第六章 ①


 まだ、祭りは終わらない。

「月並みな台詞だが、今日という日に乾杯」

 グラスとグラスが触れる。小さく、優しく、それこそ初恋同士の淡い口付けのように。

 ミッシェルストリートの地下街にあるバー〝赤鳥のさえずり〟にて。ゼルは特別室へとフレンジュを案内した。

中世の貴族屋敷を模した部屋、落ち着きと気品に満ちている。窓から見えるのは地上の星屑と化した街並み。輝かしき世界。帝国領第十三試験的機械化構築経済都市・ラバエルの繁栄を一望出来る。

 祭りの日は夜間の営業時間が延長される。そのお陰で、いつもより光と喧騒が濃かった。だからこそ、ここは別世界と化す。

 レコードから流れる甘い音色が、心の安定を促す。数十分前まで、酔っ払い同士が殴り合って喧嘩した酒場にいたことなど、嘘であるかのように。

「乾杯。……毎月聞いていたら、胸焼けしちゃいそうですね」

「君との時間を祝うのなら、毎日でも足らないくらいだ」

「ふふふ。胸どころか、身が焦げちゃいますね」

「燃えるような恋とは、言い得て妙だ」

 ゼルの言葉遊びに、フレンジュが降参の意味を込めてかグラスを揺らした。逆さまの円錐を満たすのは、澄んだ青色が美しいリキュールだ。帝国ではポピュラーなカクテルで、名前はブルーコール。

「確か、一八五〇年代の帝国で活躍した画家、サンベルツ・グロンクの話が由来のカクテルだったよな。海の絵を描くために青い絵の具が必要だった。けれど、彼の求める青はなかなか見付からない。絵の具屋どころか錬金術師や商人にまで聞いて回ったけど、青い絵の具は手に入れられなかった」

 ゼルの言葉をフレンジュが繋ぐ。

「落ち込んだ彼は、とある酒場で店長に青色の絵の具が見付からないことを告げた。すると、店長が『こんな青がありますけど』と、このカクテルを作った」

 サンベルツは『この青こそが私の求めた色だ!』と叫んだ。しかし、いくらなんでも酒を絵の具にすることは出来ない。

 彼は酷く悲しんだ。『ここに、私の求めた青があるのに。こんな近くにあるのに』と。

「以来、このカクテルはブルーコールと呼ばれている。意味は、届かぬ理想。あるいは、決定的に違う領域。あまり、縁起の良い酒じゃない」

 ゼルの指摘通り、少なくとも良い意味で飲まれるカクテルじゃない。大きな失敗をしたときや、夢が破れたときに飲む皮肉用の酒だ。

 フレンジュが、グラスをもう一度揺らす。今度は、さっきよりも大きく。青い液体が薄い硝子の縁で転がるように踊った。

「私、これが好きなんです。ゲン担ぎとも違う。そう、ある意味で、一つのルーティンとも言うでしょうか。安心してください。あなたへの当てつけじゃありません」

「その言葉を信じる。もうちょっとで、俺の顔まで青色に染まるところだった」

 女が男と同じ席でブルーコールを頼む場合、意味は『あなたのことは別に嫌いじゃないんですけど、ちょっとあれなんで。あれがなんかこうあれですから別れてください』という意味になる。

 無論、恋人間限定なので、ゼルの心配は余計だ。

「ゼルさんこそ、随分と変わったカクテルを選びましたね」

 フレンジュが、小さな苦笑をこぼす。

 ゼルが手元に視線を落とす。背が低く太い円筒のグラスを満たすのは、赤に近い琥珀色のブランデーだ。お気に入りのカルサニッコM一八八〇の次に好きな銘柄、バーゼルフォンの雫である。

 そこへ氷とオレンジピールを浮かべ、蜂蜜を小匙一杯、ライムを数滴絞ったのがカクテル、ジ・ナイトだ。

 ゼルはグラスを軽く傾けて肩をすくめる。

「十年以上前に流行ったミュージカル〝漆黒騎士と歌姫の哀歌〟で、主人公である漆黒騎士が飲んだ酒をモチーフにしてある」

 今度も、フレンジュが言葉を奪った。

「暗黒の森に幽閉された姫を助けるために、騎士が魔女から魔法の酒を授かる。それを飲めば、邪悪なる竜が吐く灼熱の息吹から身を護ることが出来る。けれど、代償として命を落とす」

 以来、このカクテルは騎士の象徴とされた。男性が女性に告白したいときに飲む酒だ。『俺は命を懸けてあなたを護ります』と告げるための酒だ。

 もっとも、あまりにも皆が真似するものだから、女の間では『酔ったときに交わした約束なんてろくなものじゃないから冷静になれ』と戒めるための一杯でもある。

 フレンジュが小首を傾げる。

「だからこそ、ですか?」

「その通り。女性の前で無駄に己を飾りすぎるのはよくない。かといって、見栄の一つでも張らない男はつまらないだろう?」

 ブランデーの熟成された葡萄の味わい、オレンジピールの苦み、蜂蜜の甘さ、ライムの酸味が絶妙な黄金比を築く。

 氷がブランデーの香りが表に出るのを適度に抑えている。だからこそ、様々な味が軽やかに舌の上で踊るのだ。

「本当なら、このままフレンジュと親密な夜でもすごしたい」

 ゼルの足元には、鞘に収まった機操剣が鎮座していた。まだ、夜は終わらない。それは酒では拭いきれぬ血生臭さを孕んでいた。

 フレンジュがグラスを置く。表情は泣くのをこらえているようにも見えた。

「一つ、約束してくれませんか? 私を護ってください」

「当然だ」

 ゼルには微塵も迷わなかった。

 フレンジュが、目を見張る。

「おいおい、そんな驚かないでくれよ。それとも、俺が『じゃあ、また今度』って帰ると想ったのか? 生憎と、俺は困っている美女を放っておくほど意気地のない男じゃない。契約云々ってわけじゃねえよ。俺は、君を護りたい」

 気概の証拠だと、ゼルはグラスを一気に空けた。テーブルの端に置くと、壁から伸びた機械の腕が三本の指でグラスを掴み、片付ける。

 今度はテーブルの一部が反転し、タイプライターが出現した。ゼルが注文を打ち込むと、また機械の腕が伸びて二杯目のジ・ナイトを用意する。

「ここは、機械が注文を受ける。だから、他人に聞かれる心配はねえよ。だから、どうか話してくれないか?」

 ゼルの双眸に、フレンジュはなにを見たのか。

 フレンジュが一気にグラスを空にした。そして、ゼルと同じく二杯目を注文する。

 同じブルーコールだ。

「どうか、手の届かない夢にしないでください」

「大丈夫。悪夢はもう終わりだ」

 ゼルの言葉に、フレンジュがくすぐったそうに目を細めた。

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