35.道は何処へ(2)
出現した羊頭の巨人は、体から蒸気のようなものを吹き上げながら立ち上がった。
くぐもった吐息が唾液と混じり泡となって口の端からこぼれている。
槍に付いた血を払い後ろに下がるオルベウ。
失敗に終わった突撃で巨人の腿辺りを突き破ったが、まるで痛みを感じた様子は無い。
「あなた、あれに気づいてたの?」
「いや……だが何かあるだろうとは思ってた……」
なんとなく、まともにやり合うつもりが無いと感じたのだ。
そして血臭が漂う最中に、エイスケとロナが到着し、怪物を見上げた。
「どっから現れたんだよ、あんな化け物……」
「うっ……」
ロナはその醜悪な姿に思わず口を抑えて目を逸らす。
ファルイエは彼女の背中を押し、遺跡に向かわせた。
「ロナちゃんは遺跡の中に入って。邪魔になるわ……回収作業をこなした後、中で待機しておいて」
「……はい。皆さん、気を付けて」
ファルイエの厳しい言葉にロナはぎゅっと口を噛んだが、ここで彼女に出来ることは無い。
おそらく支援魔法は空間の外までは作用できないのだろう。
程無く、ファルイエから前に渡された古代語の書かれた盤に魔力を送ると、姿を消す。
「エイスケは……何か外から攻撃できる武器とかは無い?」
「投げ矢はあるが、こんなちゃちい物ではな……せいぜいが囮になれるか動いては見るが、殴られただけで死ねそうだな」
巨人の体躯はエイスケ達の三倍はありそうだ。
上半身が異様に発達しており、人の体ほども有るその太い腕に打たれれば、おそらく無事では済まない。
「これ、渡しておくわ。治癒魔法程の効果は無いけど。オルベウ、あなたも」
そう言って彼女が渡してくれたのは、高価そうな薬瓶に入った治療薬。
体力回復の効果は見込めるが、恐らく、致命的な攻撃を受けてしまえばそれまでだろう。
「全員でやるのか? あのデカブツ」
「いえ、出来れば、二人でしばらく相手をして欲しい……後ろの子供が何をして来るか分からないから、先に片付けるわ。そうすれば、もしかしたらあれも動きを止めるかも知れないしね」
ファルイエは、未だ目を閉じている羊頭の奥の少年を睨みつけ、詠唱を開始した。
「風の撚糸 紡ぎて浮かべし天女の薄衣 時には羽 時には裂く爪となりて戦場を我が踊場と為せ……【
薄く透明な緑の光が彼女の体を幾重にも覆い、風の膜で包み込む。
「……すぐに戻るから、なんとかそれまで耐えて!」
それだけ言うと、身を軽くした彼女は、矢羽根のように風を切っていった。
揺らいで見える程のその速さに、巨人は何の反応も起こさずそのまま素通りさせる。
残されたオルベウとエイスケは、羊頭の巨人の眼が開き、こちらに向いたのを察して対角に距離を取るよう動き出す。
「気を付けろよ……人間が挽肉になるところなんざ見たくねえからな」
「ああ、必要以上には近づかずに、時間を稼ごう」
魔力が切れたのか、オルベウの銀鎧は光を失い、元に戻っている。
そうなると、鎧は重しになるだけだ……彼は脂汗を浮かべながら巨人を見やる。
だが、掌ほども有りそうな巨人の血走った眼は、オるベウの方を向かなかった。
エイスケは振り上げられた両腕に応じ、余裕をもって距離を取る。
文字通り丸太のような腕が地面に叩きつけられ、地響きを立てた。
「ぐっ……!」
足元が揺らぎ、不安定になったが飛び退る様にして次々と振り上げられて来る腕をなんとか躱していく。
『ブゥオオォォ……オォッ!』
「エイスケの野郎、うまいこと避けるじゃねえか……おいデカブツ! こっちを無視してんなよ……!」
定期的に降り落ちる拳を必死に回避する彼の反対側で、オルベウが勇敢にももう一度、手に持った槍を足に捻るように突き刺した。
何らかの感覚はあるのか、怒りの声を漏らして首の向きを変えた巨人に、エイスケは投げ矢を放った。
即席の連携は残念ながら角に当たって跳ね返され……一応気を引くことに成功してオルベウはその場を脱する。
あの巨躯では、槍による一刺しは大したダメージになっていないようだ。
「……早くどうにかしてくれよ、ファルイエ」
……切れる札はまだあるが、なるべくなら使いたくはない。
冷や汗を流しながらオルベウは声を漏らした。
――その一方で、飛び出したファルイエはホーリーと呼ばれていた少年へと迫り、投槍のように引き絞った手を突き出していた。
「来ると思った! まだあるんですよっ、手駒は!」
それを予想していたかのよう彼はに目の前で、両手に一つずつ持っていたガラス瓶の底を打ち合わせた。
途端に目の前で絡み合うように肉体が生成され、黒い魔物が出現する。
「――ッこの!」
ファルイエは黒い肉に埋まった腕を無理やり引き抜くと距離を取るが、魔物はすぐに反応して追随する様に攻撃を仕掛けて来る。
「気を付けた方が良いですよ! 小っちゃいのはすばしっこいって相場が決まってるんだから! それとこれもオマケにどうぞぉ……アハハハッ!」
少年は空中に黒紫色の光を幾つも浮かべ、ファルイエ目掛けて連続で放つ。
(冗談よしてよッ! 詠唱も無しに……何なのコイツ!)
襲い来る影のような魔物の拳を躱しながら、肉薄する魔弾を際どく躱していくが、途切れる気配が見えてこない。
じりじりと消耗を重ねながら迫られる決断……このまま相手の魔力が切れるのを待つか、それとも被弾覚悟で目の前の敵を始末するか。
「ふッ!」
彼女が選んだのは……後者。
一旦動きを止め、目の前の表情さえ伺い知れない魔物と打ち合う。
拳が頬を裂き、後ろに突き抜けたのと同時にファルイエは手刀に風を纏わせ一息に首を断ち、すぐにその場で体を亀のように縮めた。
そして雨の如く集合する紫弾に、たちまちに地面が掘り返されて行く。
数十もの魔法弾を連続で打ち込み煙が立ち込める大地を見ながら少年は会心の笑みを浮かべた。
「ハァ、ハァ……あれだけぶち込んどけば、流石にぐっちゃぐちゃになったでしょ……断末魔が聞けなかったのは残念だけど……あとは《魔人》を操作してそこの二人を潰すっ……」
ホーリーが足を動かそうとした時、彼はふいにそれが軽いように感じた。
いや軽いのではない……無い。
足元には横倒しになった膝から下の片足が倒れている。
「づっ……!?」
彼は支えきれなくなった体を地面に投げ出した。
うつ伏せになり持ち上げた頭の上から、突き出す一人の影。
「……オマエ、どう、やってっ!?」
後ろに向けた目が映すのは、月光を吸い込むように銀髪を拡げた女と、その冷ややかな灰色の瞳。
――あの瞬間、彼女は魔力弾を必死に弾きながら、一枚の布でその身を隠した。
魔法道具 《隠者の灰巾》。
覆った物の姿を周囲に溶け込ませ認識を阻害するそれをもって、彼女は砂煙に乗じて脱し、少年の背後に回っていた。
そして女は振り上げた腕に風の魔力を纏わせて、思い切り振り下ろす。
断頭台のように降り落ちる刃に、少年は真っ二つにされた自分の姿を想像し目を瞑った。
だが……大地に深く爪痕を残しながらも、手ごたえは無く……ファルイエは周囲を素早く見回した。
視界に捉えたのは、少し距離を離して少年を腰で抱えた痩せ男の姿。
「あ、兄貴……!? あれ……おいら」
「手間かけさせやがって、ボケナスが。 テメェは後で地獄を見させてやる……消えろッ!」
「がっ……!」
痩せぎすの男レドーは自分の背後に黒い穴を開け、ホーリーをそこへ思い切り蹴り入れた。
くの字に体を折り、悶絶しながら退場する少年。
最後に切り裂かれた片足をごみのように投げ入れ、レドーは穴を閉じる。
ファルイエは、息を荒げながら体を抑えた。
至る所に出血と打撲の跡が残り、その苦しさを紛らわすように彼女は男に話しかけた。
「見てるだけ、だったんじゃないの……? ちょっとズルいんじゃない、今のは?」
「おいおい、敵の話なんざ真に受けんなよ……あれもこれも俺らに取っちゃ全部遊びみてえなもんさ。まあ、それで納得できねえなら……俺が代わりに一撃タダで受けてやるよ」
レドーは挑発する様に人差し指を内側に振る。
「馬鹿にしてるの……?」
「単純な話だろうが。あの向こう二人は雑魚……つまりテメェが俺を殺せねえなら、もうお前らに出来ることは何もねぇ。死ぬだけだ」
手を大きく広げ、待ち受けるように胸を大きく張って、獰猛そうな犬歯を覗かせながら男は笑む。
「……良ぉく集中してやれよォ? テメェの全力を一気にぶつけてこい。そうしなきゃあ、オメェの後ろにあるもん全部、粉々に消えちまうんだからなぁ」
男から感じる大きな圧力を受け、ファルイエは後ずさりそうになる。
体から吹き出す汗は止まらない。
(駄目……弱気になっては。私が皆を、あの子を護らないと……)
戦ったあの少年よりも、恐らくはるかに格上のあの男。
自分一人ならとっくに逃げを打っている状況。
だが後ろにあるものが、それを許してくれない。
唇を噛んで震える心を押さえつけると、一本だけ残していた治療薬を一気にあおり、彼女は詠唱を始めた。
「……集え 空満つ風の光 嵐に変わりて彼我を阻む空隙を埋め 飛龍の千咬 壁を穿ちて 進む者に道を開かん……」
周辺の気流が渦を巻き、次第にそれは収束しながら、ファルイエとレドーの間に風の道を作り出していく。
次いで彼女の前に凝縮した光が集まり、作り出したのは翡翠色に輝く一本の光の槍。
彼女はそれを、左手に形どった魔力の弓につがえる。
翠光に照らされながら、その槍を目いっぱいに引き絞ると、撃ち放つ。
「……【
光槍は空気の壁を突き破るように高音を奏でながら飛び、途中で幾重にも分岐する。
それぞれが小龍の形を成したそれは絡み合いながら一面の砲光と化してレドーに襲い掛かって行った――。
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