序章 妹の姿をした神様②
現人神を輩出した葉桜家の日常はすぐに様変わりした。
家族の中で神託が下った娘が現れたというのは非日常の始まりだ。
瑠璃はあれよあれよと言う間に大人達に管理されるようになった。
両親は瑠璃に付きっきり。何も出来ないあやめは里内にある学舎に通う以外は大人しく屋敷に居ることしか出来ない。
「……なんで? なんであたしなの? あやめは?」
そう尋ねる瑠璃に、両親は選ばれたのはあなただけなのだと何度も説明する。
四季を管理、運営する四季庁の職員達が夏の代行者に選ばれたことをとても名誉で素晴らしいことだと瑠璃に言い聞かせた。だが瑠璃は聞く耳を持たない。
「やだやだやだ! 神様なんてならない! 本殿なんていかない! あやめといる!」
確かに誉れある地位だが、現人神になった時点で人生を奪われたも同然だ。
その役割に就く者達は世界構造を動かす為の部品でしかない。
四季の代行者とは世界への供物なのだから。
「やだ、やだよぉ……」
瑠璃はみんなの為に生贄になった。
残酷なことだが、彼女の子ども時代もそれ以降の人生も現時点で奪われたのだ。
この役目が終わるとすれば、瑠璃が老いた時か若くして絶命した時だろう。
「瑠璃……みんなを困らせちゃだめだよ……」
「やだよぉ……ついてきて、あやめ、ついてきて……」
瑠璃が泣いてあやめにすがるが、やはりどうしてやることも出来ない。
突然授かった神通力を自由自在に使えるようになる為、瑠璃は夏の里の中にある本殿と呼ばれる里の中枢機関で修行をすることになっていた。
そこには代行者の住居も用意されている。
瑠璃があまりにも泣くので、両親が嘆願してとりあえず通いの修行になったが、いずれ家族と引き離されるのは目に見えていた。代行者は管理、警備されるべきもの。この世界に於いて現人神は世界を動かすシステム。
ちゃんと機能させる為には練習が必要だ。
修行の一年間は本殿で暮らしたほうが効率が良い。
「帰ってきたら遊ぼう、瑠璃……」
「やだ、やだ、やだ! あやめも一緒なの、やだぁっ!」
毎日これの繰り返しになった。
瑠璃が行きたくないと駄々をこねる。家の中に隠れたり、あやめにしがみついて泣きわめく。暴れる瑠璃を両親が抱えながら車で送迎をする。
あやめは屋敷の窓から車の行きと帰りを見守るしかない日々が続いた。
本人があまりにも頑なだったせいか、それとも周囲の支えが足りなかったのか。
瑠璃が夏の代行者として問題児であると噂されるようになるのにそう時間はかからなかった。
これほどまでに神様業を拒否する娘は中々居ないと悪い意味で評判になるほどだ。
幼い代行者を支える精神的支柱、代行者護衛官を配属させることが早急に求められた。
四季の代行者護衛官とは四季の代行者の精神と身体を守る為に存在する。
代行者護衛官の選定はその里によって、その代行者によって違う。
夏の里では近親者から選ぶことが多かったが、瑠璃は候補とされていた仲の良い従兄弟達も拒絶した。
というより、瑠璃の嘆きを受け止めきれる者が居なかった。
元々、人に操作されることを良しとしない娘だ。
感情のままに暴れている瑠璃を諌めて導ける者など限られる。
そうなってくると、矛先が向かう人物は一人しか居なかった。
双子の姉の葉桜あやめだ。
恐らく両親も瑠璃をなだめられるのはあやめだけだとわかっていた。
だが、両親があやめに『護衛官になれ』と強要することはなかった。
彼らからすると大事な二人娘の内一人は神様に奪われた。
あやめが護衛官になれば、もう一人も奪われるに等しい。
せめてあやめだけでも普通の暮らしをさせてやりたいと思うのは親心だろう。
瑠璃はというと、恐らく心の底からあやめを欲していたが、両親から口止めされているのか、自分でもそれはいけないと思っているのか、護衛官になって欲しいとは言わなかった。
ただ、家に帰ればすぐあやめの元へ駆けていくだけだ。
「もうやだ……! 明日はいかない。絶対いかないもん……!」
自分の部屋ではなく、姉の部屋の布団にくるまり、みの虫のようになる。そして世界全体を拒否した。精神が不安定なのは小さな身体に宿る神通力を使いこなせていないのも一因だ。
夏の代行者に宿る力、『生命使役』の権能のせいで、動物達の鳴き声が頭の中でずっと響くと瑠璃は嘆く。
これも鍛錬を積めば解決する問題だが、いかんせん瑠璃の気持ちが安定しない。
「神さまになんてなりたくない……なりたくないよっ……嫌だよぉ、あやめ……」
瑠璃にいま必要なのは、本殿での修行ではない。不安を抑えられる場所。
この人ならばと身を委ねられる、頑張る元気をもらえる心の拠り所だった。
「瑠璃……」
あやめは幼くして聡い子どもだった。
両親が自分を護衛官にしない理由を言われずとも理解していた。
瑠璃を見ていればわかる。神様になるのも、神様のお付きになるのも大変なことだ。
きっといま妹への同情心で手を差し伸べればいつか後悔するだろう。
――でも。
瑠璃が言う『あやめは?』という台詞を聞く度に胸が痛む。
――じゃあ瑠璃はどうなるの。
あやめは自分が選ばれなかったことに安堵していた。
と、同時に罪悪感も抱いていた。
もし、双子ではなかったらこんな感情は抱かなかったかもしれない。
瓜二つの娘。黙っていれば両親だって見分けが難しい。なのにあやめは免れた。
神様の選定に議論を挟む余地はないが、疑いはあやめの中にずっとある。
本当は自分が選ばれる可能性もあったのでは、と。
――私がやったことが決め手になっていたら?
あの時、瑠璃はボールをとれなかったのだ。
あやめが高く投げてしまった。
――あれのせいだったら?
実際は何の関係もないことだ。
けれどもあやめは瑠璃が選ばれた理由を、自分が選ばれなくて済んだ理由を、延々と考えてしまう。まるで呪いでもかけられているかのように。
朝起きるのは瑠璃のほうが早かった。
朝ごはんだって瑠璃のほうが食べるのが早かった。
両親へのおはようの挨拶はどちらが先だった?
どれも、今更考えたところで仕方ないことだ。
神様が行いではなく魂を見て選定をしているのなら意味がない。
選定理由は神様しか知らない。いくらでも『もし』を考えられる。
あやめはけして神様になりたいわけではない。だというのに妄想が止まらないのだ。
――私達、違いはあるけど、双子なのよ。
瓜二つという事実が、思考を深い闇に沈める。葉桜家に出入りするようになった四季庁の夏職員達が口走る陰口を聞いてしまったのも良くなかった。
彼らはこう言った。『妹じゃなくて姉なら良かったな』と。
大人しくて、気が強くなくて、管理する者達にとって都合がいい子どものほうが扱いやすくて楽だったのにと。彼らも『もし』を語っていた。
当然、あやめは憤った。
妹の良いところを何も知らないくせに、と。
――勇敢で、創造力があって、明るくて、正義感が強くて。
月のようなあやめは、太陽のような瑠璃を眩しく思っていた。
――瑠璃のほうが良いに決まってる。
そうだ。だからどれほど『もし』があっても、妹が夏の代行者なのは問題ない。
他の人が何を言おうと自分は瑠璃の素晴らしさを知っている。
彼女はふさわしい。そうだ、問題ないはず。だからこの考えはもうやめよう。
――あなたはふさわしいはず、きっとそうよね?
「あたし、神様になんてなりたくなかった」
――そのはず、だけれど。
「なりたくなかったよ……」
あやめがどんなことを頭の中で考えたとしても全てはこの言葉でリセットされる。
「そうね、そうよね……瑠璃は神様になんてなりたくなかった……」
あなたは神様にふさわしい。ふさわしいが、向いてはいない。
――代わってあげられたら良かった。
何か、神様からのサインを見逃して、瑠璃に押し付けてしまった可能性はないだろうか。
もしそうなら自分は大罪人だ、とあやめは思う。姉が妹に生贄の役割を任せてしまうなんて。
あやめは意味のないことを頭の中で繰り返し思い浮かべ続ける。堂々巡りだ。
可哀想な妹にしてあげられることは限られている。
同じ境遇に落とされた時、あやめなら瑠璃にどうして欲しいだろうか。
「あやめ……このままずっと……こうなのかな。もう、前みたいには戻れないの?」
瑠璃が泣きべそ顔でそう尋ねてきた。
彼女は自分が現人神になったせいで家族の在り方が変わったことを悲しんでいるのだ。
幼い妹は変化に耐えられない。
もう瑠璃があやめの寝台でぴょんぴょんと跳ねる朝は消えてしまった。
姉妹でおやつを分け合って笑い合う午後は訪れなくなった。
あの時使っていたボールはいつの間にか捨てられた。
家の中は常に通夜のようだ。家族はほとんど笑わなくなり、疲弊している。
両親は意見の衝突が多くなり、今まで見たことがなかった夫婦喧嘩をするようになった。
すべて、すべて、変わった。
ある日、妹が神様になった。その結果、色んなことが変わってしまったのだ。
前の家族は戻らない。もう二度と。
――嫌よ。
この悲劇的な流れを、少しでも良い方向に軌道修正出来るとしたら。
――そんなの嫌、なんとかしなきゃ。
やはり、あやめが奮い立つしかない。
神様になった妹は救いを欲している。
苦楽を共にすることで瑠璃を諭していける存在が求められていた。
荒れ狂う娘を見なくて済めば、両親も今より心が凪のように落ち着くだろう。
「……瑠璃、きいて」
幸いなことに、この時のあやめに悲愴感はなかった。
しなくてもいい理由は山程あるのに、する理由だけを見つめて勇気ある決断をする。
小さな葉桜あやめは聡明だが、その実ただの寂しがりやで。家族思いの娘で。
「瑠璃、私が護衛官になるよ。瑠璃を守るから」
愛されるより愛する子どもだった。
「お姉ちゃんがいるよ」
逃げたほうが良かったのに。
彼女が歩もうとしている道は困難だ。自分で地獄の門をくぐるに等しい。
過酷であろうことは既にわかっている。妹を守る為にあらゆる外敵を殺す覚悟が必要だ。
まだ十歳であっても。
「……で、でも……」
あやめの言葉で、陰っていた瑠璃の瞳にほんのりと光が灯った。
「……でも……それだと、あやめが……」
真暗闇の中で掴んだ希望。輝く何かを見た。
あろうことか、夏の神様が『姉』を信仰し始めた瞬間だった。
「……あやめがつらくなるのは、やだ……」
それでも瑠璃はすぐ頷かない。喉から手が出るほどあやめの存在が欲しいだろうに。
瑠璃はあやめが大好きなのだ。この優しくて賢い双子の女の子を苦しめたくない。
でも、欲しい。
同じ場所まであやめを堕とすことに躊躇いと、渇望と、救いが混在していた。
「瑠璃、いいの。私がそうしたいの。いっしょにがんばろう……ね?」
瑠璃はしばらく黙っていたが、やがてあやめに手を伸ばした。
涙が頬を伝っていた。みんなの為に生贄にされた女の子はようやく救いを得たのだ。
必死に自分にしがみつく妹を見て、あやめはこの判断の正しさを感じた。
よかった。きっとこれで何もかもうまくいくはずだわ、と。
ひどく善良で愚かな子どもは、そう信じていた。
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