おとうさんとおかあさん

 やすらぎさんが小学校の高学年の頃から、おかあさんは苦労の連続でした。

 おとうさんが転職を繰り返し、家族に黙って借金を重ねるようになっていたからです。


 やすらぎさんが15歳の時に、おとうさんは離婚届を置いてひとりで家を出て行きました。


 それから、おかあさんは働き詰め。

 おにいさんは進路変更をして働きながら大学の夜間部に通い、やすらぎさんも奨学金を借りてアルバイトざんまいの高校生活でした。

 やすらぎさんは、どれだけおとうさんを恨んだかわかりません。



 しかし、やすらぎさんが大学生の時に、おとうさんは突然亡くなってしまいました。


 音信不通だったおとうさんの訃報を知ったのは、テレビのニュースでした。

 船橋のデパートで火災があり、警備員だったおとうさんは現場の同僚を救助しようとして命を落としたのだそうです。


 やすらぎさんは新聞記事の住所を頼りに一人で、おとうさんのアパートに行きました。


 そこには、変わり果てたおとうさんが横たわっていました。


 付き添いの同僚の人から、おとうさんの最後の勇姿を聞くうちに、それまでやすらぎさんの胸にくすぶっていた恨みや怒りが消えて行きました。

 自らの危険をも顧みずおとうさんは、身を呈してまで人の命を救おうとしたのですから。


 やすらぎさんは、今では勇敢なおとうさんを誇りに思っています。




 それから年月が流れ、やすらぎさんもその時のおとうさんの年齢になっていました。

 

 おとうさんの命日に、やすらぎさんはおかあさんに、おとうさんのことを話してみました。

 そうしたら、おかあさんは不思議そうに、やすらぎさんを見て言いました。


「おとうさんって、亡くなっていたの? なんでいないかと思っていたの」


 おかあさんから大変だった頃のおとうさんの記憶は、抜け落ちているようでした。




 人というのは生きていれば、自分ではどうしようもないことが起こります。もしかしたら、そんなことばかりかもしれません、人生というのは。

 次の一歩が安全だという保証なんて、どこにもないのです。次の一歩は、ぬかるみかもしれない。それどころか、足元が崩れ落ちることだって往々にしてあるものです。



 おかあさんから嫌な記憶はみんな消えて、穏やかな記憶だけが残ることを願ってやみません。

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