第十章 ④


 時計の針が融けていく。

 水飴のごとく空気が粘度を増す。

 一瞬が引き伸ばされていく。

 なにもかも、済んだ話だった。

 ゼルの喉奥から、魂の半分が砕かれたような悲鳴が溢れた。背骨の芯から噴き出した激痛に身をよじり、赤黒い血の塊を吐き出す。身体が数多のパーツから構成されていると想い知らされる。痛みが身体中の隙間に浸透していく。息をしたいのに後から後から悲鳴が漏れ、咳き込み、頭が割れるように痛い。

 だが、生きている。

 まだ、生きている。

 朦朧としていた視界が徐々に鮮明さを取り戻していく。どうやら、倒れていたらしい。足元に落ちていた機操剣を見て、やっと理解する。

 だから、それに気付いたのもよろよろと立ち上がってからだった。

 左腕の中が、空っぽだった。

「フレンジュ、フレンジュ? どこだ?」

 ここが地上だと、今気付いた。ビルの屋上にいたはずだ。五階以上の高さから落ちたのだと、状況の重さに寒気がする。

「フレンジュ! どこだ!?」

 ゼルは機操剣を杖代わりにして足を動かし、フレンジュを探す。十メートル以上もあれば、人間は蒸気自動車にはね飛ばされたのと同じ衝撃を負う。大抵は即死だ。バグルの攻撃はどうなった? 防御は間に合ったのか?

「フレンジュ!」

 返事はない。大声を出せば敵に見付かる危険性が。知るか。身体に深いダメージを負った。今は逃げるのが最適。知るか。護ると決めた。俺が巻き込んだ。これは全部、俺の責任だ。

「……あっ」

 唐突に見付かった。

 一瞬、ゼルは心臓の動かし方を忘れた。肌は熱を失い、血は停滞する。思考が真っ白に染まった。

 目の前に、フレンジュがいた、倒れていた。

 頭から、血を流して。

「フレンジュ!」

 ゼルは痛みも忘れてフレンジュに駆け寄った。右側頭部の傷、深いのか、浅いのか、動かすべきかそのままにするべきか。

 フレンジュは目を閉じて気絶していた。生きているのか、死んでいるのか。駄目だ、分からない。夜闇と戦場、現状の空気がゼルの判断能力と理性を乖離させる。

 今すぐに医者だ、病院に行かなければいけない。

 なのに、

「よくぞ防いだ。即死しなかっただけでも僥倖だ。私は、やはりお前の底力に脅威を覚えることを隠せない」

 背後に、大きな音が一つ。

 機械巨兵そのものと化したバグルが着地した音だった。

 ゼルは振り返らなかった。一手時間をかけるよりも、両腕が勝手に機操剣を握り直した。肌に染み付いた戦場の経験がそうさせた。支えを失った身体が自重に耐えられず、片膝をついてしまう。いや、これで正解だ。結局は機操剣の切っ先さえ地面に押し込めば戦闘を始められるのだから。違う。フレンジュを護る、護る、そうだ、護らなければいけない。たとえ、その果てに死ぬことになっても。

 けれど、どうやって勝とう?

 あれだけの高い場所から落ちて生きているだけでも僥倖だ。

 だが、無茶な機導式を使い、代償ナシで済むわけがなかった。保存していた機導式を全て、強制的に機錬種の制御へ使った。演算を組み替えたのだ。

 結果、高位解析機関・MアポートンM一八五〇が高負荷による損傷を防ぐために蒸気機関との連結を解除、機能を停止してしまった。当然、Sカノッソス〇式も全て眠ってしまう。

 ギュリオールの遠雷が、余剰となった熱を外へ逃がす。朦々と蒸気が噴き出して周囲に広がった。

 コークスの残りが、あまりにも心許ない。

 機操剣に、人間の気合も根性も関係ない。都合の良い奇跡など起こらないのだ。バグルを倒すための機導式を演算するのに、必要なSカノッソス〇式の数は七つ。今からでは起こすのに最低でも半日以上かかる。なにより、

 もう敵は目の前だ。

 なにかも、手遅れだった。

 それでも、ゼルは機操剣を握ったままだ。奥歯を強く噛み、気持ちだけは萎えさせるものかと叫ぶ。

 気合だけで勝てるなら、苦労しない。

 野良犬の遠吠えとどっちがマシだろう。

 あとちょっと勝てるはずのバグルが、ゼルへと問う。

「何故、そこまでして戦う? 私は疑問を解くだけの材料を持っていない」

「愚問だな、馬鹿野郎。美女を護るのは男の義務だ。そっちこそ、そろそろ家に帰って酒でも飲んだらどうだ?」

「そうだな。お前を倒し、勝利の美酒に酔いしれようか。私は、私の悲願を達成するためになに一つ迷いはしない」

 ゼルは機操剣の柄を強く握った。

 もう少しで、なにかを想い出しそうだった。

 なんだっけ?

 あ、銃口が目の前だ。

 ゼルの右手、人差し指が微かに動く。空を切る。やや速く、小刻みに三回。意識の奥、脳裏に懐かしい光景が二つ。

 それも一瞬の出来事だった。

 だから、済んだ後に理解する。

 バグルの巨体が大きく傾いた。どこからか飛来した鎖が十重二十重と四肢や胴体、首に絡み付く。

 今日、何度呼吸を忘れただろうか。

 それでも、本日一番の驚きだった。

「なんで、お前が」

 どこまでも、それこそ、地平線の果てまで業火に包まれようとも彼女はきっと〝赤い〟のだ。

 夢かと想った。

 戦場に、外見だけなら十代中頃で小柄な少女が立っていた。こちらに背中を向けていた。

肌は病的なまでに青白く、人間らしい赤みが抜け落ちている。

 髪は黒曜石のごとく、黒く鋭い光沢を滲ませる。癖一つなく真っ直ぐで腰の半ばまで伸び、九つに束ねられていた。リボンの色は、それぞれが微妙に違う赤だ。高さも束ねる量も違う。だが、不思議と一定の統一感があった。

 ゼルには、旅人と底無し沼へと引きずり込む鬼火の群れが揺れながら踊っているようにしか見えなかった。

 双眸は、煮え立つ赤金そのものだった。

 己が身と心が焼け爛れようとも、野心を叶えようとする女なのだ。

 血で染めたように真っ赤な衣装は、帝国の歴史上存在しない。ここからはるか極東の地にて織られた〝着物〟と呼ばれる物だった。

 それこそ、誰にも私は染められぬという象徴だった。

 鬼が振り返った。

「やっぱり、わっちの助けが必要だったのだ」

ベニアヤメ・コンドーと対峙するのは、ゼルただ一人。

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