第六章 ④
その日はいつもと違っていた。
家に帰ると、彼女が出迎えてくれた。
「おかえりなさい」
濃い橙色のエプロンを纏ったフレンジュの姿に、ゼルは感激で前が見えなくなった。危うく、膝から崩れかける。
「ただいま、フレンジュ」
昨日の晩、一人にさせるわけにはいかないとゼルはフレンジュを自宅で匿うことにした。無論、フレンジュ本人の承諾は得ている。
「祭りに連れて行けなくて済まない。急に、仕事が入って」
「分かってます。それに、こんな状況で子供みたいな我儘なんて言いませんよ」
「俺は、いくらでも我儘を言ってほしいんだけどな。つまり、結婚の方向で」
「お昼ご飯冷めちゃいますから、着替えたらすぐリビングまで来てくださいね」
踵を返してキッチンに戻ったフレンジュの後姿に、ゼルは我が目を疑った。なんだ、あの魅力は。
女の尻を利用して永久機関を造れないだろうか? 今度、どこかの学会に乱入して演説してみよう。
「よし待ってろ。すぐに着替えてくるから」
そうして、ゼルが自分の部屋に戻ろうとしたときだった。
「あ、それと」
フレンジュが、ゼルへと指を差す。
ビシッと。
「ちゃんと、手を洗ってくださいね」
『子供じゃないんだから、ちゃんと手を洗いなさい』
ゼルの身体が、硬直した。時計の針がどこかへと飛んでいった。過去か、過去に忘れてしまったのか。
他に、なにを忘れている?
「ゼルさん?」
「……いや、なんでもない。手を洗うのは大得意だ。俺にかかれば新品の石鹸も一分で使いきってみせる」
努めて笑い、ゼルは洗面所へと向かったのだった。
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