第20話 誰かへの思ひ

「刀が!?」


 私が驚いていると、沖さんは刀を手に、ゆっくりと振り向く。


 沖さんの体の纏う気が、炎のように赤と金に揺らめく。金の眼がすうっと細くなった。


 ゾクリと身震いをする。あれは、獣の瞳だ。狩りをする時の肉食獣の目だ。


「シャアッ!」


 蛟は部屋の中でくるりと回転すると、水をまといながら、今度は沖さんの方へと向かってきた。


 チャキ。


 広い室内に、鍔を返す音が響く。


 小さく息を吸い込む音。


「――哀れな。堕ちたる神よ」


 沖さんは大きく刀を振り上げたかと思うと、真正面から蛟を切りつけた。


「オオオオオオオオ!!」


 蛟の体が炎に包まれる。


 火の勢いを妨げるかと思われた水は、一瞬にして蒸発し、辺り一面白い水蒸気に覆われる。


「……凄い」


 思わず口をついて出た。


 焦げ付くような臭い。燃え盛る炎はまるで地獄の業火のように蛟の体を焼き尽くしていく。


 その様子を見つめる沖さんの横顔は、いつもと違い冷たい瞳で眉一つ動かさず、まるで別の人みたいだった。


 そして体をくねらせもがいていた蛟は、やがて完全に動かなくなり、黒い灰となった。


「た、助かった……のか?」


 古賀さんがペタリとその場に座りこむ。

 その横には、女性の霊が寄り添うようにして立っている。


「そのようだね」


 沖さんもくるりと刀を回して鞘に収めた。


「女の人の霊が守ってくれたんですよ」


 私が言うと、古賀さんは不思議そうな顔をする。


「女の人が?」


「えっ? いますよね、ほら、そこに……」


 だけど古賀さんは首を横に振る。


 どうやら、古賀さんには女の人の姿が見えないらしい。


 だけど女の人の霊は幸せそうに古賀さんの側で微笑んだ。


 その瞬間、女の幽霊の記憶が頭の中に波のように流れこんできた。




「葉子、俺はきっと、帝都に行ってビッグな男になる!」


 若い男が胸を張る。

 少し若くて野暮ったいけど、爽やかな笑顔の持ち主は古賀さんだ。


「私も応援してる。あなたの歌声は人を幸せにするわ。みんなに届いてほしいの」


 そして古賀さんは上京する。二人は離れ離れに。そして――。


「……結核ですね」


 医師の宣告する声。咳の音と、手についた血。葉子さんは結核に侵されていたのだ。


 だけどそのことは、古賀さんには伝えなかった。歌手として活躍する彼の負担になってはいけないから。


 そして葉子さんは「別れましょう」という手紙を古賀さんに送り――。


 そっか。葉子さんは女遊びが激しい古賀さんに捨てられたんじゃなかったんだ。


 古賀さんの負担にならないように、残り余命少ない葉子さんは別れることを選んだ。


 そして葉子さんは、死んでからも古賀さんの事を守っていたんだ。



「大丈夫ですよ」


 私は葉子さんの霊に向かって呼びかけた。

 

「ここにいた悪いものは退治しました。古賀さんはもう大丈夫です」


「葉子さん、そこにいるのか」


 古賀さんが立ち上がる。


「死んでからも、俺を見守ってくれていたのか。そうか……」


 古賀さんはこぶしをギュッと握りしめると、私が語りかけた方向へ語りかけ始めた。


「でも俺はもう大丈夫だから。ありがとうもごめんもずっと言えなかったけど、これからは君を苦しませることはもうしない。だから安心して眠りについてくれ! 今までありがとう。お前のこと、忘れないよ」


 古賀さんの言葉に、葉子さんはニッコリと笑い、キラキラとした光になって天へと登っていく。


「見て、葉子さんが……」


 私の言葉に、古賀さんはうなずく。


「ああ。キレイな光が見える。成仏……するんだな?」


 沖さんが小さく手を合わせる。私も、慌てて手を合わせた。


 やがて光は窓から天に登っていき、完全に見えなくなった。


 葉子さん、どうか安らかに。


 ***


「結局、あのあとあのスタジオは取り壊されたみたいですよ」


 後日、國仲さんが教えてくれる。


「そうなんですか、何だかもったいないですね。蛟も居なくなったし、綺麗な建物だったのに」


 私が言うと、沖さんが笑う。


「ま、古賀さんもあそこではもう二度と録音したくないでしょうし、一度悪い噂が立ってしまったから、もう他に借りる人も居ないだろうし、仕方ないね」


 と、そこまで言って、沖さんは目を意味深に細めた。


「それに、一度神格化したものは完全に取り除くのは難しいからね。工事が終わったら、また元の場所に祠を戻すそうだよ」


「そうなんですか」


 沖さんは、コポコポとコーヒーを入れながら、誰に言うでもなくつぶやく。


「……通りにガス灯がつき、車が道を走り回る時代だけど、人の魂が無くならない限り、妖怪や怪異は無くなるわけじゃない。打ち捨てられたああした古い神々の後ろにも、かつてはきっと人々の切実な祈りがあったはずなんだ。だから、元に戻さないとね」


 人々の祈り……。


 私は葉子さんから流れこんできた、古賀さんを愛しく思う強い気持ちを思い返した。


 葉子さんは、亡くなった後も、古賀さんを心配して見守っていた。


 私は、誰かのためにあそこまで切実に祈ることができるだろうか。人を思える、愛することができるだろうか。


 私は沖さんの顔をじっと見つめた。この世のものとは思えぬほど整った目鼻立ち。人間ではない、私の許嫁。


 瞼の奥にこびりついて離れない、炎に包まれた、冷たい獣の目をした男の人。


 ――私は、沖さんを愛することができるだろうか?

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