1-8 目覚めの会話

 誰かが部屋の扉をノックしている。目蓋を開ければ、今朝もまた窓からの光が頬に触れていた。

「朝食の準備ができています。いかがされますか?」

 スラクストンの呼びかけで、フィオリトゥーラは目を覚ます。

「ありがとう。いただきます」

 着替えだけを済ませて食堂に向かうと、そこにディルやガルディアの姿はない。

 彼女は、スープをよそっていたリディアとだけ挨拶を交わした。

「今朝は、私一人だけなのですね」

 食卓についたフィオリトゥーラは、辺りを見回す。

「そうですね。お二人とも今日は早かったです。でも、普段はこんな感じですよ。皆さん揃ってっていう方が珍しいかもです」

 リディアは「二人」とだけで口にしなかったが、ソロンはおそらく今日も部屋にこもったままなのだろう。

 リディアはぺこりと会釈すると奥へ姿を消し、食堂にはフィオリトゥーラだけが残された。

 一人での朝食を済ませ一息ついた頃、ふと、フィオリトゥーラは何か息遣いのような音を耳にした気がした。

 立ち上がって耳を澄ませる。しばらくしてから、またかすかにその音が聞こえた。

 それは、何か動作を行う際に発する呼気のような音だった。

 音に誘われるまま、フィオリトゥーラは食堂の外へと歩きだす。

 リディアが作業している厨房の脇を抜けた時には、今度ははっきりとその音が耳に届いた。

 井戸のある裏庭から発せられているようだった。まだ視界に入っていないが、音とともに人の気配も感じられた。

 フィオリトゥーラは外へ出ようと足を踏みだす。

 その瞬間、朝一番の鐘が鳴り、その音が辺りを包みこんだ。

 鐘の音はその余韻の中で連なり、続く音が都市の外側へと遠ざかっていく。

 聖地の時刻を報せる鐘は、中心の大教会で最初に鳴らされた後に各教会がそれに続き、そうやって順に都市の外側へと放射状に拡がっていくのだ。

 鐘の音が鳴りやむと、足を止めていたフィオリトゥーラは、外の様子をそっとうかがってみる。

 裏庭の真ん中で、ディルが剣を構えていた。

 前にも見た上半身をあらわにした姿で、フィオリトゥーラに背を向ける形で片刃の曲刀を手にしている。曲刀は反りの少ない半曲刀型で、その長さは、小剣と呼ぶには長いが一メートルには満たない。

 それは不思議な構えだった。

 両足がわずかに前後しているだけで直立に近い。何も手にしていない左腕はだらりと下げられ、曲刀を手にした右手は、順手のまま自らの顔の前へと掲げられている。

 だが、そこから肘ごと手首が返され、曲刀の切っ先は真下を向いているのだ。

 ディルはその構えのまましばらく静止していたが、次の瞬間、何かに反応したかのように唐突に動きだす。

「フッ!」

 気合の呼気とともに曲刀が跳ね上がり、剣先が右斜め上を向いた。

 剣を振り終えた時、ディルは最初に立っていた位置から丁度肩幅ひとつ分右に移動していた。振り上げる動作よりも一瞬早く、足捌きだけで身体をずらしたのだ。

 その後、再び先の構えへと戻る。その時、今度はゆっくりとまた右に身体が移動していた。

 剣を戻すのではなく、剣のある位置に身体を寄せて、そこでまたくるりと曲刀を返し、構えをとったのだ。

「不思議な構えですね」

 一歩踏みだして、フィオリトゥーラが裏庭にその姿を現した。

 ディルは彼女へと背を向けたまま剣を下ろすと、それを右腰の鞘へと納める。それから、ゆっくりと振り向いた。 

 振り向いた彼は、なぜか唇を噛みその目を少し細めている。だが、その表情は不機嫌という風ではなく、ディルにしては珍しくばつが悪そうな顔をしていた。

「見てたのか?」

「はい。たった今、ひと振りされたところだけですが」

 フィオリトゥーラが答えると、ディルは長いため息をつく。その手が、思わず銀色の髪を掻きむしった。

「ああ、そうか。おまえはそもそも知らないんだったな」

 フィオリトゥーラが首をかしげる。ディルはそんな彼女をしばらく眺めた後、もう一度ため息をついた。

「いや、知らないおまえに勘違いされるのもなしだな。今のは俺の〝剣〟じゃない。まあ、あれだ。つたない真似事ってやつだ」

 フィオリトゥーラは一瞬考えこむが、すぐに昨晩のガルディアの言葉が思いだされる。剣位三位の剣士。ディルは「信者」だと茶化されていた。

「もしや、ムーンライトという方の?」

「察しがいいな。まあ、そんなもんだ。実戦じゃとても使えないただの遊びだ」

 そう言って、ディルは視線を逸らす。どうやら彼は、その真似事を見られたことを恥ずかしく思っているようだった。

 フィオリトゥーラにそんなディルの感覚はよくわからなかったが、その様子から察して、先の構えについて話を続けることをやめた。

 すると、視線は自然にディルの腰に下げられた剣へと向かう。

 構えも不思議だったが、ディルが手にしている剣は彼女にとって初めて見る形状の剣だった。

 一度は視線を外したディルだったが、そんな彼女の興味の対象に気がつくと、自らも腰の剣へと視線を移す。

「これか?」

「初めて見る形の剣です」

「ラスタート地方じゃ直剣が主流だろうからな。曲刀はほとんど見ないだろ」

 ディルは腰の剣を鞘ごと外すと、フィオリトゥーラの前にかざしてみせた。

「シミターっていう曲刀の一種だ。持ってみな。驚くぜ」

 フィオリトゥーラは両の手でそっと曲刀を受けとる。すると、予想外のずっしりとした重さが両腕にのしかかってきた。

 彼女は驚いて、思わずディルの顔を見る。

 そんな予想どおりの反応を見て、彼は満足そうにしていた。 

「元々シミターは見た目の割には重いんだが、俺のは特注品だ。たぶん、こんなでもおまえのカルダ=エルギムのツーハンドに近い重さなんじゃないか。抜いてみろよ」

 言われてフィオリトゥーラは、おそるおそる曲刀を鞘から引き抜く。緩すぎるわけでもなく、適度な感触を保ったままするりと刀身が動いた。中を見ずともこの武器に施された仕事の質がうかがえるようだった。

 重量があるため、剣先を下に向けたままで、フィオリトゥーラは手にしたその曲刀を眺める。

 鈍く落ちついた光を放つその刀身は、彼女のカルダ=エルギムの剣同様にその表面に独特な紋様が浮かんでいる。ただ、彼女の剣の細かな波のようなものとは異なり、そこには木目のようなはっきりとした紋様が荒々しく浮かんでいた。

 武器の知識など皆無に等しい彼女だが、それでもこのシミターの質の高さはなんとなく理解できた。だが、やはり気になるのはその重量だった。

 ディルのシミターは、その全長といい柄の長さといい、間違いなく片手で扱うための作りをしているが、それにしては重すぎるのだ。

「これを片手で振れるものなのですか?」

 先に振る姿を見たばかりだったにもかかわらず、彼女は自然とそんな疑問を口にしていた。

「俺が使えるギリギリのバランスに調整してある。まあコツはいるけどな」

 そう言って、ディルは手を差しだす。フィオリトゥーラは彼に曲刀を手渡した。

 シミターを手にしたディルはくるりと向きを変えると、斜め下に向けた剣先を、先に見せたように右手一本で瞬時に振り上げる。

 右下から左上に向かって、斜めにただ直線を描いたように見えたが、フィオリトゥーラはその初動を見逃さなかった。曲刀が振り上げられる一瞬前、剣先がわずかに下がったのだ。

「剣に対する身体の重心なんかもあるが、一番重要なのはこいつの自重を利用することだ」

 言いながらディルは、曲刀を八の字の形にゆっくりと振りまわす。

 ディルの剣を振る所作があまりに手慣れているため、それを見ても彼の言うコツをフィオリトゥーラが理解できたわけではなかったが、つまりは、曲刀自体の重さが生みだす勢いを殺さずに次の動作の力へと加える、とそういうことらしかった。

 曲刀を動かす手を止めると、ディルはその剣先を下げた。

 彼は振り向いてフィオリトゥーラから鞘を受けとると、慣れた手つきで刀身を鞘に納め、それを腰へと戻す。

「そういや、何か用でもあったのか?」

「いえ。なんとなく気配に誘われて来ただけなのです」

 ディルが問いかけると、フィオリトゥーラはそう言って微笑んでみせた。

 そんな彼女を前に、ディルは何か言いづらそうに口をもごもごとさせている。それに気がついたフィオリトゥーラは、彼を不思議そうに見つめた。

「ひとつ言わせてくれ。昨日はその、悪かったな」

 口を開いたディルは、剣を振る姿を見られた時同様にばつが悪そうな顔を見せた。ただ、先とは違いその視線は、逸らすことなくしっかりとフィオリトゥーラの方へ向けられている。

「我ながらどうかしてた。自分のやり方を人に押しつけるなんてな」

 彼が言わんとすることは理解できた。昨晩のことだ。ただ、それを彼女は理不尽に感じたりはしていなかった。

「いえ。私への気遣いであること、理解していますし、感謝しています」

「いや、確かにそういうつもりだったが、なんだろうな。あれは駄目だ。話しあったわけじゃねえし。おまえが間違っていると決めつけて封じこめようとしちまった」

 フィオリトゥーラは、静かに首を振る。

「私も性急に過ぎましたゆえ」

 ディルはまだ続けて何かを言いかけるが。それをフィオリトゥーラが、ついと一歩前に踏みだし制した。

「それでは、お互いに反省するということで、いかがですか?」

 碧い大きな瞳が間近からディルを見つめる。少し背の高い彼を見ているため、彼女のほっそりとした顎がわずかに上を向いていた。

「あ、ああ……」

 動揺を隠せないディルを、フィオリトゥーラはさらに覗きこむように見つめ続ける。

「私からも、ひとつよろしいですか?」

 迷いなく向けられる視線に戸惑いながら、それでも彼は目を逸らさず彼女を見返していた。

「ディルさん。それでも貴方は、まだ私に腹を立てていらっしゃいませんか?」

 その言葉を聞いて、ディルの表情が一変した。細い目が見開かれ、口もわずかに開いたままで動きを止めていた。

「な、なんでだよ!」

「間違っていたら失礼いたします。なんとなくです」

 フィオリトゥーラが再び微笑んでみせる。彼女に確信はなかった。ただ、不思議と感じるところがあった。

 ディルは一歩後退りすると、わずかだが視線を逸らした。

「お聞かせ願えますか?」

 ディルは答えない。だが、しばしの沈黙の後、彼は観念したようにその視線をフィオリトゥーラへと戻す。

「それを訊くかよ……」

 独り言のように呟きがもれた。

 確かに彼女に対して思うところはあったが、これについては口にする気は毛頭なかったのだ。

「あなたに何か譲れないものがあるのならば、それを私は聞くべきだと思います」

 揺るぎない視線。今はその顔に微笑みはなく、ただ真剣な眼差しがディルの瞳を捉えている。

 もう目を逸らすことも許されない。ディルは、そんな不思議な感覚に支配されていた。

「わかった……。そこまで言うならな。こういうのは言いたくなかったんだけどな」

 観念したようにディルが口を開く。

「おまえがおまえのやり方で先を急ぐのは構わねえよ。さっきも言ったが、それを封じこめようとしたのは俺の間違いだ。だけどな、急いでるつもりなのかもしれないが、何もかも手抜きな感じなのがな」

 ディルは、そこまで言って言葉を止めた。

「お気に召さなかったのですね」

「まあ、そういうことだ。どれだけ闘えるのか知らねえが、ここに来てからのおまえの態度には、ここで闘ってる連中が舐められてる気しかしなかったからな」

 言いきったディルは、解放されたように彼女から視線を外す。そして苦々しくその顔をしかめた。

 彼の信条からすると、こういうことをただ言葉だけで本人に直接伝えることは避けたいことだったのだ。何かが正しい間違っているという話ではなく、それはただ自身の不満でしかないと自覚しているからだ。しかし同時に、彼女が言ったようにどうしてか譲れないことでもあった。

 そんな彼の本心を聞いたフィオリトゥーラは、なぜかその目蓋を深く閉じていた。

 ディルがそんな様子に気がつくと、彼女はゆっくりと息を吸いこんだ。そして、その目を開ける。

「ありがとうございました。ディルさんのおかげで、ひとつ目が覚めました」

 正直、彼女がどんな反応を見せるのかディルには予想できていなかったのだが、それにしても意外で不思議な反応だった。

「不安でいっぱいでした。自分で決めたこととはいえ、先のことを考えると押しつぶされそうになります。この聖地についても、ここに足を踏み入れるための知識を得ることはしても、この地に着いた後のことについては、極力耳に入れないようにしてきました。情報を得て考える余地を得れば、それで私の歩みは止まってしまうかもしれない。そう思うと、……怖かったのです」

 フィオリトゥーラは自身の胸に手を当て、ディル同様に自身の胸の内を語る。

「視野を狭めて盲目的に走り続けようと、気がつけば、私はそんな風にして目の前のことから逃げていたのかもしれません」

 ディルはそんな彼女の話を耳にしながら、自らの中にあったわだかまりが消えていくのを感じた。

「ディルさん。今度はこちらが謝る番ですね。私が間違っていました。確かに、ここに来てからの私の振舞いは、聖地で闘う剣闘士を軽んじていると見られてもおかしくないものでした」

 そう言って彼女は頭を下げた。白金の髪がするりと滑り落ちる。

 ディルは、自身もまたそんな彼女の心情など考えてもいなかったことをあらためて認識するが、だがそんなことよりも、今は目の前の彼女に対する驚きの方が大きかった。

 なんだ、こいつ……。

 今までに見た貴族と何もかも違うのはわかる。

 傲慢ごうまんさの欠片もなく、自らの非を認め躊躇ちゅうちょなく謝罪するその姿勢。しかし、それでも傲慢に振舞う貴族たちよりも、遥かに高貴な印象を受ける。そして何より――。

 ディルは今、自分が完全に彼女によってコントロールされたと感じていた。

 しかも、彼女はそれを意図的に行ったわけではないだろう。さらに言えば、ディル自身がそんな認識を持ちながらも、それを不服に感じていなかった。むしろ心地よくさえある。

 フィオリトゥーラが顔を上げた。相変わらずの可憐な顔が正面を向いて、澄んだ碧い瞳がこちらを見つめている。

 彼女はある意味で、傲慢で不遜ふそんだったこれまでの貴族よりも、ディルにとって厄介な同居人かもしれなかった。

 確実に彼女のペースに引きこまれつつある。そんな不安とも期待ともとれない感覚がよぎる中、彼はなんとかそれに抗えないかと、ひとつの提案を口にする。今の距離感のままでは、不本意なまま引きずられていくような気がしたからだ。

「なあ。さっきから、ディルさんディルさんって呼んでるけど、それ、やめてくれ」

「どうしてでしょうか?」

「同じ剣闘士同士で気持ち悪いだろ。ディルでいいよ。いや、違うな。いいよじゃねえ。〝ディル〟って呼んでくれ」

 そんなディルの申し出に、彼女は一瞬考えこんだものの、わずかな沈黙の後、温かな微笑みを見せる。それは昨晩にも見せた、彼女の不意打ちだった。

「わかりました、ディル。それでは、貴方も私のことは〝フィオ〟とでもお呼びください」

 ふっくらとした桜色の唇が動き、透きとおった耳心地のよい声が響いた。

 ディルは、自分で言いだしたことにもかかわらず、そんな彼女の返答に思わず動きを止めていた。

「ああ」

 なんとか一言だけを返すと、動揺を隠せないままディルは歩きだし、そのままフィオリトゥーラの脇を抜けていく。

 裏庭から屋鋪の中へと戻ろうとするディルを眺め、フィオリトゥーラがその背に再び声をかけた。

「ディル。わかったのでしたら、まずは一度ぐらい私の名を呼んでいただけませんか?」

 ディルはその声に足を止めると、軽く歯ぎしりする。

「わかったよ! フィオ!」

 こいつ、ガルディアの影響受けて、俺をからかってんじゃねえだろうな。

 ディルは内心舌打ちしつつ、わずかに彼女へ振り向くと、さらに大きな声で言う。

「フィオ! 今日は何もないんだろ? 用事ついでに街を案内してやるから、外に出られる恰好に着替えとけ」

 再び歩きだすと、彼は屋敷の中へと姿を消した。

「了解しました」

 すでに声は届いていないだろうが、フィオリトゥーラは笑顔で答えていた。




 第一章 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る