第参章 懐中時計の怪
第11話 喫茶・ルノオルの女給さん
カランコロン。
軽やかな鐘の音とともにカフェー・ルノオルのドアを開くと、沖さんが両手を広げて出迎えてくれる。
「やあ、いらっしゃい。僕の愛しい人よ」
どこで覚えたのと思うほどキザな物言いに、私は顔を引きつらせる。
「愛しい人って。その手は何ですか!?」
「何って抱擁だけれど? 外国の映画で見たんだ」
何を見て何を覚えてるのよ、この人は。
「日本人はそんなことしません!」
私がドサリと椅子に腰かけると、沖さんはクスリと笑った。
「そうなんだ? 最近の日本人は西洋化しているって聞くから、てっきり抱擁もするのかと」
「しません」
全くもう、映画から何を学んでるんだか。
というか、狐でも映画なんて見るんだ。
私がため息をついていると、沖さんはいそいそと外套を身にまとった。
「それで、今日はどこに行く? 銀座? それともまた日本橋?」
えっ、今日もまた、どこかに行くつもりなの?
私のためにやってくれている事だというのは分かるけど、何だかちょっぴりうんざりしてしまう。
あれから、沖さんは私を何度も百貨店やレストランへと連れていってくれた。
その度に、沖さんは美味しいものをご馳走してくれたり、お洋服や小物を買ってくれるんだけど、もう特に欲しいものは無いんだよね。
それに、こんなに頻繁に奢ってもらっても、嬉しいというより、悪いという罪悪感の方が勝ってしまう。
私はいつもそう。人に親切にされても、何だか悪いなあとか、どうしてこの人は親切にするんだろうという疑いの心の方が勝ってしまう。悪い癖だとは思うんだけど……。
それに沖さんがとびきりの美青年なせいで、二人でいると凄く目立っちゃって全然落ち着かないし。
だから、私は少し考えた。
これから私がすべきことを。
「いえ、私は特に行きたいところはないです」
私はキッパリと言うと、カウンター席に腰かけた。
「それじゃあどうするの。どこかお洒落なレストランでも行く? それともまたここでコーヒーでも飲む?」
奥から雑誌を持ってきてペラペラとめくる沖さん。
「ほら見て、ここの洋食屋なんてどうかな?」
「いえ、それよりも提案があるんですが――」
「提案?」
私はすうと息を吸い込むと、沖さんを真正面から見すえた。
「はい。今日からは、私にこのお店のことを手伝わせてください。女給として」
沖さんは私の提案にキョトンと目を丸くする。
「このお店で? どうして?」
「それは……そろそろ買い物にも飽きてきましたし、そのほうが親にもお華やお茶を辞める言い訳ができるかなあって。ほら、花嫁修業だって言えば許して貰えそうですし」
毎回、沖さんに物を買ってもらったりご馳走になるよりだったら、働いているほうが楽。お世話になりっぱなしは悪いもの。
沖さんは私の提案にふむとうなずいた。
「なるほど、君がそうしたいって言うのならそうしよう。僕は君の側に居られるならそれで満足だし」
「はい、ありがとうございます」
沖さんは琥珀色の瞳で優しく笑う。
「じゃあ、今度からは、君にカフェーの事を色々と教えてあげなきゃね。手取り足取り……むふふ」
全く。何を考えているやらこの男は。
私が頭を抱えていると、沖さんは嬉しそうな顔で手招きした。
「あ、そうだ。千代さん、こっちにおいで、ここで働きたいのなら、良い物があるよ」
「良い物?」
二人で店の奥へと向かう。
「えーっと、確かこの辺に……あった! 昔、ここにいた女給さんが置いていったんだ」
昔働いていた女給さんなんていたんだ。
そんな事を考えていると、沖さんは引き出しの奥から
「わあっ、これってもしかして、カフェーの制服ですか?」
「うん。これに白のエプロンをつけるんだよ。可愛いでしょ。きっと千代さんに似合うよ」
「はい、ありがとうございます」
私は早速、ルノオルの制服を持ってお店の奥へと向かった。
臙脂色の着物に袖を通し、白いフリルのついた女給さんのエプロン。足元はブーツのままで、頭には沖さんに買って貰った大きなリボン。
わあ、素敵。新聞や雑誌で見た女給さんの制服そのものだあ。
最近、雑誌や新聞でもしょっちゅう女給さんの特集記事が組まれているし、女給さんをテーマにした小説なんかもあって、少し憧れてたんだよね。
「どうでしょうか?」
着替えを済ませ、沖さんに制服を見せる。
沖さんはぱあっと顔を輝かせた。
「わあ、可愛い! やっぱり僕の想像した通りだあ」
再び抱きつこうとした沖さんをグイッと押しのける。
もう、恥ずかしいじゃないの!
「それより、女給さんの仕事について教えてください」
気を取り直して質問をすると、沖さんは急に真面目な顔つきになった。
「そうだね、今みたいにお客さんが居ない時は、メニューやテーブルを拭いたり、あとは掃除とか、ナプキンの補充をしたり、スプーンやフォークを磨いたりかな。あっ、福助の餌も」
沖さんが窓辺に座っている黒猫を指さす。
「なるほど」
お客さんがいない時も、ちゃんとやることがあるんだ。
良かった。暇なお店だと思ってたけど、これなら退屈しないかも。
私は拳を握りしめて気合いを入れた。
よしっ、女給さんのお仕事、頑張るわよ!
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