第一章 夏の代行者護衛官 葉桜あやめ①






「第一章 夏の代行者護衛官 葉桜あやめ」






 黎明十九年、季節は夏。夏の里。



 炎陽が大地を抱きしめ、緑滴る山々に青葉の香りが漂う頃。

 鮮やかな色を纏う花々が生を謳歌し、蝶が人の子を誘惑するように空を浮遊していた。

 夏の代行者の季節がやってきたのだ。

 数ヶ月前は真冬の装いだった里も今はすっかり夏衣を纏っている。

 瑠璃とあやめはこの年の夏顕現の旅を終え、里に戻っていた。

 

――久しぶりに会える。


 十八歳になったあやめは自身の婚約者に会う為に外出しようとしていた。

 あやめが着ている服も季節に合わせて夏めいている。

 下ろしたてのワンピースに買ったばかりのパンプス、手には籠バッグだ。

 いつもよりめかしこんでいる姉の姿に妹の瑠璃は何事かと絡んできたが、あやめはそれらしい理由を告げて逃げた。玄関の扉を開けた瞬間、外の光で目がくらむ。

 つい最近まで、冬を退け夏を贈る日々を続けていたせいか、外に出て太陽が燦々と輝いている景色が見慣れなかった。

 まだどこかに雪があるのではと、あの寂しくて冷たい冬の残骸を探してしまう。

 

――今年の冬も根深かった。


 この頃の冬は年々厳しさを増すばかり。冬の里で誘拐された春の代行者はいまだ姿を消したままだ。

 彼女を失った冬の代行者寒椿狼星の悲哀が季節にも表れている。

 雛菊の喪失を埋めるように狼星が季節を敷いている為、通常より二倍の冬季期間があった。

 そこからいきなり夏になるので、季節の変わり目に寒暖差で苦しむ人も多くなっており、気象病が流行るほどだ。

 四季の代行者の伝承では冬しか季節を知らなかった大地が、突然与えられた春の暖かさを知り、厳冬と暖春の繰り返しを嘆く一節がある。

 いま大和の民は身を持ってそれを知っていると言えるだろう。

 

――花葉様、ご無事だと良いのだけれど。


 現在、夏が春の代わりをしていると言っても過言ではないが、やはりそれでは駄目なのだ。

 あやめは会ったこともない春の神様の無事と帰還を祈らずにはいられない。

 そんなことを考えながら歩いていると、目当ての小道にたどり着いた。

 人目を忍んで雑木林に身を隠す。誰にも見られなかったことを確信すると、婚約者が待っているはずの場所にまた歩き始めた。

 里を囲む木々は鬱蒼としていて、一度紛れ込むと人も獣も緑に良く溶け込んだ。別に悪いことをしているわけでもないのだが、 あやめは自然と忍び足になる。

 二人の仲は公表されていないのでこうせざるを得ない。

 

――これも逢引と言えるのかしら。


 考えただけで、何だか胸がくすぐったい心地になった。

 木々の中に隠れた目当ての車を見つけると、あやめは小走りで駆け寄る。

 婚約者の彼との久しぶりの再会、否が応でも頬は上気し心臓は高鳴る。けれども。


「えっまた言えなかったの、あやめちゃん?」


 婚約者はあやめが瑠璃に二人の関係を伝えられていないことを知ると、呆れ声を出した。

 車に乗り込んでからすぐ言われたその言葉に、あやめはむっとする。


――別に甘い言葉を期待していたわけではないけれど。


 もう少し、言いようがあるだろうに。少々軟派な雰囲気の婚約者に抗議した。


「連理さん……そんな簡単なことじゃないんです」

「代行者護衛官のお仕事するより簡単だと思うよ」


 連理はあやめの膨らんだ頬を、からかうように指でつつく。

 あやめの頬はまたすぐにぷくりと膨らむ。四季の代行者護衛官葉桜あやめをこのように扱える人はこの世に彼しか存在しない。


「あやめちゃん、瑠璃ちゃんに気を遣いすぎなんだよなぁ」


 あやめも彼くらいにしかこれほどの気安さを許しはしなかった。


「あのですね、主に気を遣うのが護衛官のお仕事なんです。あの子は心で季節を顕現させるんだから。顕現の旅の最中にわざわざ傷つけるようなこと言えるわけないでしょっ」

「怒んないでってば。あ、言い忘れてた。今年も夏の顕現ありがとうございます」

「……」

「四季の代行者葉桜瑠璃様と、代行者護衛官葉桜あやめ様、並びに各関係者様のおかげで大和に夏が訪れました。夏の里、里医局管理の老鶯家の名代として感謝申し上げます」


 連理はあやめの前では軽薄さを装いつつも基本的に大人で優しかった。


「……老鶯連理様、労いの言葉、痛み入ります。貴方に素晴らしい夏が訪れますように……」


 ふくれっ面であやめが言うと、彼はなだめるように微笑んで囁いた。


「堅苦しいのはこれでおしまい……ごめんね、瑠璃ちゃんに言うの簡単じゃないのわかってるよ。顕現の旅で疲れてたのに俺と会ってくれてありがとうね」

「……」

「機嫌直してよ。なんでもします」


 彼にとってあやめはどんな存在だったのだろう。

 わからない。少なくともあやめにとって彼はかけがえない人だった。




 その人が救済とはその時はわからないものだ。




 二人の馴れ初めはこの時より少し前に遡る。


 十六歳の時、葉桜あやめは何もかも嫌になって里を飛び出したことがあった。

 計画されたものではなく、衝動的な家出だ。


 当時のあやめは、主であり双子の妹でもある瑠璃への接し方や、代行者護衛官の仕事で人生を押し潰されていること、助けられもしないのに妹の傍に居ること、挙げればキリがない様々な事柄で、生活というよりかは人生全般に悩んでいた。

 

 同じく、双子の妹の瑠璃も渦中にあった。縁談が順調に進んでいたからだ。

 

 姉とだけ過ごしていればよかった人生に、違う相手が入ろうとしていた。

 のちに見合いで決まった婚約者のことを気に入りはするがこの時点では違う。

 あやめに依存することで神様業をしていた瑠璃には、自身の婚姻に関する事柄がすべて悩みの対象だった。

 大好きな姉はあと数年もすれば自分から離れていってしまう。

 そんな不安が苛立ちに変わり、周囲への反抗へと変わっていた。

 瑠璃の反抗がぶつけられる相手は自然とあやめに集中する。

 

 やがてあやめは心が折れた。

 

『もう疲れた。消えてしまいたい』と。


 良くも悪くも、あやめは責任感が強すぎた。彼女は人を支えるばかりで、支えてもらうという発想がなかった。

 あやめが可哀想な立場だったのは確かだ。

 しかし、だからと言って家出をしたのは軽率な行為だった。

 彼女自身が望まない結果になるとわかりきっていたからだ。

 

 第一に瑠璃を泣かせてしまう。

 

 あやめは人生に苦悩してはいるが瑠璃を嫌いなわけではない。

 

 第二に、あやめ自身が瑠璃の姉という立場に自己肯定を見出している。

 

 つまり護衛官職から逃げることは自分の首を絞める行為に等しい。

 神の姉としてふさわしく在ることがあやめの存在証明であり、他者から貰える唯一の肯定。

 護衛官の仕事から逃げることは自分への加害。

 求められる振る舞いをすることは自衛とも言えた。

 おまけに、役目を放棄して逃げても里の者に追跡されて連れ戻されるのはわかっている。

 その後に瑠璃がどれだけ悲しむか、今まで築いた信用を失い、周囲から失望され、耐え難い叱責と侮蔑を受けることも容易に想像が出来た。あやめの家出は哀れで愚かな逃避だった。




 免許をとったばかりの自動二輪車で山林を駆け抜けたあの日、あやめはどうなったのか。



 愚かな子どもだった少女は、里から飛び出してすぐに自動二輪車がガス欠になり立ち往生。

 困って峠道で呆然と立ち尽くしていたところ、後の婚約者となる老鶯連理が偶然車で通りがかり助けてくれた。彼が秘密にしてくれたので、あやめが家出をしたという 事実は誰にも知られずに済んでいる。

 

 連理はあやめの身の安全も名誉も守ってくれた。

 

 

「やっぱここは俺が行くしかないかな、お姉さんをくださいってさ」



 あの日、あやめは彼に助けてもらった。

 

「連理さん……」


 それが二人が急接近するきっかけ。

 

 ロマンチックと言えばロマンチックかもしれない。

 あやめにとっては人生の分岐点となった。

 自分のことを助けてくれる人が、悩みを話せる相手が出来たのだ。

 あやめに必要な人間というのは正にこういう存在だったのだろう。

 連理が味方になってくれたおかげで、折れそうだった心が立て直せた。

 また瑠璃の姉としての機能を取り戻せた。

 

 そうあることが必然のように、あやめと連理は婚約へと至った。

 

「いえ、連理さんに出てもらうのは最終手段で……瑠璃に何をされるかわからないので。両親には婚約を認めてもらえましたが、妹のほうが難関です。今まで連理さんの存在を隠していたこと自体、瑠璃の逆鱗に触れるかと。言っても怒るのは目に見えているんですが……」


 何となくあやめが連理に対して頭が上がらないのはあの救出劇があったからかもしれない。

 

「俺、何かされちゃうかな?」

「はい。犬をけしかけられるくらいは……でも私が絶対お守りします」


――これ以上、私のことでがっかりされたくないわ。


 彼女がこう思うのにも理由があった。

 実のところ、あやめと連理は峠での出会いが初対面ではなかった。

 あやめは忘れていたが、もっと幼い時に交流とも言えない交流があったのだ。

 それは幼少期の記憶の中に埋もれていくようなものだった。

 ある時は親に連れて行かれた花見で両親が離れている間に偶然近くにいたので少し会話を、またある時は里の小さなお祭りで姉妹で歩いていると連理にぶつかり迷惑をかけた。その程度のこと。

 子どもの頃に、里の中で何度か接する機会があった。ただそれだけ。

 

 ただそれだけだが、あやめは忘れ、連理は覚えていた。

 

 立ち往生しているあやめを見つけた時に、連理は『あの子だ』とすぐわかったそうだ。しかしあやめは『誰?』と言わんばかりに不審者扱いして失礼な態度をとってしまったという苦い記憶が救出劇の中にある。自分から初対面ではないと説明する連理は明らかに落胆していた。

 

「……それ、俺死ぬよね。相手、あらゆる生物を使役する御力を持つ夏の代行者様だよ。死ぬって……」

「し、死なせませんよっ」


 がっかりさせたのに、連理は小さい頃の姿を知っていたというだけで、年長者としてあやめを守ろうとしてくれた。あやめは彼のそういう器の大きさに救われている。

 

「くく……俺の死因、シスターコンプレックスかぁ」


 連理はけらけらと笑った。

 困ったなぁ、とつぶやくが、本当に困っているようには見えない。


「連理さん、笑い事じゃないです」


 あやめは口を尖らせて言う。


「ごめんって。もし修羅場になったらさ、『それでもあやめさんをお嫁さんにください!』って俺、頑張るから、あやめちゃん援護してね」

「わかってますよ……それに、被害を受けるのは恐らく連理さんだけじゃないですから」


 この時のあやめは婚約発表による瑠璃への影響をけして軽んじてはいなかった。

 

 だが、もっと深刻になったほうが良かったのは確かだろう。

 結局この数ヶ月後、あやめは婚約者披露の場を設けて、瑠璃に婚約者の存在を知らせる。瑠璃はショックで大泣き。拒絶反応で神通力が発動。

 彼女の精神に呼応して、里中の動物がパニックに陥り大暴走。

 動物達をすべて沈静化するのに三日はかかる大事件が起こる。

 その後、瑠璃はあやめを含む里の人間と対話を拒否。

 怒れる妹は部屋に閉じこもり、再びこの大和に春が訪れ、春の代行者、花葉雛菊様に心の雪解けをしてもらうまで、長いストライキ生活に突入することとなる。

 

「そんなに酷いことになる感じ?」


 連理はあやめより事態を甘く見ていた。


「現時点でも、あの子がどれだけ泣きわめくか容易に目に浮かびます……」


 いま乗っているこの車も、瑠璃の怒りを受けて鳥達による猛烈な糞攻撃を受け、それはそれは酷い有様になり、彼は世界の終わりのような顔をする羽目になるのだが。

 

「くくっ……あやめちゃん、大人気だね」


 この時はまだ惨劇が起こることすら知らない。


「ちょっと、笑わないでください。この深刻さわかってないでしょう。私と連理さんの結婚が原因で嵐が起こるんですよ!」


 あやめはむくれた。

 彼はよほど面白かったのか、目に浮かんだ涙を指先で拭いながら言った。

 

「はあ……面白い……まあ、でもそれを乗り越えたら自由の身だよ?」

「……それは」

「俺と一緒に衣世を出て、帝州で新居を構えて夢の都会生活。俺は四季庁関連の医療施設へ、あやめちゃんは……やっぱり四季庁かな? 多少の監視はあるだろうし、報告義務は消えないけど……しがらみは此処に居るより少ない。俺とあやめちゃんの野望が叶うんだ」

「……」


 彼は希望を持たせるように囁いた。


「『里から出たい、自由になりたい』って願い……叶うのもう少しだよ、だから頑張ろ?」

「……はい」

「しっかし、俺から誘ったことだけど、結婚が近づいてくると何だか怖くなってきたな……瑠璃ちゃん、あやめちゃんが居なくなっても大丈夫かな……」

「少なくとも生命は脅かされません。そこは両親が先手を打ってくれていました」


 連理は首を傾げる。


「瑠璃が無事に結婚出来ればですが……」

「利益があるってことか。俺達の結婚みたいに……」

「……はい」

「でも……瑠璃ちゃんさ、婚約者さんの目の前で鹿に乗って逃げてるんでしょ? 結婚出来そう……? 俺、初めて聞いた時腹抱えて笑っちゃったけど、よくよく考えると婚約者さん可哀想だよね。俺って鹿で逃げられるほど嫌われてるのか……みたいな。自分があやめちゃんにそれやられたらへこむわ……二人共ちゃんと手を取り合ってやっていけるのかな……」

「さ、最近は逃げなくなりましたよ瑠璃も……あの方との距離も縮まったみたいです。私も最初は彼に懐疑的だったのですが……両親も瑠璃のことをちゃんと考えていたみたいです」

「あ、そうなの? じゃあ、夏の代行者の護衛官にぴったりの人ってこと?」


 あやめは頷く。瑠璃が逃げ回るせいで上手に進行していたとは言い難いが、あやめはこの見合いに反対する気はなかった。

 なぜなら瑠璃を守る策とも言える婚姻だったからだ。

 

「私が一番不安だったのは、私の後続になる方が瑠璃をちゃんと守ってくれるかどうかでした」

「……ああ」


 あやめが何を指して言っているかは彼もわかったようだ。


「機能不全な代行者は『挿げ替え』をされる可能性がありますから」


 あやめは言いながら苦い気持ちになった。


 挿げ替えとは、言ってしまえば当世の代行者を殺して、新たな代行者を据えてしまうことだ。


 新しい代行者が修行を終えるまで季節が途絶えるという欠点があるので、よほどのことがない限りこうしたことは起こらないが、絶対に無いとは言い切れない。

 歴史上、 挿げ替えは実際に起きているからだ。

 挿げ替えが起きる理由としては、四季の代行者が何かしらの罪を犯して断罪の形で挿げ替えされるという事例がまず一つ。

 あともう一つは里の中の権力争いや何かしら痴情のもつれ、怨恨、逆恨み、そうした民間でも起こり得る問題に巻き込まれ止む無く殺されるというものだ。

 本来なら、季節の不在を生む挿げ替えは里全体で阻止すべきことだがこれを是と考える者も居る。

 システムに異常が出ているなら交換すべきだろうという合理的な思考だ。

 

 四季の代行者は死んでもすぐ次代の代行者が誕生する。


 替えがきく、だから挿げ替えなのだ。

 

 この頃のあやめはまだ知らないが、後に春の代行者護衛官姫鷹さくらから、春の代行者花葉雛菊の身にも挿げ替えの危険が迫っていたことを聞くことになる。

 四季の代行者は現人神であり、祀らるる存在であり、秘匿されし貴人だが、やはり『機能』であり『供物』なのだ。あやめが心を殺しながら『瑠璃、夏を見せて』と言い続けた背景もこの挿げ替えを防止する為だった。

 機能しない四季の代行者など、里にも世界にも必要とされないのだから。

 

「その婚約者さんなら、大丈夫だと思える理由は……?」


 彼からの質問に、あやめは言っていて自分で悲しくなりながらも説明する。


「私なんかよりずっと強い方なんです。里内の武芸大会では優勝を譲ることなく殿堂入り……あの人と結婚すればそれは心強いだろうという……」

「……どんな経歴なの?」

「詳しくはちょっと。でも、本当に、ああいう人が負けることがあればそれはもう瑠璃も、守っている他の護衛陣も全員死ぬ時だろうというような方です」

「あやめちゃんより強くて……最強……? そのひとは、人間……?」

「人間兵器みたいな方ではありますね」


 あやめちゃんが言うなら相当な御仁なんだね、と彼は感心したように言う。

 

「ほら、ご出身が君影一門ですから」

「おお! そうだった。名字が君影さんだったね」

「はい」

「……里の警備を担う君影家のご令息か。そりゃあ護衛官としては期待が持てるね。地盤固めとしても悪くない選択だ。結婚できればお偉方も手が出しにくい。ご両親も中々やり手だ」


 こうした家の力関係に関わる婚姻問題は最良といえる判断の見極めが難しい。

 あやめは彼の言葉を聞いて、両親の采配が間違ってはいなかったことを再確認した。


「瑠璃は昔こそ夏顕現を嫌がり、周囲を困らせましたが……現状は里から敵視されるほどの問題児ではありません。でも、里の勢力図に巻き込まれてとか、そういうあの娘自身とは関係ないところで危害を加えられる可能性が絶対にないとは限らないんです。考えすぎかもしれませんが……だから私は、瑠璃に強い人と結婚して欲しいと思っています……」


 うんうんと連理は頷いた。


「瑠璃ちゃんの護衛官でお姉さんなんだもん。そりゃ心配になるよ。それってあの、瑠璃ちゃんにも伝わっているのかな? ほら、俺達って見合いとか政略結婚が多いけど、それも家の為とかより自分の為って思うと納得しやすいし……自由恋愛の時代で、こんなの……本当に時代錯誤なんだけどさ……。里は異質だから、守ってくれる相手と一緒になった方が良いんだよ。特に女の子は絶対にそう。結婚しなくてもいいとは……誰も言ってくれないからさ……」

「はい、それは私からも両親からも瑠璃に伝えています。本人も段々理解しています」

「そっか……うまくいくといいね。うまくいって欲しいなぁ」


 しみじみと言われて、あやめは胸が温かくなった。


「ありがとうございます」


 四季の代行者の血族は不自由の中で生きることを決められた者達だ。

 小さな枠組みの中で自分の幸せを探さなくてはいけない。

 それ故に、連理の『うまくいくといいね』という言葉が嬉しい。

 本当に瑠璃の幸せを願っている祈りが込められていた。

 自分にとって大事な存在を彼も大切に思ってくれている。

 あやめは連理の優しさに胸が温かくなった。

 だが、彼から喜びを貰っていることをあまり表情に出さないように努めた。

 

「ええと……本題からそれましたね。どこで会議しますか。式のこととか」

「会議じゃなく相談ね、相談。少し離れた場所だけど、良い庭園見つけたからそこで散歩でもしながら話そうよ。きっと気に入るよ。今日はあやめちゃんの気分転換も兼ねてるから」


 こんな風に、優しくしてもらって絆されるのは良くない、とあやめは嬉しい気持ちを堪える。


「別に、そこらへんの藪でも……」

「子どもの秘密話じゃないんだからさぁ」

「でも……」


 あやめには彼の優しさを甘受してはいけないと思う理由があった。


――近づき過ぎてはだめ。私達の間に愛はないんだから。


 葉桜あやめと老鶯連理。この二人の婚姻にはからくりがあった。


 連理は夏の里名家の次男。

 親に何もかもお膳立てされた見合いを断りたいと悩んでいた。

 

 あやめは夏の代行者護衛官。

 結婚することで役目を降りて、自分の人生を生きてみたかった。

 

 二人はどちらも生まれ育った場所が窮屈で、しがらみから逃れたかった。

 けれど、血族を管理する里から自由を勝ち取ることは不可能に近い。

 せめてもの反抗は、自分を束縛しない相手を伴侶として選ぶぐらいなものだ。

 

 だからあやめと連理は自由になる為に互いを利用することにしたのだ。

 

 結婚もする。一緒の家にも住む。ただそれだけ。

 家族や里に義務を果たしたと証明したら互いに好きに生きようと。

 束縛しないと何度も確認し合って結束した。

 

 いわゆる契約結婚だ。

 

 好きでもない契約相手に恋をされたら困るだけ。

 彼らは永遠に利害が一致した者同士であらねばならない。

 しかし、あやめは度々彼との距離を見失いそうになっていた。

 自分で自分に言い聞かせなくてはならないほどに。

 

――単なる共犯者なのに。


 彼に恋をしてしまっていた。


 この恋を誰が責められるだろう。

 

 孤独な少女は初めて家族以外で心を打ち明けられる相手と出会えた。

 それは正に極寒の夜に差し出された毛布のようなものだっただろう。

 責任感が強く、苦しいという言葉すらつぶやくことが困難な彼女も連理の前でなら年相応の女の子になれた。

 控え目にだが甘えることが出来た。

 その時間が『夏の代行者護衛官葉桜あやめ』にいかに必要なものだったかは今までの軌跡で見て取れる。だから彼女が恋に落ちること自体は何ら不思議ではない。

 不思議ではないのだが。

 

――どうしてこんなことに。


 本人は戸惑っていた。

 護衛官になって数年。あやめの生活は瑠璃が中心で、恋愛からはほど遠い世界にあった。鳥籠の中で育てられた鳥は惚れた腫れたを知らない。

 恋をすることなど計画外だった。

 ただこの窮屈な里から逃げられる手段があればそれで良かった。

 結婚はその手段だった。すべて冷静で合理的な判断だと思っていたのに。

 

――好きになってしまった。


 鳥籠の鳥は恋をした。激しい恋ではなく、静かな恋、忍ぶ恋だ。

 

――彼は私と結婚しないほうが良い。


 やがて愛を育む内に、好きだからこそ相手に本当に幸せになって欲しいと願い始めた。


――私達、間違っている。


 正しいか正しくないかと問われれば、二人の在り方は確かに間違っている。

 しかし今更だ。そもそも、そそのかしたのは他でもないあやめなのだから。


『……違う自分になりたい……自由になりたい……里に居ると、苦しいんです……』


 あの日、里から家出を決行した日。あやめは連理に泣いて事情を話した。

 峠で立ち往生して、助けてもらって、恥ずかしくて、悲しくて、色んな感情が決壊した。

 誰にも言えなかった思いを口にしてしまった。

 ずっと誰かに聞いて欲しかったのだ。

 この生活が辛いと。こんな人生は嫌だと。

 彼はあやめの突然の告白をけして無下にはしなかった。

 数分前まで他人だったのに。

 自分達、四季の代行者の末裔が真に自由になることは難しいと優しくあやめに諭したが、それでも何か手立てはないかと考えてくれた。

 そして、考えた上で応えてくれたのだ。

 

『俺……いま勧められてる縁談を断りたくて……同じように、自由になりたくて、それを勝ち取る為の戦いが出来る人と本当は結婚したいと思ってるんだ。つまり、その、恋愛とかじゃなく……打算になるんだけど、でもその代わり互いの生き方に干渉せず応援というか。友達というか……そういうの……あやめちゃん、どう思う……?』


 あやめの心からの悲鳴を聞いて、自分と手を組まないかと誘ってくれた。

 

『みんなに嘘つくことになるけど、嘘の結婚……俺としない?』


 一緒に自由になろうよ、仲間になる、支え合おう。頑張ってみないかと、言ってくれたのだ。

 彼にも利があったとはいえ、発端はあやめへの同情。それは揺るぎない。


――だからこそ、この婚約はしないほうが良かった。


 現在のあやめは、やはりそう思っている。

 連理のほうをちらりと見た。彼はあやめの返事を待っていた。

 庭園に行こうと誘った彼の提案にあやめは乗り気になれない。

 

「素敵な場所なら、私とじゃなく……本当に好きな人と行ったほうがいいですよ」


 彼を想うが故にそう言った。すると、連理は明らかにがっかりした表情を見せた。


「なんでそんなこと言うの……」


 責めるように言われて、あやめは胸が痛くなる。


「だって……後からそこに別の人と行きたくなったら私との記憶が邪魔じゃないですか」


――連理さんの為なんですよ。


 あやめは心の中でそう囁く。


――私に好きになられたら、困るでしょう。


 本当は何もかもぶちまけてしまいたいのを押し隠して。


――貴方が欲しいのは役割を演じてくれる女の子なんだから。


 だから、必要以上に仲良くしたくない。

 あやめの論理は、あやめの中では成立しているが、連理には通じていない。

 やはり悲しげに眉を下げる。

 

「俺はそう思わない……」

「新鮮な気持ちで、デートに挑めないですよね。とっておいたほうが……」

「そういうこと言わないでよ。俺はあやめちゃんと行きたいのに……」


 暗い声でぽつりと返される。


――どうしよう、怒らせたかしら。


 あやめが困って何も言えないでいると、彼はもう一度『いいから、行こう』と言った。

 有無を言わせない強さがあった。


「はい……連理さんがそう仰るなら」

 惚れた弱みだ。あやめは連理に乞われると断れない。




 結局、その庭園とやらに足を運ぶことになり、連理の車で移動した。



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