第三章 ①


 それが当然だと日常的に喧騒と狂乱を享受するラバエルにも、静かな場所という高尚な空間が存在する。

 ゼルから案内されたフレンジュは、想わずといった様子で感嘆の溜め息を吐いた。

「素敵ですね。飾る言葉さえも、野暮であると感じるほどに」

 竜巣迷路地区の最上階、地上から二百メートル以上の高さにある展望台を、ゼルとフレンジュが〝二人占め〟していた。

 方角に正しく八方に広がる壁の上半分が、一枚の硝子で構成されている。

 広がる景色は、街を直接手で掴み取れるかのよう。

「ここなら、空気も綺麗だからな。さあ、お茶にしよう。素人仕込みだが、そこらの喫茶店には負けていないつもりだぜ」

 丸テーブルに、ゼルがお茶を並べた。

 縁を金箔で飾った白磁器のカップを満たすのは、薄いピンク色のハーブティーだ。爽やかで優しい香りが、湯気と共に昇る。

「私達だけなんて、なんだか不思議ですね。下を見れば、大勢の人達がいるのに」

「二人だけの時間を共有する。祭りだからこその贅沢さ」

「なら、ここに私達以外に誰もいないのは、皆が慎ましいせいかしら?」

「俺達の時間を邪魔しちゃいけないって遠慮してんのかもな」

「お茶、冷めないうちにご馳走になりますね」

 ひらりと蝶のごとくかわされた。

 それでも、ゼルは諦めない。

「遠慮なく飲んでくれ。お代わりはいくらでも用意する」

 フレンジュが座ったのを確認し、ゼルも座る。

 時刻は午後三時を回ろうとしている。まだまだ日は高いが、流れる風は適度に乾いていて頬に心地良い。

「綺麗な色。それに、素敵な香り」

 フレンジュがゼルを一瞥する。

 ゼルは首を傾げただけだった。

 フレンジュが淡く微笑み、目を閉じてカップを傾けた。

 音を立てずに喉を動かし、ほっと息を吐く。

「美味しい。これはラベンダーですね」

「ご名答。リラックス効果の高いハーブだ。そして、君のように美しい花でもある。ちなみに、花言葉は〝献身的な愛〟だ」

「確か〝不信感〟という意味もあったはずですけど?」

「とんでもない。〝あなたを待ち続ける〟よ」

 ゼルが返事をすると、フレンジュが澄まし顔で唇に人差し指を当てた。

 ラベンダーの花言葉の一つは〝沈黙〟だ。

 ゼルは自分で淹れたお茶を胃へと落とし、右手をコートの内側へと伸ばす。半秒、慌てて引き抜いた。

「煙草ですか?」

「いや、まさかまさか。俺は煙草とは永遠に袂を別けたんだ。煙なんて、見たくもない」

「別に、吸っても構いませんよ? 朝からずっとお仕事尽くしだったんですから、我慢は毒ですよ」

「君との時間を、仕事だなんて言葉で片付けたくないよ」

 ゼルは立ち上がり、口から蒸気を噴き出す薬缶を掴む。ティーポットへとお湯を注ぎ、薬缶を元の場所へと戻した。

 フレンジュが、カップで口元を隠したまま言った。

「便利ですね、その焜炉」

 ゼルが薬缶を置いた場所は、焜炉にしては危険で重くて鋭利だった。文字通り、床に突き刺さっている。

 機操剣だった。

 火室でコークスが燃え、そこに無理矢理薬缶を固定している。

機操剣コイツはお茶を淹れるだけじゃなく、肉も魚もパンも焼ける。高位解析機関が時間を計ってくれるから、焦がす心配もない。戦場じゃ、よく戦友と夜食にジャガイモを蒸したものさ」

「そういう使い方をして、壊れないんですか?」

「あっはっはっは。この程度で壊れるなら、軍事用に転用されていないさ。砲弾を真っ向から喰らっても弾き返すよ」

「へえ。けど、だからって地面を傷付けていいんですか?」

 白いタイルが敷かれた床に刃が半分近く埋め込まれている。

 ただ、ゼルは首を傾げた。

「大丈夫さ。この床は機錬種製だからな」

 ゼルがもう一度立ち上がり、薬缶を地面に置き直した。そして、機操剣を引き抜く。刃が完全に露出する。

 なのに、刺さっていた場所には傷一つなかった。

「えっ、えっ!? あれ、さっきまで刺さっていたのに」

 驚くフレンジュの姿に、ゼルは得意気に機操剣をタイル床に突き刺した。今度は、さっきよりも深く。

 石が砕ける音でも、硝子が割れる音でもない。

 砂の地面をスコップで掘る音に似ていた。

 刃と床の境界には、薄紙一枚の隙間もない。

 それは突き刺すよりも、沈み込んだと表現するべきか。

「刃と床が干渉した瞬間に高位解析機関が起動して《機錬種》の機導式を逆算する。あとは、任意に機導式を解除、再構築しているってわけだ」

 ゼルが再び機操剣を引き抜く。

 切っ先が抜ける瞬間、生まれた隙間を砂のごとく極小の《機錬種》が埋め、白いタイルの姿を想い出す。

 やはり、傷一つ残らなかった。

「この程度は、機導使いにとっちゃ必須条件だよ」

 機操剣を担ぎ、ゼルが片目を閉じて笑う。

 お世辞にも、あまり似合ってはいなかった。


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