第一章 夏の代行者護衛官 葉桜あやめ③




 二人の寂しくて幸せな時間はどんどん過ぎていく。




 庭園には迷路園にも似た薔薇の庭が存在していた。

 その頃にはすっかり人も居なくなり、あやめと連理の足音や話す声だけが周囲に響き、聞こえてくるのは鳥のさえずりと風の音、揺れる葉音だけになっていた。

 二人は薔薇のアーチで出来た迷路園をどんどん進んでいく。

 式準備の話や会わない間の出来事を共有して、時に笑い合い、じゃれあって、後半はすっかり会議ではなくなっていた。

 

――いいのかしら。


 こういうの良くないのでは、とあやめは思う。

 あやめは彼が好きだから嬉しい。けれど、彼はそうではないのだ。


「あやめちゃん、もうこれ、結婚式みたいだね」


 連理は目の前の相手の心など知らず、浮足立つ様子で手を差し出してきた。

 そんなことは初めてだった。今まで手を繋いだことはない。

 頬をつつくような悪戯や、なだめるように頭を撫でてもらったことはあっても、紳士的にお手をどうぞ、なんてことをされたのは初めてだった。だから雰囲気に呑まれてあやめは連理の手を握ってしまった。

 

「新郎新婦入場……みたいな」


 連理は笑う。確かに、花の道を歩く二人は花嫁と花婿のようだ。


――嬉しいけど。


 悲しくもある。あやめはすぐ後悔した。

 

「そうですね……はい、終わり」


 そう言ってこのお遊びをやめた。

 何だか虚しくなったのだ。

 しかし、連理がするりと抜けた手をまた掴んでしまう。

 そして少し不安そうなまなざしで『どうして』とあやめに言った。

 

「予行練習しようよ」

「もうしましたよ」

「もう少し……だめ?」

「……」

「必要なことだし……」


 あやめの瞳を覗き込む連理には、懇願とも言える感情が見える。


「その……仰ってることはわかるんですが…………私達偽物だし、軽々しく……本物みたいなことしたらいけないのではと思って……」


――貴方がいつか本当に手を繋ぎたいと思う相手に申し訳ない。


 あやめの遠慮も知らず、彼は悲しそうな顔をする。


「……手を繋ぐくらい友達でもするよ」

「嘘、私の周りではしません。特に殿方とは」


 少し突き放す言い方をしてしまったかもしれない。

 彼は明らかに傷ついた顔をした。

 

「ごめんって。はい、離します。申し訳ありませんでした。もうお手に触れませんよ」


 離されると、途端に手が冷えた。

 融通がきかないあやめに怒ったのか、彼は先に歩いていってしまう。


――行っちゃう。


 薔薇のアーチの中は薄暗い。

 太陽の光は差し込んでいるが、日陰の中を歩いている形に近い。

 だから先に行かれると、すごく遠く感じた。

 あやめは自分で拒否したことも忘れて、暗い方へ行ってしまう彼を見るのが嫌で駆け寄った。そして思わず連理の腕を掴む。

 そのまま指先を動かして、連理があやめにしたように手を絡ませた。

 

――顔がすごく熱い。指先も熱い。心臓がうるさい。


 何をしているのか自分でもよくわからない。

 

――好きになっては駄目なのよ。


 わかっている。けれど様々な感情がせめぎ合って、思考が正常ではないのだ。

 

「ど……したの?」


 恥ずかしさと緊張で黙ったままのあやめを見かねて、連理の方から声をかけてきた。


「あやめちゃん、俺と手を繋ぐの、嫌なんじゃないの……?」


 その声音は、少し傷ついている人が発するものだった。


「……嫌がってたじゃん」


 あやめはその言葉に胸が締め付けられた。

 連理は傷ついたのだ。先程のあやめの態度は親しい仲だとしても冷たいものだった。

 けれども、彼は自分を傷つけた相手でも、その人の表情が曇っていたらまず心配をする。


「俺の機嫌とりなら、しなくていいよ」


 そして一歩引いたところで判断を委ねてくれる。

 彼もまた、自分を殺すのに慣れているのだ。

 

「……やじゃ、ないです……」


 嫌なわけがない。さっき拒絶したのは勘違いする自分を押し留めたかっただけだ。


――あなたにとっては簡単なことでも、私にはそうでなかっただけで。


「連理さんと、手を繋ぐのやじゃ……ありません。嫌じゃ……ないんです……でも」


 一方的に掴んだ指に、彼の指が優しく絡まった。

 窺うように顔を覗き込まれる。

 

「また、遠慮してるだけ……?」


 あやめは彼と目が合うのが怖くて下を向いた。

 瞳からも『好き』という感情が漏れてしまう気がして怖い。

 

「はい。だってこんなの……連理さんがいつか恋人にする人に悪いじゃないですか……」


 本当のところは少し違った。


 それは嘘ではないが、理由の大部分を占めてはいない。

 あやめは自分を戒めているのだ。

 何故なら、こういう時必ず声がする。




『瑠璃を見殺しにしていること、忘れたの?』と。




 その声音は冷たく、的確に心を抉る言葉を投げかけてくる。




『嫌な女』


 自分の声で、自分が、罵ってくるのだ。


『あんなに好いてくれる瑠璃を遠ざけて』


 浮かれている時こそ、その声は出現してくる。


『自分だけ逃げて恥ずかしくないの』


 犯している罪を忘れるなよ、と。


「……あやめちゃん?」


 黙り込むあやめを連理が心配そうに窺う。

 大丈夫だと微笑みたいが、うまく笑みを作ることが出来ない。

 色んな感情があやめを襲って、窒息死させようとしていた。

 罪悪感で胸が苦しい。家では孤独な神様が一人で待っている。

 ついてきたがっていたのに拒絶して逃げてしまった。

 可哀想な妹はいま独りぼっちだ。

 

――わかってる。ちゃんと自分のこと。


 あやめはもう、瑠璃と居ると楽しいことより悲しいことのほうが多かった。

 

――私は大嘘つきの裏切り者よ。


 年月を重ねるごとに、いま妹が置かれている状況の残酷さがわかってきた。

 どうして突然自分の人生を奪われるような目に遭わなくてはならなかったのか。

 何故、誰も助けてくれないのに奉仕せねばならないのか。



『お姉ちゃん、夏だよ』

『お姉ちゃんの為にあげる』

『お姉ちゃんが居るから頑張れるの』



 可哀想な妹を役目から解放してあげられる日が来るとしたら彼女が死ぬ日だ。

 妹の気持ちを尊重するなら少しでも長く傍に居てあげたほうがいい。

 なのに、あやめは連理と契約結婚までして早い別れを選ぼうとしている。

 このまま二人だけで居たら駄目になりそうで。

 他の誰かに助けを求めたくて。今の関係をとにかくどうにかしたくて。

 あやめは逃げようとしているのだ。妹が好きなのに、逃げたい。

 

――だって、あの子は言うの。『お姉ちゃん、見て』って。


 魔法のように夏を見せてと唱えれば、彼女はあやめの為だけに神様になってくれた。


『見て、夏だよ』


 同じ顔をした双子の女の子。大勢の幸せの為に自分の幸せを捨てさせられた女の子。

 その子を神様として奮い立たせるのがあやめの役目だった。


『お姉ちゃんが言うから夏をあげる』


 あやめは夏が来る度に苦しくなる。


――瑠璃。


『他の人にはあげたくない』


 自分の罪と対面したかのような気持ちになるからだ。


――瑠璃、やめて。


『お姉ちゃん、夏を見せてって言って』



――ごめんね瑠璃、嘘をついていたの。


 妹の姿をした神様は、あやめの罪そのものだった。


『お姉ちゃん、大好き』


――瑠璃、大好きだよ。


 でも本当はこう言いたい。言ってしまいたい。






「貴方がくれる夏なんて大嫌い」だと。





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