第十一章 ③
口から落ちた煙草が右手の甲に落ちた。ジュッと。
「あち、あちちちちちちちっ!?」
反射的に背筋を反らし、ゼルは椅子からすっ転んだ。そのまま後頭部を硬い地面に打ちつけてしまう。
「なにやってんのよ、馬鹿」
フレンジュが目を開けていた。
だから、ちゃんと目が合った。
「……キスもナシに眠り姫が起きたから驚いただけだ。フレンジュ、大丈夫なのか? 気分はどうだ? 喉渇いてないか? 芋焼くか?」
「はいはい、落ち着きなさい。それと、落ちた煙草は消しなさい」
言われた通りに煙草を消し、ゼルは椅子に座り直した。都合の良い夢なんかじゃない。フレンジュが、目を覚ましたのだ。
身体中から、力が抜け落ちた。
「良かった。……良かった」
それしか言えなかった。
フレンジュが困り顔で苦笑をこぼす。
「子供じゃないんだから、そんなに心配しないでよ。ちょっと頭を打っただけでしょう? ……随分と、大変なことになっちゃったわね」
「聞いていたのか?」
「少しだけね。ボンヤリとだけど」
ゼルの脳髄が沸騰する。言い繕うことも出来なかった。沈黙を聞いたフレンジュが、おもむろに上半身を起こそうとする。しかし、
「ッ!?」
「なにやってんだ。頭を打ってんだぞ。包帯がズレたら大変だ。ほら、眠っておけ。ここなら安全なはずだ、多分」
ゼルに頼まれ、フレンジュが大人しく後頭部を枕へと預けた。
「ごめんなさい。私のせいで」
「そういうことは言わない約束ってもんだ。安心しろ。俺がなんとかする。俺が悪い奴らなんて全員、ぶっ倒してやる」
ゼルが拳を握ると、フレンジュが泣き笑いに似た表情を浮かべた。
「それは、昔の恋人への贖罪なのかしら?」
喉奥が熱くなった。赤熱した鉄槍で首を抉られても、まだ冷たかった。
フレンジュが額に汗を浮かべる。血を失いすぎたせいで、血管が収縮しているのだ。息はあまりにも弱々しい。
けれど、瞳に滲む光だけは失われていなかった。
「私は、最低の女よ。嘘でもいいから、あなたに愛して欲しかった。あなたが恋人を喪ったことを知っているのに、近付いた。護ってほしかった。助けてほしかった。分かっている。なんて愚かだって、それでも私はあなたに好きだって言って欲しかった!」
フレンジュの双眸に涙が溢れる。拭おうともせず、ぎゅっとまぶたを下ろしてしまった。
「私、ずっと知らなかった。誰かを殺す方法しか知らなかった。愛してもらうって知らなかった」
後悔が、苦悩が、悲痛が後から後から溢れ出る。フレンジュの涙を、ゼルは黙って見詰めた。
「……私が、銀行領の領主に交渉するわ。私の首で、勘弁してくれって」
「無茶だ! あいつらがそう簡単に許すわけない。だから止めろ。馬鹿な考えはよせ!」
「銀行領は、実際に被害を受けたわけじゃない。悪評程度なら、日常茶飯事のはずよ。なら、私が実際に礼儀を通せば、向こうは飲むしかないわ」
「だからって、フレンジュが死んでいいわけないだろ。それで救われる世界なんて間違っている。俺は絶対に認めない」
「ゼルさん、分かって」
フレンジュの言葉には、恐怖などなかった。強く硬い決意が、そのまま声に乗っていた。
「最後に、最期に誰かの役に立って死ねるなら、素敵じゃない。それが、良い男なら他に言うことはないわ」
「たった一人の女を救えない男なんて、地面に転がっている石と変わらねえよ」
「それが石か宝石なのか決めるのは、他の誰かよ。私にとって、あなたはとても眩しい存在なの」
だから、死なないでと。
「駄目だ! フレンジュ、それだけは駄目だ! あのときと同じだ。なんでだよ。なんで、俺なんかに。クローゼルと、お前は、なんで、俺なんかに想いを託す!?」
血管の内側で無数の針が暴れていた。このままボロ雑巾のように倒れられるなら、どんな楽か。
ゼルの膝、握られた拳の内側から血が滲んだ。強く力を込めすぎたせいで、爪が手の平に喰い込んだのだ。
そっと、フレンジュが手を伸ばした。
「そんなの決まっているじゃない」
触れた指先、その温かさにゼルは短い悲鳴を上げた。
今の自分には、あまりにも熱すぎたからだ。
「あなたが好きだからよ、ゼルさん」
「フレンジュ、俺は」
返事はなかった。フレンジュの手から力が抜ける。また、眠ってしまったのだ。大丈夫、呼吸は安定している。まだ、終わっていない。
フレンジュの手をそっとベッドに戻す。機操剣を扱うよりも、ずっと難しかった。
「……ごめん」
誰への、なんの謝罪か。
ゼルは椅子から立ち上がり、もう一度フレンジュを見詰める。彼女をどうしても、明るい世界へと連れ戻したかった。
「なら、やることは決まっているよな」
ゼルは壁に立てかけてあった機操剣を掴み取った。相棒は、土と泥で汚れていても壊れてはいなかった。
戦うための力は、失っていない。
ならば、あとは、
「そりゃあ、準備しないとな」
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