかった。しかも、あの勝ち方だ。

「まあ、とりあえずゆっくりしてってくれ。またあとでな」

 ライマーはそう言うと、カウンターの奥へと戻っていく。

 巨大な体躯の彼が姿を消して少し経った後、入れ違うようにして白いリネンのエプロンを身に着けた一人の女性が、ディルとフィオリトゥーラの前に姿を現した。

「よお、クリスタ」

 ディルが声をかけると、クリスタと呼ばれた黒髪の女性は、大人びた笑みをディルへと向ける。実際、その歳はディルよりもいくらか上のようだった。

「相変わらず元気そうね、ディル。調子はどう?」

「悪くない。前回もノーダメージだったしな」

 答えるディルの様子は、先までライマーと話していた時と比べると、フィオリトゥーラが知る彼の雰囲気へと少し戻ったように感じられた。

「あなたがフィオリトゥーラさんね。うわあ……、これは騒がれるわけだ。反則でしょ。えー、首ほっそ!」

 クリスタは身を乗りだし、覗きこむようにしてフィオリトゥーラを間近で眺めだす。そんな彼女の勢いに、フィオリトゥーラはたじろぎ、思わず身をすくめた。

 ただ、その中でフィオリトゥーラもまた、クリスタの姿を控えめながら観察する。

 肩上で綺麗に切り揃えられた黒髪が軽やかに揺れる。少し離れた目が特徴的だが、彼女もまた一般に美人と呼ばれて遜色ない顔立ちをしていた。

「ふう、堪能した。ごめん。えーと、なんにする?」

「ああ。俺はエールの大となんか適当に二品」

「了解。フィオリトゥーラさんは?」

 注文を聞かれたフィオリトゥーラは、すぐに答えられず考えこむ。聖地までの旅路の中でこういった店は何度か立ち寄ったが、それでもなかなか慣れるものではなかった。

「ワインとかでいいだろ。ここはなんでもあるぜ」

「それでは、ラスタート地方のランブルスコをいただけますか?」

「おー、流石に優雅な注文ね。うん、確かあるはず。料理は適当に軽い物でいい?」

「はい、お任せします」

 注文を聞き終えるとクリスタは勢いよく振り向き、奥の厨房に向かってよく通る声で、何かの謳い文句のように一息に続けて、酒と料理のオーダーを出した。

「ところでディル、何か面白い話とかないの?」

 彼女もディルとは馴染みらしく、注文をとった後に他の客のところに行くでもなく、向きなおすと再び話を始めた。

「面白い話か。ここ最近はほとんど休んでただけだからな。なんにもねえよ」

「前に話してくれた〝賢者探し〟とかは? あれからどうなったの?」

「あー、あれはちょっとな。面倒な感じになって中断しちまってる。しばらくはいいかなって」

「ふーん。じゃあ次の試合に向けて集中してるって感じなんだ」

「まだ、準備も何もしてないけどな」

 そう言ってディルが笑う。二人の会話は妙にテンポがいい。

「あ、そういや、ガルディアの試合の情報って入ってる?」

「うん。なんかね、ネタ試合だったらしいよ」

 クリスタは笑いを堪えるようにして言った。

「ガルディアって、とにかく速く動いてショート(小剣)で手数ってイメージあるじゃない? それで相手考えたんだろうけど、特注の重量型フルプレートで全身ガチガチに固めてきたらしいの」

「マジか。金かけてんな」

 ディルも楽しそうに反応している。

「でも始まってみたら、そのフルプレートは本人の予想以上に動けなかったみたい。いきなり背後に回られて膝裏蹴られたらよろけちゃって、そのままガルディアが準備してたサブのタック(刺突剣)で、脇の隙間からぶっすり、だって」

「はは。確かに笑える。そいつ、よくそんなんで〝B〟まで来れたな」

 ディルは、クリスタと一緒になって笑いながら言う。話の内容からすると、試合はガルディアの勝利だったようだ。

 敗者はおそらくかなりの怪我を負っているか、悪くすれば命を落としているかもしれないが、そんなことが笑い話になるのも、この聖地では当たり前のことであり、この酒場での日常だった。

「防御力上げて、手数に対して避けるって選択肢を排除したのはともかく、そこで思考停止しちまったんだな。あとは、自分の鎧に不慣れでやられるって、明らかに準備不足だろ」

「それにしても、フルプレの人って定期的に出てくるよね」

「悪い手本が〝A〟にいるからじゃねえの?」

「あー、〝鉄槌てっついヴァレル〟かー。あれ、凄いよね。かなり重そうなフルプレ着てるのに、ずっと走りまわって普通にぴょんぴょん跳ぶんだもんね」

「それでさらに大型のウォーハンマー(両手戦槌)を自在に振りまわすってんだからな」

 話はいつの間にか有名剣闘士の話に変わっていた。

 フィオリトゥーラはそんな二人の話に耳を傾けながらも、カウンターの奥や騒々しい背後のテーブル席など、酒場の他の場所の様子にも意識を向けてみる。

 店員が躍るような軽やかな動きで、客たちの合間を縫って、酒と料理を運んでいた。

 少し振り向いて店内の様子を眺めていると、こちらに向けられている視線がいくつもあることに気がつく。彼女の視線に気がつくと目を逸らす者もいたが、構わず露骨に見続ける者もいる。

 居心地が悪いというばかりでもないが、まだまだこの雰囲気に馴染めるものではなかった。

 ディルとクリスタの二人が剣闘士の話題で盛りあがっていると、やがて注文していた酒が運ばれ、それに少し遅れて料理も到着した。

「おい、クリスタ。そろそろ仕事に戻ってくれよ」

 料理を運んできた若い男に言われると、クリスタは「それじゃまたね」と笑顔でこの場を離れていく。

 ディルは大きな木製のジョッキを持つと、それを勢いよく傾けてエールを飲み始めた。

 彼の席のカウンターには、塩漬けの肉と野菜のポタージュが置かれている。

 フィオリトゥーラが注文したワインの方はというと、凝った作りの金属製コップの中に濃いルビー色の液体が満たされ、その中で炭酸ガスの泡が浮かんでいる。それは微発泡の赤ワインで、まだ開栓したばかりのようだった。

 ワインに添えられた皿には、塩漬けの肉と果実、チーズなどが綺麗に盛りつけられてある。

「ここはディルの馴染みのお店なのですね」

 周囲を見渡すようにした後、フィオリトゥーラが呟くように言った。

「この距離だし、そうちょくちょく来るわけでもないけどな。ただ、ここはとにかく情報を集めるには都合がいいからな」

 ディルは再びジョッキを手にして、またエールを一口飲む。それにつられるようにして、フィオリトゥーラも優雅な仕種でワインを口にした。

「適当に何か注文すれば、知りたい剣闘士関連の情報なんかが何かしら手に入る。まあ、こっちからも情報提供はしてるし、何より自分の情報も酒一杯で誰かに売られてるんだろうけどな。なんにせよ、ここはこの地区でも最大級の酒場だから、とにかく人も情報も沢山集まってくる」

 そう言うとディルは、今度は塩漬けの肉にかぶりつく。それを見てフィオリトゥーラも、同様にワインに添えられた料理の中のチーズを口に運んだ。

 二人がしばらく食事に専念していると、再びカウンターの奥からライマーが姿を現し、そのままこちらへと向かってきた。

「ガルディアの試合の話は聞いたか?」

「ああ、さっきクリスタから聞いた。楽な相手だったみたいで羨ましいよ」

 二人は一緒になって笑う。

「ところで、おまえの次の相手はどうなんだ?」

 ライマーが発する声の大きさを明らかに変えた。

 密やかに話すわけではなく普通に話しているが、それはこれまでのような喧騒に負けない大きな声と違い、目の前のディルとフィオリトゥーラには届くといった程度の大きさになっていた。

「フォルトンっていう奴だけど、何か聞いたことある? 俺、そいつの試合見た時ないんだよね」

 ディルもライマー同様に声のボリュームを少し絞って話す。

「剣盾のオーソドックスな奴らしいけど、結構〝巧い〟っていう話は耳にしてる」

「〝B〟の〝フォルトン〟か。装備は確か、ワンハンド(長剣)にバックラー(小型盾)だったな。二か月ぐらい前に一度見てる。先手をとるのが上手い奴だった」

「呼吸を読むのが得意とか?」

 ディルは言ってから、ジョッキのエールを口にする。

「ああ、そういうタイプだ。〝見せ太刀〟なんかも使って、常に主導権を握ってた。とにかく間合いがある状態からの入りには定評があるらしい。で、自分でもそれがわかってるのか、先手をとっても優勢で入れなければ、盾主体で堅実に闘って、次に間合いが外れるのを待ってるような闘い方をしてたな」

「へーえ。試合の細かい流れ覚えてる?」

 ディルがそう言うと、二人は顔を少し近づけ、ライマーはさらに声のトーンを抑えて試合の詳細について語りだした。

 隣でライマーの話に熱心に聞き入るディルを眺めつつ、情報を得るというのはこういうことかと、フィオリトゥーラは納得する。親しい間柄ということもあるかもしれないが、ここでは基本的にはこんなやりとりが沢山行われているのだろう。


「――ただな、フォルトンに関しては色々と噂がある」

 試合についての話をひととおり終えた後、ライマーが付け加えるようにささやいた。

「噂? ああ、もしかして、そういう奴?」

「そういう奴だ。奴の対戦相手には、試合を棄権したのもいるし、明らかに怪我を負った状態で試合に出てきた剣闘士も少なくないらしい」

「その噂、ライマーは信憑性ありだと思ってる?」

「そうだな。色々聞いてる話を総合すると、ほぼ黒確定だろう」

「なるほど。じゃあ、決まりかな。たぶん、フォルトンに関係する連中が今この中にいるよ――」

 ディルの言葉を聞いて、ライマーはわずかに眉をひそめる。ただ、その表情を大きく変えることはなく、また無闇に店内の客たちへと視線を向けたりもしなかった。

 ディルも同様に、ライマーの方を向いたままでいる。

 フィオリトゥーラは驚き反射的に振り向きたい衝動に駆られたが、そんな二人の様子から状況を察し、なんとかそれを踏みとどまった。

「店に入った時、変な反応する連中がいたんだ。単に俺を知ってるだけかとも思ったけど、その話を聞いたらいかにもって感じだな」

「おまえの髪の色はちょっと珍しいからな。標的に思わぬところで遭遇して、反応しちまったってとこか」

「フィオ、後ろ向くなよ。たぶん今も見られてるからな」

「はい」

 これまでと変わらぬ喧騒が背後にあったが、誰かが狙っているかもしれないと知った途端、妙に冷ややかな感触が背筋を伝う。

「駄目だ、まったくわからんな。盛った連中がやたらとそこのお嬢さんを見てるせいで、旨いこと隠れちまってる」

 実際、店内の客のうちで彼女の存在に気がついた者は、かなりの割合で、その後も何かしら彼女の様子を気にかけているようだった。

「ちょっと誘ってみるかな」

 ディルが、口の端に小さく笑みを浮かべながら呟く。

「ライマー。ちょっとこのまま外してくれ。この後、しばらくしたら手上げるから、そしたらクリスタを勘定に寄こしてよ」

「わかった。気をつけろよ」

 ライマーはそう言うと、再びカウンターの奥へと姿を消した。

「さて、と。とりあえず普通にしてようぜ」

 ディルは、落ちついた様子で残った料理を食べ始める。フィオリトゥーラも気を落ちつかせるために、ワインを口にした。

「どうするつもりなのですか?」

「まあ気にするな。こういうのもよくある話だし、この流れは俺にとってむしろ好都合でしかない」

 ディルは平然と答えた。フィオリトゥーラは彼の表情をちらりと覗き見るが、確かに動揺している様子は皆無だった。

「とりあえず、俺が動いてもおまえはこのままここを動くなよ」

「はい」

 むしろ、当事者であるはずのディルよりも、フィオリトゥーラの方が緊張していた。

「そういや、おまえは次の試合いつになったんだ?」

 ディルが訊ねる。自然を装うためでもあり、同時に硬くなっているフィオリトゥーラの緊張をやわらげるためでもあった。

 屋敷を出た後、ここに向かう途中で教会に寄っているので、フィオリトゥーラは前日に申請した次の試合の詳細を、そこで神官から聞いているはずだった。

「二週間後とのことです」

「なんだよ、最短の申請じゃないんだな」

 ディルはそう言って笑う。彼女ならば最短である一週間後の試合を希望していると思ったからだ。

 そんなディルの言葉に、彼女はなぜか不思議そうな表情を返す。

 どこか会話が噛み合っていない気もしたが、ディルは構わず最後に残ったエールを飲み干すと、すっと手を上げた。

 すると、少し離れた位置にいたクリスタがそれを見つけて歩み寄ってくる。ライマーに言われてディルの合図を待っていたはずだが、それを感じさせることのない普段どおりの動きだった。

 ディルは腰に下げた小さな革袋から銀貨を五枚取りだすと、それをカウンターの上に置いた。

「じゃあ行ってくるわ。悪いけど、裏の倉庫前借りるぜ」

「了解。頑張ってね」

 クリスタが笑顔で送りだす。二人は声をひそめることなく普通に話していたが、その様子はむしろ自然で、離れたテーブル席の方からではただ勘定を済ませて挨拶しただけと見えていることだろう。

 ディルは、店に入った時に使った入口の扉の方へと歩いていく。

 途中、視界の中に入ったテーブル席の一団へと、視線は動かさずに意識だけを向けた。三人の男がテーブルを囲んでいた。

 ツーハンド(両手剣)一人、あとはロングソード(長剣)、か? 流石に盾持ちはいねえか。

 ざっくりと男たちの装備を確認すると、ディルはそのまま足を止めることなく、扉を開けて外へと出ていく。

 フィオリトゥーラは、露骨に顔を向けないようにしつつも、そんな彼の様子をこっそり目で追っていた。

 ディルが扉の向こうへと姿を消した直後、今いる席と入口の丁度中間の辺り、だいぶ離れた場所のテーブル席の一団が慌ただしく動きだす。

 銀貨と銅貨が混じった酒代をテーブルの上にバラまくと、三人の男たちが列になって足早に扉へと向かっていった。

 彼らがディルのあとを追ったのは明らかだった。

「フィオリトゥーラさん」

 不意に耳元で声がした。振り向くと、クリスタの顔が間近にあった。

「見に行かない? あいつらがディルの誘いに乗ったら、たぶん店の裏で始まるよ」

 クリスタが目を輝かせて言う。彼女は、ディルと男たちが闘う様子を観戦するつもりらしい。

 フィオリトゥーラは、こくりとうなずくと立ち上がり、傍らに置いていた両手剣に手をかける。

「お願いします」 

 クリスタは、カウンター席の端から近い通用口の前に立つと、その扉を開けてから彼女に向けて手招きした。

 クリスタの案内で通用口の扉を抜けると、そこは端に木箱などが積まれた倉庫と通路を兼ねたような場所になっていた。その先には、外へと通じる扉が見える。

「そこを出ると階段があって屋上に上がれるの。外に出たら、なるべく音を立てないようにして、屋上に着いたら身をかがめてね」

「心得ました」

 フィオリトゥーラは答え、それから扉へ向かって歩きだすクリスタのあとに続いた。

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