第25話 幸せになろうよ

 黒百合の見せる記憶に私が浸っていると、急に声がした。


「千代さんっ、危ない!」


「えっ」


 気がつくと、沖さんに腕を引っ張られ、私の体はすっぽりと腕の中に収まっていた。


 見ると、黒い百合はさっきまで私がいた辺りにガブリと噛みつき、空を咀嚼していた。


 ゾッと背中に悪寒が走る。


 危ない。沖さんに助けてもらわなければ、私が食べられるところだった。


「す、すみません」


「いいよ。それより、ここまで育ったからには、本格的に焼き払わないとね」


 大きく花開く黒百合を、沖さんはキッと睨みつけた。


「狐火!」


 沖さんがお札を投げつけると、黒百合の花弁は大きく炎を上げて燃えていく。


 続いて茎、葉、根っこ――そしてあの黒い球根も、真っ赤な炎に飲まれていく。


 やがて静江さんの体に巣食っていた黒百合は黒い煤になって粉々に砕け散ると、開け放したドアから空へと登って行った。


 黒百合が完全に消え去った後、静江さんは泣きながらペタリと床に手をついた。


「文子さんが悪いのよ。あんなに愛し合っていたのに」


 文子さんはそんな静江さんを、戸惑ったような、少し軽蔑したような、複雑な表情で見守っていた。


「静江さん」


 私は静江さんの肩に手をやった。


「静江さん、静江さんは、本当に文子さんを好きだったのね」


「ええそうよ、文子さんが入学してからずっと見守ってきたのよ。私だって、普通の幸せが欲しかった。それを横から――」


 泣きじゃくる静江さんを、沖さんは冷たい目で見やる。


「そうかな? 本当に好きならば、愛する人の苦しむ所は見たくないんじゃないかな?」


 静江さんはハッと顔を上げた。


「相手の幸せを願うのが本当の愛だと、僕は思うけどね」


 文子さんは、失望したような瞳で静江さんを見下ろした。


「静江姉さま。私は、静江姉さまが好きだったわ。凛としていて、汚れなくて、真っ直ぐに生きる白百合のような静江姉さまが。まさか、こんなことになるなんてね」


 文子さんの言葉に、静江さんは声を出して泣き崩れた。


 ***



「結局、あの二人はあのまま仲違いしてしまったようです」


 数日後、私がカヨ子さんから聞いた二人の様子を伝えると、沖さんは不思議そうな顔をした。


「千代さんは、二人が仲直りできなかった事が残念なの?」


「はい。だって、一度は愛し合った人たちどうしですから」


 私が視線を落とすと、沖さんは呆れたように息を吐いた。


「愛し合った……ね。どうも一人は本気で、一人は遊びだと思っていたようだけど」


「そ、それはそうですけど――私、静江さんの気持ちが少し分かる気がして」


 私の言葉に、沖さんは目を丸くする。


「えっ、君も女の人が好きなのかい?」


 ど、どうしてそうなるの!


 私は慌てて否定した。


「違います! そうじゃなくて――」


 私は静江さんの言葉を思い出す。


 『私だって、普通の幸せが欲しかった』という静江さんの言葉。その言葉が耳に残って離れない。


 それはきっと、私も同じ気持ちだから。


「そうじゃなくて――普通の幸せが欲しい、って、私もそう思っていたから」


「普通の?」


「はい」


 店内には、ゆったりとしたジャズが流れる。コーヒーの香り。


 私の頭の中には、カヨ子さんの言葉がゆっくりと蘇ってきた。


 “ 普通の人だなんて、この世にはいやしないわ。皆どこかしらに欠点はあるのよ”


 私は、普通の人との結婚を望んでいた。だけど――。


 私は、沖さんに素直な気持ちを打ち明けた。


「私、ずっと誰かと結婚したくて。結婚して、暖かい家庭が欲しかったんです」


「うん、知ってる」


「……だけれど、沖さんに求婚されて、すごく戸惑ったんです。どうしてだろうって考えたんですけど――」


 うつむき、ギュッとエプロンの裾を握る。


「結局、私はそこまで結婚したいわけじゃなかったのかもしれません。私がなりたかったのは普通の人。普通に結婚して、普通に主婦をすることで、私は普通の人になりたかったのかもしれません」


 普通になんて、なれるわけないのに。


 私の話を聞いて、沖さんはうなずいた。


「なるほど」


「だから沖さん、私――」


「千代さん、よく聞いて」


 沖さんは、私の言葉を遮るように言うと、私の両手を握った。


 ハッと顔を上げる私に、沖さんは優しい口調で続けた。


「確かに僕は普通の人間でもないし、千代さんも特別な力を持っていて、普通の人間じゃないのかもしれない」


「はい」


「だけど、普通の人間にはなれなくても、幸せになることはできる」


 沖さんの狐の目が、ふっと秋の日差しのように和らぐ。


「だからさ、普通になるためじゃなくて、幸せになるために、僕と結婚しようよ、千代さん」


 握られた両の手が暖かい。


 まるで私の心に巣食う冷たい氷を溶かすかのように。


 普通じゃなくて、幸せに――。


 その言葉を何度も噛み締めているうちに、私の目からは、いつの間にか涙がポロポロと溢れていた。


「……こんな私でも、幸せになっていいんですか?」


 だって、私は――。


「ああ、いいさ」


 沖さんは、私の背中に手を回すと、優しく抱きしめた。


「僕と結婚して、幸せになろう」


 幸せに――。


 幸せに、なりたい。


「……はい」


 私は小さくうなずいて、沖さんの体を抱きしめた。


 その日初めて、私は沖さんと結婚することを、心から納得できた気がした。


 確かに沖さんは狐だけど、この人とならやっていけるんじゃないかって、私は初めてそう思えた。


 私は、幸せになりたい。


 普通じゃなくて、幸せに。


 私でも、なれるかな。


 幸せな――狐のお嫁さんに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る