暁の射手 ~春夏秋冬代行者外伝~⑤



 花矢様の背を追い続け、山道を歩くこと二時間。




 ようやく矢を射るにふさわしいとされている秘密の場所にたどり着く。

 一見するとただの崖だが、霊脈が満ち溢れているこの御山の中でも聖域と呼ばれる場所だ。


「…………はあ、はあ」


 二時間も歩けばさすがに息が切れる。今でこうなのだから年をとった時はどうなるのだろう。いや、それよりも俺達二人はいつまで元気にこの山を登れるのだろうか。


「疲れたなぁ」

「ですね」


 人の命の長さなど測れない。

 鳥籠の中で大切に飼い殺しにされている花矢様も俺も、明日不慮の事故で死ぬかもしれない。


「しんどいなぁ」


 人生はわからないことだらけだ。


「……やるか」


 だから『今を精一杯生きる』という、何処かの誰かが無責任に言っていそうな台詞はあながち間違いではないと俺は思う。花矢様は決意したようにつぶやいた。


「人々が朝を待っている」


 俺は頷いた。


「はい、どうぞご存分に」


 もう俺に出来ることはほぼ無い。暁の射手の出番だ。


「……」


 花矢様はいつもの決まった位置に立ち、深呼吸をした。

 繰り返し深く息を吐き、また吸う。

 彼女はいま何も手にしていない。

 弓も矢も無い。不要なのだ。

 花矢様が深呼吸をしていく内に、鳥も虫も風すら音を潜め始めた。

 山全体が静寂に包まれていく。

 この場すべてが彼女の為に作り変えられていく感覚が俺にも伝わる。

 朝を齎す為の神域と化している。

 暗闇の中で段々と彼女の髪が煌めいてきた。

 宵闇に溶ける黒壇の髪が真珠の輝きを纏う。

 この儀式に呪文も舞踏も魔法陣も必要ない。

 必要なものは彼女と山の澄んだ空気。


「弓弦、来た」

「はい」


 そして、彼女が安心して自分を任せられる相手だけ。


「あと、任せる」


 指先が動いた。先程猫背気味だった彼女の立ち方が真っ直ぐに直っている。


――違うものが入った。


 花矢様の中に、彼女とは異なる者が混在している。

 髪から放たれていた輝きはやがて全身を覆い、同じ煌きの光で出来た弓が段々と形を成していった。光の弓、光の弦、光の矢。架空の弓矢が象られていく。


――花矢様。


 俺は祈った。


――貴方もいつか自信を持てる日が来る。


 彼女の心の重さが少しでも軽くなって欲しいと。


――貴方はまさしくこの国の朝の神。暁の射手なのだから。


 この神事は神秘の観測者しか見ることが出来ない。

 熟練した巫の射手は神降ろしをしても意志が保てると聞く。

 まだ若い射手である彼女が、自信の力を確認するのはこれから迎える朝日しかない。

 だから俺は祈る。

 貴方の存在証明の為に祈る。


――朝よ、来い。


 金の弓を持つ少女が、闇に抱かれた空に狙いを定めた。



「放て」



 俺の一言で、暁の射手が大きく弓矢をひいた。

 夜を切り裂く一撃が放たれる。

 光矢は花矢様の手から離れた瞬間にその光を消した。

 彼女がゆっくりと背中から倒れていく。

 俺はすかさず腰を支えて抱きかかえた。そして空を見る。

 空を切り裂く矢の行方が俺には見えた。


「……」


 俺の主は気絶してしまった。毎度のことだが、肝が冷える瞬間だ。

 神通力を瞬間的に極大使用した結果、射手は耐えきれず意識を失ってしまうのだ。

 守り人の出番はここから。

 彼女が寒くならないようその場にレジャーシートを敷いて毛布でくるみ、目覚めるのを待つ。

 この時間がいつも嫌いだ。花矢様はご自分のやっていることを不安に思われるが、俺はそれをしている花矢様を不安に思っている。

 このまま目覚めなければどうしよう、と。

 もし貴方が息を止めてしまったら、俺は此処で正気を保てるだろうか。

 だから、許しも得ずに手を握ってしまう。

 脈を確認していると安心出来る。


――貴方は知らないだろう。こんな風に待つ俺を。


 貴方の従者は年上の男だが余裕はなく、特に貴方のことに関してはそれが顕著になる。


――目覚めろ。


 朝と、貴方。


――目を、開けてくれ。


 どちらも目覚めるのを、俺も不安な心地で願っている。


――最悪、朝が来なくてもいい。


 願っている。


――俺が大事なのは、貴方なのだ。


 願っている。


――貴方の名誉の為に朝が来てほしい。


 願っている。


――しかし、本当のところは。


 願って。


――貴方が健やかでいてくれるなら、朝など来なくてもいい。


 願っているのだ。


 やがて、俺の祈りは聞き届けられる。


 翠嵐に暁が灯るのが見える。

 夜が終わる。

 すべて、事なきを得た。


 このひかりが、海を、山を、里を、世界を照らしていく。

 肌を刺すような空気が、やわらかく包み込む温度に変化していくのを身体全体で感じた。


 瞳に映るのは、宵闇に包まれていた空が少しずつ衣を脱ぐように変わる様。

 夜は毎夜死んで、そしてまた生き返るのだ。

 いま断ち切られた宵の天蓋も今日の内には蘇り、また空を星空で覆う。


 繰り返し続いていく毎日が、大いなる奇跡と犠牲によって作られていることを皆知らない。


 この景色を見る度にそれが少し口惜しい。


「朝は来たか」


 何時の間にか起きていたのか、暁の射手がかすれ声で聞いてきた。

 俺は、白くなるほど握っていた彼女の手を離した。

 しかし、花矢様はするりと抜けた俺の手を逃さないとばかりに掴んだ。


「ええ、来ました」


 そうか、と安心したように花矢様はつぶやいた。


 本当はそう思っていないはずだ。

 朝も夜も彼女を苦しめるものでしかない。

 他者の為に朝を齎すこと、それに生きがいを感じる方ではない。

 なのに毎度聞いてくる。そうであってくれと懇願するように。


 朝は来たか、と。


 花矢様は、俺と繋がれた手を愛おしむように撫でながら空を見た。


「良かった」


 貴方がしていることを世界中の人々は知らない。

 俺達がしていることは、誰にも評価されず、褒められることはない。

 だが、朝が来て、夜が来る。

 当たり前のように。貴方の犠牲で成り立つ奇跡で。


「……今日、晴れて、たくさんの人が楽しめる一日だといいな」


 年相応の少女らしいあどけない声で、そう言うものだから俺は涙が出そうになった。

 そう、この方はまだ幼いのだ。

 いつも凛々しくあるのは使命を背負っているからだ。

 俺も若いが、彼女のように消費された人生ではなかった。

 青春がちゃんとあった。


――花矢様、貴方は世界の犠牲になっているのです。


 貴方は人々の奴隷だ。

 現人神だなんだと言われているが、貴方は世界が正しく動く為の供物でしか無い。それを貴方もわかっている。

 だから、俺を必要としたのだ。

 自分を大事にしてくれた守り人の息子にすがった。



『お前も、私を大事にしてくれるか』と。



 俺は、貴方のことを可哀想だと思った。


 今もやはりそう思う。

 貴方が貴方らしくあれる世界がなぜなかったのだろう。

 貴方のことを好きになればなるほど、貴方を自由にしてあげたいと思ってしまう。


 俺は、この神様を愛してしまっているのだ。 


 頬を流れそうになった涙を、繋いでいないほうの指で拭った。


――花矢様、俺は貴方を愛してしまったのです。


 貴方がいつか死んでしまって、他の暁の射手に仕えることになってしまったら。

 そんな空想で泣いてしまいそうな程には、俺は貴方を。


「良い日になるといいですね……」


――貴方を大切に想っている。


「花矢様は、何かしたいことはありますか。貴方にとって良い日にする為に何か……」

「今日、か?」


 きっと、俺の声が揺れているのがわかっただろうに。

 花矢様は気づいてない振りをする。

 俺が貴方の不安を受け止めるように、貴方も俺の不安を受け止めてくれる。


「うん……そうだな」


 俺の主は少し思案してから照れくさそうに微笑み、囁いた。


「学校の帰りに、ちょっと良い珈琲が飲みたいな」

「そんなことですか」


 あまりにもささやかな願いに俺は笑った。

 笑うと、涙が零れてしまった。


「弓弦……」


 俺は、朝露ですと彼女の頬を撫でた。

 花矢様はまだ涙を浮かべる俺をじっと見る。そして、静かに俺を励ますように言う。


「……そんなことだよ。今日も無事朝が来て、弓弦が逃げずにそこに居てくれた。それでまあ、十分良い一日の始まりさ。本当は珈琲なんてなくてもいい」

「……」

「お前は違うかもしれないけど」


 俺はもう朝露という涙がない彼女の頬を撫で続ける。


――花矢様。


 貴方は可哀想な人だ。


――ご自覚がありますか。


 貴方は俺に甘えることしか救いがない少女だ。


――もっと怒っていいんですよ。


 貴方は結局のところ、ひどく善良で、ひどく悲しい、とても寂しい神様だ。


――俺は。




 俺は貴方が可哀想だから、貴方を愛したんじゃない。




 貴方は俺が貴方を哀れんでいることを知っている。

 今の涙もそう受け取るだろう。

 きっと、いつか告白しても、貴方は俺の同情しか信じない。

 哀れみで愛もくれていると。


 そうではない。


 そうではないんだ。


 俺は、貴方を愛しているから。

 貴方が一番大事だから、貴方を苦しめるこの世界が嫌いで泣いているというのに。

 貴方はいつまで経っても、俺を縛った事実しか見てくれない。


「花矢様」


 我が主は名を『花矢』と言い、この山から見える景色しか知らぬ少女だ。


――花矢様、俺は。


 貴方がもし逃げたいと本気で言う時は、世界から朝を奪ってもいいと思っています。

 しかし、貴方はそれをしないでしょう。


「花矢様。俺も貴方が居てくれたら、それで良いんですよ」


 俺は、貴方が。




 もっと我儘であってくれたらと。




 そう思う。



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