第40話 膨れ上がった闇
この怪異は、千代さんだ。
おそらく、狼だけじゃない。
この塔も、黒い茨も、千代さんが目覚めないのも。
そして、かつて婚約者たちを襲っていた黒い影も――全ては千代さんが無意識に引き起こしていた怪異だったんだ。
初めて千代さんがカフェーにやってきた時から、この子には強い呪いがかかっていて、解くのは容易ではないと感じていた。
だけどそれは、千代さんを思う何者かの呪いかと思っていた。
千代さんは、結婚したがってた。暖かい家庭を持つことや、親元から離れて暮らすことを望んでいたから。
それを邪魔したがっている誰かがいるのかと思っていた。
しかし今思うと、婚約者たちはちょっとした事故や病気にあっただけで、命を落とした者はいなかった。
なぜだろうとずっと不思議だったが、この呪いの主が千代さんなら、全て説明がつく。
千代さんの結婚を邪魔していたのは千代さんの心だったんだ。
千代さんは、心の奥底では結婚を――幸せになるのを怖がっていたんだ。
母親に対する罪の意識からか、辛い生い立ちのせいかは知らないけれど、無意識のうちに力を使って、幸せを遠ざけていたんだ。
他ならぬ、自分自身の力で。
これが「呪われた令嬢」の真実。
全ては千代さん自身が引き起こしていた事件だったんだ。
茨姫に呪いをかけていたのは、他ならぬ、姫自身の心――。
「どうして」
黒い狼から千代さんの声がした。
「帰って……帰ってください。私の正体を見たでしょう。私はこんなに黒くておぞましい……多くの人を傷つけた。幸せになる資格なんてないんです。だから」
ああ、なんてことだ。
僕は狼をきつく抱きしめると、強い口調で言った。
「いいや。僕は君を連れて帰る。だって、君は僕の大事なお嫁さんだからね」
僕ははるか昔、千年前の出来事を思い出した。
「千代さん、僕が昔、結婚していたことは話したね?」
千代さんが小さくうなずく。
僕は、かつての妻のことについて話し始めた。
「僕のかつての妻は、
もちろん僕は生贄なんて望んでいなかったんだけど、せっかくの人間からの好意だし、彼女がとても美しかったので、お嫁さんにすることにしたんだ。
だけど、僕には天狐としての
その内に、
人間である彼女を巻き込むまいと、僕は彼女を遠ざけ、家に帰らなくなった。
だけど戦乱が収まり家に帰ると、彼女は病で亡くなっていた。
彼女は僕に心配をかけまいと、病のことをずっと黙っていたみたいなんだ。
僕はろくな稼ぎも無かったし、彼女は古いぼろを身にまとって、一人ぼっちの家の中、薬も買えずに亡くなったのだという。
そして失って初めて、僕は彼女の聡明さや純粋さがたまらなく好きだったことに気づいたんだ。
なんでもっとそばに居てやれなかったんだろう。
なんでもっと好きと言わなかったんだろう。
もっと良い暮らしをさせてあげれば良かった。
失ってから、ずっと僕は後悔していた。
「だから僕は、次に好きな人ができたら、全力でその人を愛そうって思ったんだ。何があっても守ろうって。失ってから後悔しないようにね」
狼がはっと顔を上げ、そしてまたうつむいた。
「でも、こんなに腕が血まみれで――沖さんだけじゃない。前の婚約者や、色んな人を私は傷つけて、こんな私が」
僕は狼の頭をそっと撫でた。
「いいさ。僕が憎くてこうしている訳じゃないのは分かっている。君はただ怖がってる。戸惑っているだけだ」
黒い狼の目から、涙がポロポロと流れ落ちる。
「千代さん、あの黒い茨や狼は、確かに君が生み出したものだ。君の幸せを恐れる心がね」
「だったらどうして――」
「千代さん、だからこそ、君は自分の幸せを恐れる心を受け入れて、克服しなくちゃいけないんだよ」
「自分の幸せを恐れる心を?」
狼は涙に濡れた大きな瞳を見開く。
「そう。二度と怪異を産まないようにね」
僕は子供を諭すように、そっと狼に語りかけた。
「幸せになるのに、資格なんていらない。誰にでも幸せになる権利はあるんだ。それでももし、千代さんが自分がを許せないと言うのなら、僕のために幸せになってくれないか?」
「沖さんのため?」
僕はうなずいた。
「僕はね、君が傷つくのは辛いんだ。僕ならどれだけ傷ついてもいい。だけど君には僕の隣で笑っていてほしい。だから――」
僕は黒い狼を抱きしめると、そっと口付けた。
「だから僕のために、僕と結婚して。幸せになっておくれ」
姫の呪いを解くのは、王子様の
見る見るうちに、狼が美しい人間の女性の姿に戻っていく。
「――本当に、
千代さんは泣きはらした目で、少し笑ってうなずいた。
「でも私、沖さんのそういう所が――」
言葉の最後は、残念ながら僕には聞き取れなかった。
*
気がつくと、僕と千代さんは並んで眠っていた。
僕が夢の世界に行く前と変わらない寝姿。
だけど、千代さんはほんの少しだけ顔色が良くなって、あの黒い茨も綺麗さっぱり消え去っていた。
「千代さん、起きて」
僕が千代さんの体を揺すると、千代さんは「う、うーん」と子供のように可愛らしい声を上げる。
そして、太陽が登り、花が夜露に濡れていた花弁を開くように、千代さんはゆっくりと目を開いた。
「千代さん……千代さんっ!」
僕がガバリと千代さんに抱きつくと、千代さんは目を白黒させた。
「お、沖さんっ!?」
「ああ良かった。ようやく夢の中から帰ってこれた」
「夢の中?」
キョトンとする千代さん。
どうやら、千代さんは夢の中の出来事を何一つ覚えていないようだ。
でもそれでいい。
辛い出来事は思い出さなくてもいい。
時が来たら、話す必要はあるかもしれないけど、今はまだその時じゃない。
僕は千代さんの頬をそっと撫で、囁いた。
「……大丈夫だよ。あれは全部夢の中の出来事だから。帰ってきてくれてよかった。僕のお姫様」
そう言うと、千代さんは耳まで顔を真っ赤にして身をよじった。
「もう、何言うんですか、沖さんったら」
そう言って恥じらう千代さんの可愛らしさといったら。
ああ、相変わらず僕のお嫁さんは可愛い。
早く僕のものにしたい。誰にも渡したくない。
僕は千代さんの両手を握った。
「大丈夫。何があっても僕が守るから。千代さん、僕と結婚して、幸せになろうよ」
しばらく間があって、やがて彼女はうなずいた。
「……はい」
千代さんは、泣き腫らした真っ赤な目で、僕を見つめて笑った。
僕はもう一度、千代さんをきつく抱きしめた。
暖かく、柔らかい温もり。
ずっと欲しかった幸せ。
大丈夫、僕らなら、幸せになれる。
僕はそのためなら、何だってする。
子供を作ったりだとか、家に帰ったら暖かい食事が待っているだとか、結婚の良さって色々ある。
けれど、僕は結婚の一番の良いところは二人で支え合えることだと思うんだ。
この人がいるから大丈夫、この人がいるから頑張れる。そういう関係に、僕らもなっていきたい。
きっとそのために僕らは結婚するんだ。
大丈夫、僕らなら幸せになれる。
きっと、ずっと――。
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