第一章 夏の代行者護衛官 葉桜あやめ⑤




「あやめちゃん……いま居もしない恋人なんて持ち出さないでよ……」




 あやめは悲しみの淵から戻って連理を見つめる。言葉が喉に詰まって出てこない。


――もっと、酷い人なら良かった。


 もっと冷たくて、非情で、こちらのことを人だとも思っていないような。

 人生に巻き込むことを躊躇しなくて済むような悪人ならこんな気持ちにはならなかった。

 

「俺達は、契約で一緒に居るだけだけど、寄り添って生きていく仲間だからさ……」


 彼からすれば生意気で可愛げのない年下の娘。振り回されていることを怒ってもいいのに。


「手は繋いでもいい……にしよう。俺さ、君が病気の時とか、手を引いてあげたいし……」


 連理は木々が人々を雨宿りさせてくれるように、ただ静かに守ってくれる。

 暴力の世界で生きるあやめにとって、正しく穏やかな時間をくれる。

 二人で生きる努力をしようと説得してくれる。

 

「俺の時も、そうして欲しいし……」


――どうして。


 連理は優しい、あやめが苦しくなるほどに。


 何故、愛を乞いたくなるような相手を選んでしまったのか。

 

「お互いよぼよぼになっても、手を繋げる関係のほうがいいよ……」


――恋なんてしたくなかった。


 不自由な世界で、手に入らないものを欲しがるだけではないか。

 大地が春を知ってしまったように、ぬくもりを知らなければ耐えられたのに。


「……」


 このまま黙っていたら彼を困らせる。あやめは観念したように『貴方が良いなら』とつぶやいた。連理はパッと顔を明るくした。

 

「ありがとう……あやめちゃん」


 礼など言わなくてもいいのに、言ってからあやめが頼りなく握っていた手をぎゅっと握り返す。

 指先から、その仕草から、連理があやめを想う気持ちは伝わってくる。

 けして弱く握っているわけでもないのに、離れまいとするような触れ方は恋をしている娘を簡単に狂おしい気持ちにさせる。

 

――ごめんなさい。


 罪悪感が心を満たした。

 あやめと連理はお互いを信用するという一点のみで関係が築かれているのに、あやめのせいで破綻しているのだ。

 この事実を知ったら、目の前の彼はどんな顔をするのだろう。

 

「……まだ、このままでいてもいい?」


 あやめはこくりと頷く。

 視界には繋がれた手が映っている。

 それを見るだけで湧いてくる嬉しさを殺したい。

 人を騙してこんな感情を得ていることが苦しい。

 

――嗚呼、薔薇のアーチの下で良かった。


 少し薄暗いから、赤面も、罪悪感に濡れた顔も、きっと彼にはわからない。


「あのさ……本当に嫌だと思ったら俺のことちゃんと拒絶してね」

「どうしてですか……」


 連理は少しかすれた声で言い聞かせるように囁いた。


「……あやめちゃんの前では、俺、すごく頑張ってるけど……嫌なところたくさんあるから」

「頑張ってるんですか……?」

「そりゃそうだよ。君に嫌われたくない……」


 言ってから、連理は恥ずかしそうに、おどけるようにして笑った。

 

「家族にも嫌われてるのに、君にも嫌われたら、俺、おしまいでしょう」


 また道化を演じようとしている。

 彼にとって、『卑下』とは自分を守る手段なのだ。

 けれども、あやめはもうそれをやめて欲しかった。

 彼女は既に彼の素晴らしさを知っている。




「頑張らなくたって、私、嫌いません。ずっと連理さんの傍にいますよ……」




 自分殺しがうまい二人。引かれ合うように出会ってしまった。


 連理が息を呑む音が聞こえた。


 気持ちを抑え、我慢することに慣れているからこそわかる。

 あやめが連理を必要としたように、連理もあやめが必要なのだ。


――それが同じ気持ちじゃなくても。


 必要とされている。

 自分だけ彼が欲しいと思っていない。役割だけじゃない。

 それがわかって、泣きたくなるほど嬉しくなった。

 

「連理さん……」


 好意的な言葉を言わないようにしていたのに、彼が求めていると思うともう駄目だった。

 

「本当に頑張ることなんかありません。だって、私……嫌いになんか、なりませんから……」


――貴方が好きだと言いたい。


「一生、なりませんよ」


――言えたら、どんなに良いか。


 二人の間に架かったアーチは、まだ頼りない。


「信じてください……」


 この時のあやめには、それが精一杯の返しだった。

 下手に好きというより如実に好意を表していたことに本人は気づいていない。


「……」


 連理はこちらが驚くくらい目を見開いた後、やはり笑顔を見せた。


「……ありがと、俺も嫌いにならないよ」


 だが、すぐに何もかも見通しているような、不思議な目つきになって言った。


「あのね、君が俺のこと嫌いになったとしても、俺はそうならないんだ。一生ね」 


 どうしてかわからないでしょう、と彼は謎の問いかけをした。


――わからない。


 あやめは何一つわからなかった。ただ、自分達が抱える孤独を埋めたいと思った。

 それが叶うのが遅くてもいい。


――私、一生かけて。


 どれほど時間がかかってもいいから。


――この人と、生きていきたい。


 純粋にそう思った。


「……帰ろっか、あやめちゃん」




 二人で手を繋いだのは、それが最後だ。




 あやめが抱えていた悩みは、ふさわしい形で終わりを迎える。



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